物語の断片集

COUNT DOWN JACK : 0


 月明かりはあった。
 星の光すらも瞬く、明るい夜だった。
 なのにその男の存在は、まるで全ての光を消し去るような闇で作られていた。

「あー、何か俺好みなガキいねぇかなー……」
「……お願いですから、それ、公共の場で言わないでくださいよね」
 新聞記者ドロイは夜道を背を丸めて歩きながら、ぼそりと呟く。危険な発言を聞きとがめ、嫌々ながら毎度の突込みを入れるのは、部下のアスターだ。
「…………」
 ドロイはもはや第一関節ほどの長さもない煙草を八重歯で噛むと、白けた目でアスターを振り返った。
「お前がせめて俺好みだったら、日々かくも飢えはしなかったものの……」
「や、やめてくださいよ~っ気色悪いですから~!!」
「人の趣味に気色悪いとは何だ、給料ぶんどんぞ……」
「ちょ……!言っときますけど、あなたが一応真っ当に仕事をして、男問題で不始末起こして仕事クビにならずに済んでるのも、僕のこの魅力的なでぶっ腹のおかげなんですからね!」
 アスターはぽよんと太めの腹を自慢げに突き出して、丸い頬を誇らしげに赤く染める。
 それを不気味なものでも見たかのような引きつった目で流し見て、ドロイはおえーっとその場に吐いた。
 ──そんなふざけた会話の途中のことだった。
 夜の帳を引き裂くような醜い男の悲鳴が、どこからともなく聞こえてきた。
「……おいアスター!」
「ハイッ、メモの用意はバッチリですよっ」
 穏やかだった夜は一転した。
 柔らかくさえ見えた明るい夜が、突然頭上で渦を巻き、変化してゆく。
 月を呑み込み、星々を呑み込み、明かりの燈ったバクス帝国の町々すらもを呑み込んで、闇が、拡大を始める。
 そしてドロイたちが悲鳴のした場所へとたどり着くよりも前のことだった。
 突如、前方の路地から、金色の獣が飛び出した。
 いや、それは獣などではなかった。
 長い、風をまとったように長い金髪の青年──いや、少年だ。
 闇に沈んだ帝都を一縷の風のように駆け抜け、少年は、不意にドロイを振りかえった。

 それは闇を生み出す獣だった。

 不気味に見開かれた眼が、炯々と狂気の色を輝き放つ。
 遠目であったにもかかわらず、ドロイは少年の瞳孔が死者のように開いているのを見て取った。
 夜に乗じていたにもかかわらず、少年が歯を剥きだしに笑っているのを見た。

「あれは……!」

 血の香りが夜に散る。
 時計の針が十二時を回る。
 狂った鴉が夜に飛ぶ。

 死を刻む連続殺人鬼「カウントダウン・ジャック」
 新聞記者ドロイが、その狂気の殺戮者を見たのは、これが最初であった。


COUNT DOWN JACK : 1


 誰かあの子の不浄な魂を、
 救われるべきではないあの穢れた心を、
 神さまに見つからぬようそっとそっと、
 物陰から、救ってやってください……。

「おっさんが抱きしめてやろうか?え?」
「……ヤニ臭いからいやだ」
「……お前の血の匂いよりマシだと思うけどねェ」

 ──カウントダウンジャックが、貴方にお会いになります──
 美しい貴婦人に導かれて、古びた集合住宅に足を踏み入れた新聞記者は、部屋の隅で一枚の布キレに包まって、膝を抱えて座っている少年を見つけた。

 時、カウントダウンジャックの公開処刑より三日後のこと。

「……おっと待ちな。俺はお前が奴だと信じるとは言ってないぜ?」
 口は災いのもと。軽いからかいのつもりなら、口にすべきでない。
 ヒュン……ッと空気の裂ける音がして、目の前から少年の姿が掻き消える。
 首をかしげる間もなく、衝撃で床に押し倒されたドロイは、自分の上に獣のように覆いかぶさり、光のない眼を殺意でぎらつかせた少年を唖然として見上げ、口端からポロリと煙草を落とした。
「……信じたか」
 いったいいつの間か、自分の首には、カウントダウンジャックが愛用しているという鞭が、あざけるように緩やかに、巻きつけられていた。
「……身をもって」

 これが物語の始まり。


COUNT DOWN JACK : 2


「……お前さ、何歳だっけ」
 夜の影がわだかまる部屋の隅で、震える呼吸を繰り返す少年に問いかけると、少年は合わぬ歯の根から嘲笑を漏らし、ぎらつく眼光で新聞記者を睨みつけた。
「わすれた」
「……じゃ、教えてやる。今年で17だ。……ご要望通り、調査結果が出たよ、カウントダウン・ジャック」
 平たい表情で伝えてやると、少年は歯を軋ませて、獣のように唸った。
「よこせ」
「…………薬でもヤッてたのか?」
 どこか焦点の合わない目つきと、不自然に震える体を見下ろし、記者はくわえ煙草の煙で線を描いて、狭く汚い部屋を見回した。
 しかし少年が答える様子はない。
 記者はやれやれと頭を掻いて、改めて少年を見下ろした。
 窓から差し込む月光から逃げるように、影で身を縮めた狂人──既に93人という途方もない人数を血祭にあげてきたこの殺人鬼に、哀れみを覚えるのはあまりに偽善的だろう。
 人間性の欠片も残っていない目つき。
 血塗れた良心は既に白い部分すら残さない。
 新聞記者はいつもの人を喰ったような目を細めた。
「俺は……お前には人間性の欠片も残ってないんだと思ってきたがな……訂正する」
 そして一歩一歩と、少年の方へと歩み寄る。
「残ってないんじゃない。お前にははじめっから、そんなもん、なかったんだなぁ。……覚えてねぇんだろ。自分がカウントダウン・ジャックでなかった頃の記憶なんて」
 かつて境界線を引かれた辺りを踏み越え、記者の足は殺人鬼の領域に、土足で侵入した。
「やっと分かったわ、お前が俺に接触してきた理由が」
 カツン……固い革靴が音を立てて止まる。
 爪先のすぐ向こうには、小刻みに震える少年の爪先。
 記者はまだ若い殺人鬼を見下ろして、その理由を、小声で囁きかけた。
 記者の影に押し潰された少年は、哀れなほどに小さく見えた。
 どうやら自分は、偽善者だったらしい──記者は皮肉げに苦笑した。

