物語の断片集

あの哀しい色


 掲げた両腕の間から、夕焼けの柔らかな光が顔を照らす。
 寂しい色だ。人の心を掻き乱す茜の色。
 ──18歳になった。
 あれほどに愛したイリューザ大陸から引き離れ、異大陸の人間どもに運命を蹂躙され、穢れと暗黒と尊き血脈を幼き双肩に背負い、一体どれほどの月日が流れたのか。
 ファーは褐色の腕を下ろして、自分の目を覆い隠した。
「……どうしよう……レアロゥダ……」
 熱い息遣いの合間に、隣にちょこりと座る飛竜の仔に話かける。
「涙が……止まらないんだ……」
 くぅ……と子犬のような声で鳴いて、飛竜は若い主人の頭に、硬い顎を擦りつける。
 無人の舳先は沈みゆく夕陽に向って、突き進んでゆく。
 その先端に腰かけて、ファーは飛竜の腹に頭を預けた。
「おれを乗せて、一足早く、夜へ連れて行って……」
 あの寂しい色に見つからないように。
 心を揺さぶる茜色、あれが自分を覆い尽くす前に。
 飛竜の体温を感じぬ腹を撫で、ファーはぽつりと呟く。
「レアロゥダ……」
 取り憑かれたように、口から零れ出る。
「お前がいるから、おれは寂しくなんてない……」
 途端、堰を切ったように、涙と嗚咽の衝動が襲った。
 ファーは口に両手を押し当てると、胎児のように身を丸めた。
「……っぅ……っ」
 ぼたぼたと涙が落ちて、赤く輝く夕陽色の甲板を濡らす。
 子供のような体勢で、大人みたいに声を押し殺して。
 赤い色を肌に透かして、飛竜が無声で泣きじゃくる主人を、くるる……と見下ろした。

 爪先で描く螺旋。
 寂しさを纏った幻想の子供の。
 指先で描く世界軸。
 寂しさを紛らわすための遊戯。
 見つからないように。
 見つからないように。

 あの寂しい色……。
料理番見習いファルファトス=ロンツェ。
捕虜だか奴隷だかとして、ヴェスじい率いる公的海賊「サージェンス」に捕えられていたファー。ウグドの機転で、バクスクラッシャーと遭遇した時に、一緒に仲間入りをさせてもらう。
子供たちからもお兄さんとして好かれ、大人たちからも可愛い弟みたいに好かれるファーだけど、人に触れ合えば触れ合うほど、寂しさが押し寄せてくる。
大人と子供の境──18歳の繊細で孤独な心が、遥か彼方、故郷を想う。

