小説(長編小説)ラ・ク・リ・マ|NO.000


「それ」の意識は、突然覚醒した。
 あまりに唐突な覚醒は、「それ」自身を驚かせ、困惑させた。
 自分の意志で目覚めたのではない。そもそも自分の意志で眠っていたのですらない。
 強制されていた睡眠。
 突然の覚醒。
「それ」は深い当惑を覚えながら、閉ざしていた瞼をゆっくりと持ちあげた。
 瞼の下の暗がりから解放され、視界が明るい琥珀色に染まった。眩しさに、幾度か目を瞬かせる。目の前を水泡が、踊るように揺れながら、上へ上へと上っていった。それを追って顔をあげると、頬の脇で自分の髪がゆるやかに揺らめいた。
 どうやら自分は、何か液体の中にいるようだ。
 ──液体?
「それ」は目を見開いた。
 唐突に、自分を取り巻く状況が飲みこめた。


 水滴が身体から零れ落ちて、床を濡らす。外気に触れて、濡れた体が小刻みに震える。「それ」は白い息を吐きながら、視界を覆う前髪をかきあげ、顔をあげた。
 眼前にそびえ立つのは、巨大な円筒形の水槽だ。周囲の闇に琥珀色の光を投げかけるそれは、幻想的に美しく、それでいて「それ」の心をひどく不安にさせた。
 周囲には様々な機械が並んでいる。波線を描き出しては、単調な機械音を奏でるモニタ。次々と数字を叩きだしては、ランプを点滅させる用途の知れない機械の群れ。
 水槽の水面が大きく揺れていた。縁からはみ出した液体が、ガラスの表面を伝い落ちてゆく。中では、無数のコードがつなぎとめていた主を失い、ゆらゆらと心もとなげに揺れ動いていた。
「それ」はそっと目を伏せ、深くうなだれた。
 そのときだった。
 冷たく静かな室内に、警報がけたたましく鳴りひびいた。
「それ」は顔を上げ、素早く立ちあがる。周囲を取り囲むのは闇、闇、闇。出口はおろか、部屋の広さすら分からない。だが「それ」は躊躇わなかった。
 走り出す一瞬前、装置の上に服が置かれているのに気づく。まるで用意されていたかのように、きちんと畳まれたそれを取りあげ、「それ」は力強く足を踏み出した。


 ──1ブロ……04型、走……。第1……ク、……4型……脱走。
 機械音声がサイレンにかき消されながら、人気のない深夜の建物内に警告を発する。同時に、すでに落とされた照明の代わりに、赤い非常用照明が廊下を冷たく照らした。
「それ」は飛ぶような速さで駆けぬけた。
 死角から次々と出現し、立ちふさがる警備ロボットを巧みにかわし、長く味気のない廊下をひた走る。
 濡れた体がひどく重い。それでもその速さは衰えない。
 廊下が終わる。行き止まりだ。振りかえれば、執拗に追いかけてきたロボットの群れが、攻撃の態勢を見せていた。
 周囲を見回す。あるのは正面の、分厚いガラスの窓だけ。
「それ」は勢いよく床を蹴った。
 そしてロボットが一斉に武器の駆動音をたてるのと同時、「それ」はガラスを突き破って、虚空へと身を投げだした。


 地面に叩きつけられるとともに、強い衝撃が身体を駆けぬけた。視界にノイズが走り、一瞬ブラックアウトが起こる。
 強烈な衝撃を身を丸めてやり過ごし、「それ」は視野に色が戻るのを確認してから、地面に手をつき上体を起こした。
 ──?
 手に伝わる感触が、やけに硬くて、でこぼこしている。見ると地面は土でもコンクリートでもなく、無数の機械が折り重なってできていた。
 困惑しながら頭上を見上げると、そこには巨大な建造物が、黒い影となってそびえ立っていた。見上げるほど高い位置にある窓が割れ、そこから非常灯の赤い光が漏れている。
「それ」はゆっくりと立ち上がり、機械の地面の上を一歩、一歩と歩きはじめた。
 痛みはない。かわりに、体がやけに重く感じられ、意識が朦朧とした。それに、とても寒い。けれど少しでも建物から逃げておきたかった。
 足を引きずるようにして、必死に歩く「それ」。
 だが、限界はすぐにやってきた。
 よろめくように足が止まり、倒れかけた体が何かにぶつかって止まる。見下ろすとそれは、他の機械よりも突出して埋まっていた何かの機械だった。「それ」は自分の体重を支えきれずに、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
 頭の芯が重くなり、視界が霞んだ。睡眠プログラムのゆるやかな作動に似ている。
 眠ってしまっても平気だろうか。ここはどこだろう。安全だろうか。
 モヤのかかった頭で必死に思考する。答えは得られない。情報処理機能が上手く働かない。
 そのときだった。
 閉じられかけた視界の隅に、目も眩まんばかりの輝きが映った。
 最後の気力を振りしぼって、「それ」は顔を持ち上げた。
 深夜もとうに過ぎた時刻。その闇深い夜空に、光の奔流が見える。
 天の頂きを目指すように、どこまでもどこまでも伸びる、色とりどりの光の群れ。
 ──あれは……?
 ──なんて、きれいなんだろう……。
 まるで、自由を手に入れた「それ」を、祝福し、歓迎してくれるように。
「それ」は動きの鈍い手を、輝きの方へと伸ばし、笑った。
 美しいその光景は、ゆっくりと閉じられてゆく瞼裏に、しっかりと焼きつけられた。


 不安をも打ち砕く、大きな希望と期待とを胸に宿し、
 その意識は、再び閉ざされた。







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