FELKA : 1


 気がついたら、ホーバーの袖を引いていた。少年は驚いた顔で足元を振りかえり、フェルカの存在に気がついて首をかしげた。
「……なに?」
 瞬間、前髪で覆われたフェルカの瞳から、涙がこぼれた。
 表情の薄いホーバーがはっきりと戸惑いを見せるほど大粒の涙が、ぼろぼろと頬を伝う。
 まだ幼すぎて――自分の激情を言葉にして伝えるには、フェルカはあまりに幼すぎて、ただ袖をぎゅっと握りしめ、フェルカは嗚咽をあげて泣きじゃくる。
「……め……なさ……」
「……え?」
「……め……い……」

「……ごめんなさい……っ」

 ジルサンは渋い顔で、目の前の男を見つめた。
「フェルカの件だが、悪いが……他を探せ」
 船長の言葉を受けて、男は表情のない顔に暗い笑みを宿す。
「精霊の血はお断りか」
「お断りなのは、子供だ。ガキを戦場に引きずりだすお前の神経を疑う」
「だがアレは、精霊術を使う。使い物になるぞ、ジルサン」
 ジルサンは押し殺した溜め息を吐き出し、傍らのレイジスを見上げた。レイジスもまた答えるべき言葉が見つからず、ジルサンに首を振って、無言の溜め息を落とす。
「……子供と言うが、この船にはほかにも子供がいる」
 男は彼らの表情を無視し、平坦な声で続けた。
「あの薄気味の悪い碧い髪……あれも子供だろう」
「……ありゃ押しかけ女房だ。シャークもクロルも、しつこすぎて打つ手がなかったんだよ」
「精霊を一人乗せようが、二人乗せようが、変わりはないはずだ」
「だから、船に乗せないのは子供だからって言ってるだろう。勝手に問題を摩り替えるな」
「…………」
 男は表情のない顔からさらに表情を引いて、無言でジルサンを見つめる。
 それはあまりに不気味な視線だった。
 数多くの戦場に立ってきたジルサンですら、思わず背筋を震わせるほどの暗い瞳。
 そこには何の光もない。ただ闇だけがぽっかりと口を開いている――。
「……ギア。甥っ子だろう?」
 思わず、ジルサンは愕然と呟いた。
 男――フェルカの叔父ギア=ソルジュは、冷たさすら感じない顔で虚空を見つめた。
「あれは、精霊の仔だ」

FELKA : 2


「”精霊の血”が何だってんだ」
 ジルサン=バリーにはバクス帝国民の生理的な嫌悪感が理解できない。
 精霊の血を引いている。それが一体なんだというのか。
 ――メルヘンでいいじゃねーか。
 ホーバーの存在に気づき、フェルカは目に見えて緊張を解いた。いや、緊張を解くまで少年がそこまでの重荷を抱えていたことすら気づかなかったのだ。
 フェルカは見た目が普通だ。フェルカの方はホーバーをすぐに認識したが、ホーバーはそうではなかったらしい。突然泣き出した少年に困惑していた。
『ごめんなさい……っ』
 あれは誰への謝罪だったのか。
「来たか」
 船長室の扉が開き、ホーバーが顔を出す。そこにははっきりと戸惑いが刻まれていた。
「……あの子供……あれ――」
「精霊様の血を引いてるんだとよ。お前とは違って、身体的には何も特徴が出てない。だが……かなりキレてるらしい」
 ジルサンは指をふるって、何か魔術的なものを示唆した。
 ホーバーは目を見開き、「精霊使い……」と重く呟く。
「俺には正直理解できん。お前は生粋の帝国民だ。何でバクスの人間が、あそこまで精霊を忌み嫌うのか知ってるか? 教えろよ、うんざりだ」
「……さあ、それは……何でだろう」
「さあって……」
「多分、あんたが蜘蛛を見て、気持ち悪いと思うのと同じだと思う」
 眉根を寄せたジルサンの視線の先で、ホーバーは遠くを見つめる顔をした。
「生理的嫌悪……きっと人間は、最初から精霊とは相容れない」