いつか還る場所


 人気の失せた船内に、甲高い海鳥の鳴き声が響き渡る。
 丸窓から差し込む陽射しは温かく、船内は身体にほどよく涼しい。
 光の帯が、普段は食い散らかされて汚い食堂を幻想的に彩り──その光と影の中で、グレイは一人カウンター席で、火のついていない高級葉巻を口のくわえていた。
 知性的な眼差しで、彼は虚空を見つめる。その様は、はるか遠くの世界を想う探求家のようであり、学術的な計算をする学者のようでもある。
 その黒い眼が、不意にこちらをふりかえった。
「……どうした?」
 バザークは食堂の入り口に突っ立ったまま、開きかけた喉からかすかな息を漏らす。
 眩しい。光の帯がちょうどグレイの顔を斜めに横切り、長年蓄積された埃がきらきらと舞っている。──綺麗なのに、近づきがたい。
 かつての師を前に、バザークは何も言えぬまま、眩しさに腕をあげる。
「…………」
 せめて挨拶でもしようと思ったが、平素、口説きの達人として浮名を轟かせているくせ、結局丁度良い言葉を見つけることができなかった。バザークは口を引き結んで、無言のままグレイへと近づく。グレイは何も問わない。ただ以前のように、悩みを抱く者の心を安堵させる、あの知性的な瞳で、バザークが隣にすとんと座る様を見つめている。
 グレイが、ふと口の端で笑った。
「……まるで子供が拗ねてるように見えるな」
 バザークはやはり何も言い返せず、視線をカウンターの木目に泳がせる。
 窓の外を、海鳥が鳴きながら飛び抜けていった。光の中に一瞬鳥の影が過ぎゆき、グレイの顔がその時はっきりと目に飛び込んだ。
 微笑んでいた。
「……グ、グレイ!」
 勇気づけられて、バザークは衝動的に言葉を発する。
 勢いこみすぎて、言葉が空回る。
 それでも「ん?」という促しだけに支えられ、バザークは透明な声で先を続けた。
 それはかつてと同じように、悩みだった。
 そしてそれは、かつてと同じ悩みだった。
「船を、下りたい──んです」
 言ってしまってからは、一瞬の沈黙すら気まずく感じられ、バザークは畳みかける勢いで先を続ける。
「舵を取りながら、いつも思うんです。このままバクス帝国に帰れたら、このまま舵をあの国のある方角へと向けることができたならってそう……!!」
 そこから先は逆に言葉が出てこなかった。
 海鳥の鳴き声がどこか切ない。ここより離れ、冬には海を渡る彼らは、かの国の空すらも飛んだろうか。風を受け、海を飛ぶ自由という名の舵は、自分の手中にあるのに、羅針盤はかの国を指し示さない。
 この船こそが自分の生きる地だと、親友の様に割り切れたら、どれほど素晴らしいだろう。
 バクスクラッシャーを愛している。
 けれど心を引き裂かれるほど同等に、バザークは故郷が愛しい。
 時折、衝動が襲う。
 羅針盤を無視して、舵を北へと向けたくなる。
 ──けれど、それは船を連れて、だ。
 自分ひとりでは行きたくない。
 ここを離れたくない。
 こんなにも帰りたいのに、こんなにも一人では行きたくはない。
「……おれは……まだ祖母の墓に……花すら手向けていないんです……」
 けれどそれだけは口にすることが出来ず、バザークはただ、帰りたいとだけ呟いた。
 それきり、食堂は光が角度を変える静かな音だけが、さやさやと響き渡った。
グレイは何も言わず、ただうなだれるバザークの側で、葉巻に火をつけた。

おなじダネッ☆


「キャエズ、お前、今背丈どれくらい?」
 食堂の掃除当番の最中、昼も回ったので一旦休憩にして、料理長の賄いなんぞを食している時に、ログゼは自分の前に座るキャエズにそう聞いた。
 キャエズはパンに齧りつきながら、「えー?」と斜め上らへんと見上げて考え込む。
「どれくらいったって……これくらい」
「お?」
 椅子から立ち上がて直立するキャエズを見て、ログゼは自分も立ち上がる。テーブル越しに、掌でキャエズの頭の位置が、自分の体のどの辺りになるのかを確かめてみると、ログゼは不可解そうに首を傾げた。
「あれ?伸びてるように見えたんだけど……前とあんまり変わってねぇなー」
 途端、別のテーブルで賄いを食べていたテスが、可笑しそうに笑い声をあげた。
「何言ってるの。キャエズは、すっごく背が伸びたよ~」
「ぁ?」
「……ログゼ、気付いてる?ログゼも身長伸びてるんだよ……」
「……あ」
 言葉を足して、ラスが相変わらずの飄々顔でそう教えてやると、ログゼは今気がつきましたと手を叩いた。すると何を思ったか、テスが訳知り顔で顎に手を当て、ふんふんと得意げにうなずきはじめる。
「おれの努力の賜物だよねぇ……毎晩毎晩、眠るログゼの腕をさ、一生懸命引っ張り続けた甲斐があったよ」
「……人が眠ってる隙に何を……っつか、この間朝起きたら肩外れてたのお前のせいか!意図がわからねぇ!意図まるでわからねぇし!」
「……僕も手伝った」
「止めろーーーーーーー!!」
 グッと親指を立てる、無表情なラスの頭を蹴り飛ばし、感謝しろとばかりにニコニコ顔のテスの両頬に両指を突っ込み、ログゼはキィッと頭を掻きむしる。こいつらといると、時々人生投げたくなる。どうでもいいが、お前も起きろ。
 そんな三人をパンを齧りながら見つめつつ、キャエズは器用に片足立ちして、親指で太ももをポリポリと掻く。昨夜ダニか何かにやられたらしい。
「……そのダニ、ぼくだよー……」
 と、その時、食堂の厨房の奥から、世にもおぞましい声が細々と聞こえてきた。
 ザッと顔を青ざめさせ、おそるおそると振りかえると、厨房の奥から顔だけを出しているカティールがいた。
「……な、なに、ダニって」
 聞きたくないのに、聞かずにはいられる聞いてみると、カティールはくすくすー……と笑って、壁のあっちへ全部出していた顔を半分引き戻す。
 そして奴は片目で笑った。
「ダニ、ぼく布団に仕込んだんだー……」
「…………」
 キャエズは無言でカティールから顔を背けると、ゆっくりゆっくりログゼの方に顔を戻した。その顔はカティールから遠ざかるにつれ、徐々に涙に濡れ、汗に濡れ、青ざめ、怒りで血管が盛り上がり……ログゼに完全に向き直る頃には、世にも恐ろしい形相と化していた。
「……っログゼ兄……──」
 キャエズは口を開く。涙ながらの助けを、心の兄貴へと訴えるために。