鉛の花 : 1


 雨が降る。
 傷が痛む。
 鎖を穿たれた手首。
 骨を絡めて、巻きつけられて。
 雨が降る。
 傷が痛む。

 心が、痛い。

 遅寝の船員たちもが深い眠りについた真夜中。アレスはバックロー号の甲板を、伸びをしながら歩いていた。
 何気なく見上げればそこには満天の星空。風のまったくない海の凪いだ夜。夜空ばかりが星を流し、清流に似た星河を瞬かせている。
 何にともなくアレスは笑い、そのまま再び甲板に目を落とし──紅い眉を持ち上げた。
「メイ?」
 星々の光が眩しい分、物の落とす影は闇のように黒い。
 武器庫が落とす影の中、膝を抱えて星空を見つめていたのは、料理番のメイシャンだった。
 アレスの存在にはとうに気づいていたのだろう、メイは静かに彼を振りかえると、消え入りそうな微笑を浮かべた。
「随分遅い時間に散歩だね……」
 アレスは強面をにやりと笑わせる。
「小便だ」
 何故か誇らしげなアレスの物言いに、影の中からくすりと笑い声が聞こえてきた。
「トイレに行けばいいのに。海に落ちるよ、アレス……」
「馬鹿言え。こんな満天の星空の下で、立ちションしないで何するってんだ」
 気持ちいいぞ、と女のメイには分からないことを言って、アレスは呵々と笑う。
 メイはやはり静かに笑って、再び星空に目を向けた。
 彼女の動きに合わせ、膝を抱えた手首から垂れ下がる鎖が、しゃらり……と冷たい音を立てる。
 アレスはでかい欠伸をすると、船べりに背を預けて、メイに見上げる星空を自らもまた見上げた。
「……ここまで星があると、ゴミみてぇだな」
「うん。今夜は月がないから……」
 刹那、夜空にすい……と白い線が走っていった。流れ星だ。
「誰かがゴミを投げ捨てたね」
 メイは楽しげに笑うと、不意に表情を消して、抱えた膝の上に顎を乗せた。
「……今夜がこんな星空だなんて思わなかったな……」
 わずかに変わった口調を敏感に察知して、アレスはメイの様子を伺い見る。
「雨だと思ってた……」
 独り言に似た、小さすぎて語尾のかすれた呟き。
 実際、独り言だったのかもしれない。
 メイはいつも、どこか儚い。

「……雨の、夢を見たから……」

 しゃらり……と再び鎖が鳴る。
 アレスは懐から葉巻を取り出すと、口に食む。
 夜空に星が瞬き、幾筋もの流星が空に降る。
 葉巻の先が紅く燃えて、白い煙がゆらりと立ち上った。

鉛の花 : 2


「手で触れてみたい……」
 フェライドの言葉に私はドキリとした。
 それは、狂おしいほどの長い時、ずっと待ち望んでいた言葉だった。
 けれど彼は、私に一瞬の高揚を与えた後、自嘲するようにひっそりと呟いたのだ。
「……あの子に」
 細められた苦悩の眼差しの奥深く、そこには愛しみの光があった。

「メイ……メイ!」
 アリファの呼び声に、彼女の部屋を設えていた私は顔を上げた。
 アリファは私を見つけると、花開くように微笑みを浮かべた。
「メイ、ここにいたのね。……ね、腕を出して?」
 なんて可愛い子。彼女はいつも華やかだ。
 誰からも好かれる愛しい子……アリファ。
「市場に行ってきたのよ。誘ってくれたの、フェライドが」
 私の肩は僅かに震えた。けれど多分彼女は気づかなかったはずだ。
 アリファは頬を赤らめて、続けた。
「貴女にお土産を持ってきたの……だから、さぁ、腕を出して?」
 私は吸い込まれるように腕を差し出した。

「……メイシャン=ルワーチェス、か」
 板に張り付けにされたメイの首からかかったプレートを手にとって、公的海賊の船長ジルサン=バリーがつまらなそうに呟いた。
「で、お前の罪歴は」
 素っ気無く問いかけ、ジルサン船長はおもむろに板に繋ぎとめられた、鎖穿たれたメイの腕を解放した。板から外されたメイは、どさりと床に堕ちると、ぼんやりと両手首の鎖を見下ろして、囁いた。
「……血の腕輪……花咲く壁……ヒトゴロシ」
 意味を成さない言葉の連なりに、ジルサンは大した興味を示さぬまま、メイの腕を取って立ち上がらせた。
「ようこそ、犯罪者たちの最期の地、バクスクラッシャーへ……」

貝殻の樹


「約束して、ラギルニット……」
 少女はふわりと微笑み、その青い肌に天上からの光を通した。
 まるで海の底から水面を見上げたように、少女の肌は透き通り、淡く波打つ。
「かならず助けに来ると約束して……」
 内側から放たれる青い光の中で、恍惚と目を伏せ、少女は泡を吐きだした。
 ぽわりと吐き出されたそれは、しゃぼんのように空をゆらゆら舞い昇っていった。
 それがとても愛しくて、胸が張り裂けるほどに愛しくて、ラギルニットは必死にうなずいた。
「うん、うん……! おれ、必ず君のこと助けるから……!」
 だから待っていて。けれど、その言葉は声にはならなかった。
 少女の放つ光はもはや正視できぬほどに眩く、ラギルニットは両腕で目を覆い隠した。

 やがて光の消えた暗黒に舞い戻ったラギルニットは、掲げた腕の間から、静かに水平線を睨みすえた。
 赤い瞳を細め、唇を引き結び、少年は冷たい海風に黄金の髪をなびかせる。

「待っていて――カラ・ミンス」

孤島の大泥棒


「……っ!」
 鳩尾を蹴り上げられ、ログゼは体を折って床に倒れこんだ。
 こみ上げてくる吐き気。咳き込むと吐き出される血の混じった胃液。目の前がちかちかして焦点が合わないのと、噴き出す脂汗が目に染みるのとで、ログゼはぐっと目を閉じた。
「何故船に忍び込んだ!」
 朦朧とする頭に、閃くように男の怒号が叩き込まれ、力なく顔を上げると目の前には強面の数人が、自分を見下ろし立っていた。
 ログゼは黙っていた。別に反抗しようとしてではない。ただ頭の中が靄がかったようにすっきりとしなかった。問われていることは分かるが、その内容がうまく理解できない。頭がまるで回らない。
「……いてぇ」
 ログゼは錯乱した頭を地面に落とし、呻くように呟く。途端脇腹を乱暴に蹴られた。
「誰もてめぇの具合なんか聞いてねぇ……!質問に答えろ、クソ野郎!」
 霞む視界の中でそう叫んだのは、片目に眼帯をつけた男。その青筋だった様子は相当キレた風だったので、ログゼはとっさに自衛のために身を固めた。
 だが再度蹴られることはなかった。そのかわり、眼帯男の後ろに立っていた男が、吸っていた煙草を手に近づいてきた。スッと屈むと、男はログゼの鼻先に煙草を突きつけて、薄く嘲笑する。
「礼儀を教えてほしくなきゃ、質問に答えろ。……お前はバクス帝国の者か」
 聞かれている意味が分からず、それ以上にゴミのように蹴られているこの状況に腹がたち、ログゼは大仰に眉をしかめた。
「違ぇよ……バーカ」
 えらく背の高い男だった。体格差は強がってみてもかなりある。だがそれが自分にとって相当な不利であるという当然の考えが、朦朧とした頭にはどうしても浮かばなかった。
 怒りまかせの罵りに、男は片方の眉を持ち上げて、鼻で笑った。そのまま立ち上がり、何も言わずに背を向け──刹那。
「……ぐ……っ!」
 背を向けたはずの男が突如振り返り、ログゼの顎に回し蹴りを喰らわせた。後ろに吹っ飛び、骨が砕かれるようなその衝撃に、気の遠くなってゆく自分を感じる。
 薄れてゆく意識の中で、男が呟くのを聞いた気がした。
 ──感謝しな。痛みに怯える隙を作ってやらなかったんだからな。
 ログゼは呻いた。
 いてぇよ、アホ……。


宿命の十字路


 放り投げられた銭袋を見下ろし、店長は剣呑と席についた客に眼をやる。
 旅人と思しき客だった。頭をすっぽりと覆った外套は薄汚れ、カウンターの上に乗せられた腕も、日に焼け、垢がこびりついている。
 しかし隠された顔の脇から、こぼれるように肩に落ちた髪は、驚くほど鮮やかな赤色をしていた。
「……お客さん、注文は何だ?」
 店主としては、怪しい客であっても、金があるなら問題はない。
 低く問いかけると、客は興味がなさそうに口を引き結び、ほんのかすかに隣の客の皿を見つめた。
「……あいよ」
 同じ皿でいいということだろう。勝手に解釈し、店主は低くうなずいた。
 ――店主が厨房に去るのを見送り、旅人は外套の落とす影の下から、店内にじっくりと視線を走らせる。
 客は全部で七人。壁際に二人、カウンターに自分を含めて二人、中央の席に三人。
 そしてもう一人、新しい客が扉を押し開けて、酒場に入ってくる。
 冷たい金髪の男。耳には血の珠を思わせる赤いピアス。檸檬色の瞳は冷酷に輝き、見る者に威圧感を与えてくる。
 男は革靴を鳴らして店内を横切り、カウンター席に先に座っていた男の側に腰を下ろした。
 旅人は外套の内からそれを観察の眼差しで見つめる。
「……守備はどうだ」
 先に座っていた男が、おもむろに口を開いた。
「悪くはない。あの丸眼鏡、情報屋としての腕は確かなようだ」
 後から来た金髪の男は低く笑う。しかしその笑い方は、面白いとも思っていないような感情のこもっていないものだった。
「あいつらがこれまで逃げのびることができたのは、あの男の存在が大きい。決して、眼を離すな」
「ああ。恋した女を見つめる頭の悪い男のようにね」
 その瞬間、それまで後頭部を向けていた男が、視線だけで旅人を振り返った。

「何を見ている、レディ?」

 冷酷な視線。獲物を射殺す獣の眼。突き刺さるような、殺意。
 旅人の本能的な闘争心が、男の放つ殺意に引きずられた。旅人は反射的に、自分でも気付かぬうちに腰に下げた短刀を掴んでいた。
 そして瞬時に後悔する。これでは誤魔化すことすらもう適わない。
 だが旅人の緊張とは裏腹に、男は口元に冷笑を残したまま、あっけなく視線をそらした。
 旅人は警戒態勢を解き、短刀から手を離すと、同時に目の前に置かれた食事に目を向けた。
 逆に、その様子を、男の隣に座っていた客が見つめた。
 その視線もまた抜かりなく、そして前者の男よりも遥かに熱心で、食い入るようだった。

 ケナテラ大陸きっての大国、海明遼(カイメイリョウ)。
 ダヴィスカー大海を臨む商業港。
 そこは、歴史の交差点。
 東の大地で交わった、グランサークルのひとつの幕開け。

商人の禁じられた恋


「己の妻が、それほど醜いですか……?」

それは二人の意思など、一切無視された婚姻だった。
いや、無視されたのは男の意志のみであったろう。男にはその女を娶る気は欠片もなかった。女に男の妻となる意思があったかは不明だが、彼女の意思など無いに等しかった。
精霊の血を引いた、汚らわしい生き物。
男の恩師が仲介に立たねば、生涯を屋敷の奥深くで過ごしたであろう女だ。
嫁ぐ先が見つかっただけで幸いなのだ。
不幸だったのは男であった。
当時、別に想う相手がいたわけではない。だが一体何を好んで、精霊の血を引く者などを妻に迎えねばならないのか。
嫁いできた妻の顔を見た途端、本能的な嫌悪で背筋が震えた。
なんと醜い生き物だ。これが己の妻になるという、考えるだけで苛立ちとともに絶望が喉元に込みあげてくる。

女を迎えた最初の夜も、男に女を妻にする意思はなかった。
それを理解していたのだろう、女はただランプが一つだけ灯された寝室で、ただ壁だけを見つめていた。
ふと、女が口を開いたのは、沈黙ばかりが続いた半刻ほど後だった。
「アッシュ殿……」
初めて聞く女の声は、風のように微かで、綿のように柔らかだった。
返事をせぬまま、男は寝台に横たわり続ける。女の存在を無視するかのように。この婚儀がはじめから存在しなかったかのように。
女は静かな動作で男を振りかえって、小さく囁いた。
「……己の妻が、それほど醜いですか?」
思わぬ言葉に、男はおもわず閉じていた目を開き、女を見上げた。
そして男は、息を呑んだ。
闇の中、ただ微かな炎の揺らめきに白い肌を輝かせた女は、嫣然と微笑していた。
蒼い瞳は不敵に細められ、桜色をした唇は挑発的に笑んでいる。
そして彼女の不可思議な色をした髪は、白い首筋を流れて、衣服のはだけた肩に落ち、信じがたいほどに美しく、碧い光を弾いていた。
そう、女は美しかった。
壮絶なまでに美しく、気高い微笑が男を見つめていた。
自分の中に凝り固まっていた概念もが吹き飛ぶような、妻の美しさ。
それは男を狂わせるに十分だった。
ホバのご先祖様シェーラ=マーゴ嬢。
マーゴは旦那側の苗字なので、ゴロが悪いです。

この後、旦那は妻を深く愛してしまうのですが、精霊の血への嫌悪感が薄れてゆくことがどうしても自分に許せず、妻への愛と、自分への怒りに可哀相なほど板ばさみになり、生涯、自分の想いを彼女に伝えることはできませんでした。
シェーラは自分が嫁げるなど考えてもみなかったので、旦那の愛を得られるとは考えていなかった。だからこそ、最初の夜に旦那さんを誘い、ただ一度きりの機会だと覚悟して、枕をともにしたでしょう。他者からは決して得られない愛を、せめて自分から誰かに注ぎたかった……子供が欲しかったんだと思います、彼女は。
本当のシェーラは、きっと男を誘うような勇気も持てない、本当に奥ゆかしい女性だったと思われる。けれど気高さだけは自分に持ち続け、決して自分の身を呪ったりはしなかった、したたかで、ささやかな人だったと。
精霊の血さえ髪に出なければ、本当に、幸せな生涯を送った方だろうな。

ホーバーを美形という気はさらさらないけど、シェーラさんは正真正銘の美女だったと思います。外、内、ともに。

天輪崩壊(GRAND-CIRCLE 本編ボツ)


 ラギルニットは、目覚めてまず「しまった!」と頭を抱えた。
 真夜中に目が覚めてしまった!
「こ、怖いよぉ……」
 ラギルニットは薄い毛布でぎゅっと体を包み、おそるおそる辺りを見回した。
 ここが普通の町の宿ならば、あるいは慣れ親しんだ夜の海ならば別に怯えたりはしないが、昼ですら暗い森の中となれば話は別だ。
 ――んー……。
 びくぅ!!
「な……、なんだ!? なんだ!? 今の呻き声……!!」
 ぶんぶん首を振って視線を泳がせると、濃い闇の中にぼんやりと浮かぶ炎を見つけ、ぎょっとする。
 が、すぐにほっと息をつく。落ち着いてよく見ると、それは焚き火の明かりだったからだ。
 火の側の木の根元には、砂色の髪の青年が座っている。
 彼の名はパル。旅の仲間だ。
「なんだぁ、パル兄ちゃんか、よかった……。見張り?」
 旅の仲間は全部で三人。ひとりは、自分のすぐ側で丸くなって寝ている、踊り子のフェリス。もうひとりは、パルと焚き火を挟み、すーすーと寝息を立てている武器商人の娘ミュー。三人は交替で見張り番をしているのだが、今はパルの番らしい。
「おう。どうした?」
 パルは顔を上げる。ラギルニットはますますほっとし、毛布を引きずってパルの側にちょこんと腰を下ろした。
「えへへ……なんか目が覚めちゃって」
 言うと、パルはひどく真面目にラギルニットを見つめてきた。
 普段の陽気な表情が消えている。もしかして何か考え事でもしていて、邪魔でもしてしまったのだろうか。
「へぇ、そりゃよかったな」
 少し不安に思っていると、パルがそんなことを言ってくるので、ラギルニットはぶーっと頬をふくらませる。
「よくないよ! 夜の森ってこわくない……?」
「まあな。でもやっぱり、おめでとうって言っとく」
「……兄ちゃんがいじめる。だってふくろうとか、ホーホー言うんだよ!?」
「いいじゃん。一味違って」
「うー……。でもやっぱり昼の森の方がおれは好きだなぁ」
「オレは気にしないよ」
「そりゃまあ……」
「お前が人妻でも」
「あー…………」
 …………。
 はっ!?
 ラギルニットは目を丸くして、隣のパル――なんだか瞳をうるうる輝かせて、自分を見つめるパルを凝視した。
「スリルあるし。見つかるか見つからないかの瀬戸際が、快感」
 ……寝ぼけてるぅううぅ!!?
 ずざぁっと盛大に後ずさりし、何やら両手を広げて飛びついてくるパルから、ラギルニットはわたわたと逃げ出した。
 がばぁっ!!
「……っうわぁ!!」
 ぎゅーっ。
 後ろから突然抱きしめられて、ラギルニットはもしやパルかと勢いよく振りかえる。だがそこにいたのはパルではなく、フェリスであった。
 フェリスは幸せそうにラギルニットを抱きしめ、あげくに頬ずりをしてくる。
 ラギルニットは、ははは、と苦笑した。
「ね、姉ちゃんは、何の夢を見ってるっのかなぁー!?」
 フェリスは金髪を掻きあげ、華やかに微笑んだ。
「お金の山を抱きしめてる、夢ーっっ」
 ……っひぃー! やっぱり寝ぼけてるぅう!
「嫌やぁ――!!」
 今度は何だぁ!?
 後ろから抱きしめられたまま、ラギルニットはきょろきょろする。
 よーく見ると、近くの茂みの中で、ミューがかたかたと小刻みに震え、ただでさえ小さな体をちぢこませていた。ずるずるとフェリスを引きずって、ラギルニットはミューの顔をひょいと覗きこんだ。
「どうしたの、姉ちゃん。なにか怖い夢でも……おお!?」
 ぎょっとしたのも無理はない。普段は強気なミューが、薄幸の美少女よろしくぽろぽろと透明な涙を零していたのだ。
 ミューは恐々とラギルニットを見つめると、ふい……と顔を背けた。
「ゆ、許してぇな……。た、た、焚き火魔神……」
 だめだこりゃ。

 数分後、人妻大好き男と、金の山に埋もれた女と、焚き火魔神に追われている少女の対決の場と化した、夢と現の交錯地をどうにか逃げ出し、ラギルニットは、みんなが落ち着くまで散歩をしよう、と夜の森を歩きはじめた。
 昼間確認をしたのだが、野宿をしていた場所からわずかの距離に、小高い丘があった。丘の上だけ木が一本も生えておらず、空がよく見える。
 そこまで行くのは怖かったが、どんなに夜空が綺麗に見えるだろうという好奇心の方が勝った。
 近場だったこともあって、無事に丘のふもとにたどりつき、ラギルニットは緩やかな坂を一気に駆け上がって、わぁっと歓声を上げた。
 草地に仰向けに寝転がると、壮大な星の座標が眼前を覆いつくした。
「きれい……」
 まばゆい星明りを体いっぱいに浴びて、大きく息を吸いこむ。何だか星屑が体に流れこんでくる気がした。
 その時だった。
「……っ!?」
 突如の爆音に、とっさに身を起こし、すかさず立ち上がる。小高い丘から見える限りの漆黒の森を、ぐるりと見回し――見つけた。
 野宿をしていた場所より少し後方の林から、もうもうと白い煙が立ち上っていた。
「……なんだろう……」
 心臓がどきどきした。視界の隅に一瞬、赤い炎が閃いたのだ。どん……という地響きのような重たい爆音とともに。
「…………」
 ラギルニットは好奇心に目を輝かせる。
「こ、子供は素直に行動だっ」
 そして三人の仲間の迷惑も考えずに、ついでに自分の身の危険も頭の隅に追いやって、元気に駆け出すのだった。

 森に入ると、先ほど見えていた白い煙は樹木の天蓋に阻まれ、見えなくなる。
 だが直感を頼りに森を走りまわり、そろそろ迷子になった自覚が出てきた頃、ふたたび爆音が轟いた。
 前方の闇に、赤い光がほとばしる。先ほどよりもはるかに近い爆音に、ラギルニットは思わず足を止めた。
 戻ったほうがいいかもしれない――ラギルニットは怯む。 
 だがすぐにそれが不可能であることに気がついた。
 眼前の闇の中に、紅い小さな光が、いくつも出現する。漂ってくる、強烈な獣の匂い。そして唸り声。
 やがて姿を現わしたのは、狼によく似た獣。
 いや、魔物だ。
 体の半分が腐れ落ちた、狼型の魔物。だらりと垂れた舌から落ちたよだれが、地面を瞬時に溶かしてゆく。ジャックドッグと呼ばれる下級魔である。
 ラギルニットは無数の魔物を凝視したまま、身動きひとつ取れずに、立ち尽くした。思いついて、さっと腰のカトラスを探るが、普段使わない上に、今は寝起きだ、持って来ていない。
(どうしよう……)
 どっと汗が噴き出す。頭が真っ白になって、物を考えることもできない。
(どうしよう、どうしたらいい!?)
 魔物が身を屈めた。ラギルニットは知らず、後ずさる。魔物の光る紅眼がすっと細まり、腐った後ろ肢が地面を蹴った。
「……っ!」
 やられる!
 とっさにぎゅっと目を閉じる。
 刹那、誰かに腰を掴まれた。足裏から地面の感覚が消え、ふわっと体が上空に飛び上がる。
 あるはずのない不思議な感覚に、硬く閉じていた目を開いたラギルニットは、きょとんとした。
 気づけば、ラギルニットは木の枝の上にいた。太い枝の下では、魔物たちが上空の自分に向かって、盛んに吼えていた。
「あ……れ?」
 ほっとしながらも首を傾げたラギルニットの視界に、ふっ……と赤い何かがよぎった。
 何だろうと赤色を目で追いかけ、傍らを見た彼は、ふたたび目を丸くした。
 すぐ側に、女がいた。ラギルニットの腰に手を回して、落ちないように支えながら、無表情に魔物たちを見下ろしている、赤い髪の女。
 軽やかな夜風が吹き、ふわりと女の赤い髪が揺れる。
 視線に気づいたのか、女が顔を上げ、こちらを振りかえってきた。
 心臓が、高鳴ってゆくのが分かった。
 この人は。この女は――。
「メラス……姉ちゃん……!」
 ラギルニットは喜びのあまりに涙ぐんだ。魔物が吼えかかってくることももう気にならない。
 赤い髪の女。リュマーラ=メラス。
 かつて海賊バクスクラッシャーの窮地を救った女、ずっとずっと探していた――ラギルニットの旅の終点。
 彼女に会うために、海賊のみんなの元を離れて、旅を始めた。彼女がいるはずの海明遼国にも行ったが、結局会うことができなかった。それでも諦めきれずに、わずかな手がかりを頼りに探しつづけてきた。
 その人が今、目の前にいる。大好きな大好きな人が、確かに目の前にいる。
 メラスは、ラギルニットを覚えているのかいないのか、ただ表情なく見つめかえしてきた。
「おれだよ、ラギルニットだよ! あ、あのね……っおれ、ずっと姉ちゃんに会いたくて、探してたんだ! それで、あの……その……っ」
 一気にまくしたてるラギルニットの口を、メラスは大きな掌でそっと押さえる。静かに、ということだろうか。
 メラスは、ラギルニットの腰から手を離し、代わりに幹に掴まらせた。
 彼女の肩に大人しく止まっていた黒い鳥が、差し出された主人の手に嘴を乗せる。嘴からはさらさらと砂のようなものが零れ出た。かすかに火薬の匂いがする。
「…………」
 メラスはちらりとラギルニットを見やり、呼び止める間もなく、魔物の群れの只中に飛び降りた。ラギルニットが危ないと思うよりも早く、メラスは群れを駆け出て、木に背を向けて走りだした。それを魔物たちがすかさず追いかける。
 数秒後、メラスの去っていった方向に、三度目の爆音が轟いた。炎が一瞬空を赤く染め、獣の奇声が聞こえ……そして後にはただ、白い煙だけが闇の中に残った。
 辺りが静けさに包まれる。不気味なほどの静寂に、急に心細くなる。メラスの安否も心配で、かといって飛び降りることもできずに、ラギルニットは幹を掴んだままおろおろした。
 爆発の起こった方角から、ふいっと黒い鳥が飛んできた。ラギルニットの周りをぐるぐると飛びまわり、やがて少年の肩に舞い降り、おどけたように首をかしげた。
「鳥さん、姉ちゃん、大丈夫……?」
 答えてくれるはずもないと知りつつ、思わずたずねると、鳥はやはり答えずに肩から飛び去ってしまう。
 黒い軌跡を目で追い、ハッとした。
 森の奥から、メラスが姿を現わしたのだ。
「姉ちゃん、よかった! 無事だったんだ!」
 鳥がふわりと黒羽を広げ、メラスの肩に身を預けた。メラスは音もなく歩き、ラギルニットのいる大木の前で足を止める。そしてどこまでも物静かに、両手を大きく広げてみせた。
「……と、跳ぶの?」
 じっとメラスが自分を見ているので、何となく意を察して呟くと、彼女はほんのわずかにうなずいた。
「……うー」
 ラギルニットはうなる。飛び降りるには、この枝はあまりに高い位置にある。これが船の帆桁ならいいが、下が海面ではなく地面なのはやはり怖い。
 だが……見上げるメラスの目は、どこまでも静かだった。
 きっと受け止めてくれる。不意に、確信する。
 大丈夫。きっと大丈夫。
「……っよし、行っくよー!!」
 ラギルニットは思い切って立ち上がり、しがみついていた幹から手を離した。
「――っ」
 息が一瞬詰まったかと思うと、ラギルニットはしっかりとメラスに抱きとめられていた。その温かく、力強い腕。受け止めてくれたことが嬉しくて、同時に改めて再会の喜びが沸き、ラギルニットはそのままぎゅっとメラスに抱きついた。
「ありがとう、メラス姉ちゃん……っ」
 メラスは何も答えずに、ラギルニットをそっと地面に下ろした。
 あまりに反応がないことを不安に思って、メラスを見上げると、彼女はどこか優しい瞳で自分を見下ろしていた。
(そうだ、姉ちゃんはこういう人だった)
 いつも、何故かほわっとした気持ちにしてくれる人。
 何も喋らないし、表情もないけれど、存在がとびきり温かい――そういう人だった。
 メラスは無言のまま地面に座り、手品のように手のひらに火の玉を出す。それをひょいと自分の前に投げると、火の玉は、枯れ草も、木枝もない土の地面で、赤々と燃え上がった。
 焚き火だ、と思いついて、ラギルニットはメラスと向かい合わせにちょこんと座る。
 メラスは特に何も言わない。
 だからラギルニットは、話しはじめた。
 長い長い旅を始めた理由を。メラスを探しに来た理由を。
 海神カラ・ミンスが助けを求めている、悲しい悲しい夢を見たこと。カラの起こす荒波に飲まれそうになっていたら、メラスが手を差し伸べてくれたこと。それを頼りに、彼女がいる海明遼国まで訪ねたが、アッシュクラース連邦に行ったと言われたこと……これまでの経緯を大まかに話す。話はあちこちに折れ、分かりにくいことこの上なかったが、メラスは黙って聞いてくれていた。
「……姉ちゃん、カラは何から助けてほしいんだろう? おれ、どうしたらいいのかな?」
 だが全てを話し終え、そう問いかけると、メラスはどこか途方に暮れた表情になってしまった。
 ラギルニットは首をかしげてから、ああ! と頭を抱えた。
「ご、ごめん、姉ちゃん、そうだよね! おれ、夢の中で姉ちゃんが助けてくれたから、もしかして姉ちゃんなら、今、世界になにが起きてるのか分かるんじゃないかって……カラが助けを求めてる理由が分かるかなって……! でもぜんぶおれの夢なんだ、ただの夢で……それでいきなり、どうしたらいいか聞かれても困っちゃうよね……! うわ、ごめん、おれのばか……っ」
 ラギルニットはぽかぽかと頭を叩き、一息で謝る。
 内心では、ショックを受けていた。メラスならきっと何かを知っていると、ずっと期待をしていたのだ。大切な仲間から離れて、長い間旅をして――それだけあの夢は鬼気迫っていた。ラギルニットを追い詰めた。ただの夢だとは思えなくて……けれど、やっぱりただの夢だったのだろうか。この旅は全て無駄だったのか。悲しみがどっと込み上げてくる。
「……ううん、違うよね」
 ラギルニットは少しの間うつむいていたが、やがて笑って顔を上げた。
 なんの情報が得られなくても、それでもずっと会いたかったメラスに会うことができた。この広い世界で、偶然にも再会することができたのだ。それで十分だった。
「久しぶりに姉ちゃんに会えて、おれ、ほんとに嬉しい。バクスクラッシャーのみんなも元気だよ! まだ……まだみんなが幸せになれる方法、見つかってないけど――でもそれでも毎日、笑顔いっぱいで生きてるよ!」
 言ってから、ラギルニットはどきりとした。自分を見るメラスの目がとても澄んでいて、綺麗だったからだ。
「――……海の柱が崩壊した。知っているか……」
 静かだが、凛とした声が、ラギルニットに真っ直ぐ届いてくる。それがメラスの声だと気づき、驚いた。バクスクラッシャーにいた数ヶ月ですら、口をきいたのはほんの数回だったのだ。またメラスの声を聞けるとは、思ってもみなかった。
 ラギルニットは慌ててうなずいた。
「う、うん、知ってるよ。……でもそれが」
 言いかけて、ラギルニットはハッとした。
 海の柱。
 世界の四隅にそびえ立つ、巨大な柱。あれは普通、天の柱と呼ぶ。だがメラスは、一応は通じるものの、わざわざそれを海の柱と言い換えた。それはつまり、
「柱が壊れたことと、何か関係があるかもしれない……?」
 メラスはうなずく。
 そう、かもしれない。
 神様が、自分のようなただの子供に助けを求めねばならないほどの大事件。今、世界を揺るがすほどの大事件が起きているとすれば、それは天の柱の崩壊だけだ。
 天の柱の崩壊により、トゥーダ大陸への海路は塞がれた。それでなくても、近頃海がよく荒れる。魔物が出現し、異常気象が荒れ狂い……。
「……そ、っか。じゃあ……じゃあおれ、このままパルの兄ちゃんたちと、旅を続ければいいんだ」
 パル、フェリス、ミューとは旅を共にしているが、目的は全く異なる。
 だが天の柱が関わってくるなら、パルたちと目的が同じだ。
 ぽんと手を叩いたラギルニットに、メラスはわずかに眉根を寄せた。
「あ、パルっていうのは、おれをここまで連れてきてくれた人だよ。あと、ミュー姉ちゃんと、フェリス姉ちゃんがいるんだ。三人とも変な人だけど、すごく優しいし、楽しいよ! みんな、柱のことで旅をしてて……あ! 姉ちゃん、よかったら姉ちゃんも一緒に行かない!? 確か目的地、アッシュクラースだよね? おれたちもなんだよ!」
「…………」
 微妙な沈黙が流れる。
 ラギルニットはあれ? と首をかしげた。
「……一緒に、行かない?」
 メラスは若干、嫌そうに目を泳がせた。

温泉街(GRAND-CIRCLE 本編ボツ)


「うわっひゃぁああ!」
 ラギルニットは海明遼国騎州にある温泉街を前に、謎の歓声を上げた。
 狭い道の両脇に並ぶ木造建築の背後から、もうもうと立ちのぼる湯気。浴衣という衣装に着替えた人々が、下駄を高らかに鳴らしながら歩いている。
「こ、これが温泉! すごい、あったかい、かっちょいー!」
 子供らしい、素直な感想を聞き、メラスは外套の下で小さく微笑んだ。
「あ。あれなーに!?」
 示されたのは、道端に設置された東屋だった。中に温泉が引かれているらしく、老若男女が長椅子に腰かけ、足だけを湯に浸けている。
 メラスは首を傾げた。せがまれて連れては来たものの、自分も温泉街に来るのは初めてだ。あれが何という名前でどういう効果があるのか、メラスにもよく分からない。
 無言でいると、ラギルニットはニッと笑って、メラスの腕を掴んだ。
 そのまま東屋に連れてゆかれ、湯煙の中に二人揃って埋没する。
「あれぇ、外国からのお客さんだよ。珍しいねぇ」
 湯煙を団扇でかき消しながら、気さくなケナテラ女が声をかけてきた。海明遼国は他大陸との交流がほとんどないため、毛色の違うラギルニットが珍しかったのだろう。
「えへへ、タネキア大陸から来ました! おばちゃん、これは何をしてるの?」
「これかい? 足湯ってんだよ。温泉に足浸けてるとね、全身がぽっかぽかすんだ」
「ほれ、ここ空いてるから試してごらんよ。二人くらい座れるからさ!」
「うわあ、ためすー!」
 次々に声をかけられ、ラギルニットは躊躇いもなく靴と靴下を脱ぎ捨てる。
「姉ちゃんも一緒に浸かろう!?」
 隅に突っ立ったままのメラスに気づいて、ラギルニットが笑顔で促す。
 しかしメラスは微動だにせず、そっぽを向いた。
 異変に気づいて、ラギルニットは可愛らしく首を傾けた。
「もしかして姉ちゃん、温泉嫌い?」
 メラスは答えず、外套を深々と被りなおす。
 ラギルニットは赤い瞳を輝かせ、その場で楽しげに飛び跳ねた。
「やった! 姉ちゃんの弱点発見! メラス姉ちゃんでも苦手なものがあるんだね!」
 ひとしきり大喜びすると、ラギルニットはそれ以上無理強いせず、「じゃ、ちょっと待っててね」と一言言って、長椅子に飛んでいった。
 足元に引かれたお湯に足を浸けて、きゃーっと身震いするラギルニット。女たちがどっと笑い、足で熱いお湯を送ってやる。それらを湯煙越しに見つめて、メラスはひそかに微笑んだ。
 ――昔は自分も、お湯に入っては身震いしたものだ。
 遠い記憶に目を伏せて、メラスはお湯のぱしゃりという音に、耳を傾ける。

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