 が。

 キャエズの形相が、不意に凍りついた。
 同情気味な苦笑を浮かべた、ログゼ。
 その背後で、「鬼~」とか何とか言いながら、テスとラスがそれぞれ人差し指を、ログゼの頭後ろから角に見立てて、立てているのが目に飛び込んできたのだ。
「…………」
「…………?」
 突然全てを悟った顔になったキャエズを、ズバッと二十本の角を生やしたログゼが不思議そうに見つめる。
 キャエズはしずしずと椅子に戻り、再びパンを食す。
 その目には、涙がキラリと光っていた。

 兄貴も、おんなじダネッ☆

たくらみ


「鼻クソって何でしょっぺぇんだろーって、ガキの頃思わなかった?」
 食堂の椅子にふんぞり返り、その無駄に長い足をテーブルの上に乗せたセインが、実に年季の入った憎たらしい顔付きで、そんなことを言った。鋭すぎる黒い双眸は、今しがたほじったばかりの鼻くそを乗っけた人差し指に向けられている。
 レナはピクリとこめかみを震わせた。
「……生憎と、幼少時にそのようなものを食った記憶はない」
 海軍時代に培った忍耐力を総動員してそう返答すると、セインは相変わらずつまらなそうに低く呟いた。
「へー。おサビシイ子供時代なことで」
「…………」
「じゃ、鼻くそ爆弾とかやらなかったんだ、お前」
 ぴっ。
 人差し指のブツを、でこピンの要領で弾き飛ばすセイン。
 レナはその小ささに見合わない大げさな動作でそれを避け、怒りと羞恥とで顔を真っ赤にした。
「……っき、貴様……私を愚弄する気か!!」
「いや?する気なんじゃなくて……」
 セインは長い前髪の向こうで、にやりと笑う。
「したんだよ……」
「……!!」
「何の用だ、レナ」
 そうやって自分有利に持ち込んだ上で、やっと相手に耳を貸す、この男のいつものやり口だ。
 元々、短気すぎるきらいのあるレナだが、一度沸騰した怒りを、状況に応じて引っ込めることが出来るのは、彼女が軍人たる証となるかもしれない。レナは唇を噛むと、冷ややかな眼差しで、同じ氷点下を抱く男を見下ろし、口を開いた──。


ただの小兎と酔っ払い


「今思えば、バルリックなんて可愛いもんだよな……」
 泡の消えたぬるい麦酒を片手に、ホーバーはクツクツとさも可笑しそうに笑う。
 珍しい。笑い方が酔っ払いのそれだ。何年ぶりかに酔っているようだ。
 シャークは頭の片隅で冷静にそう分析しながら、その分析対象がホーバーなのか自分自身なのかよく分からず、やっぱり酔っ払いの笑い方をした。
「ハーロンとキースに比べたら、草原で鼻をぴくぴくさせてる小兎さんみたいだったっスね」
「あのときは本当に……バルリックほど嫌な人間はいないと思ってたのに」
 二人は同じ笑い方をしながら、ふらふらと木造りのジョッキを持ち上げ、縁と縁とをゴンッと打ち合わせる。
 ジョッキを傾けてから、ようやく中身がもうないことに気づいて、シャークはあーとそのまま仰向けに寝転がった。
 満天の星空が、視界いっぱいに広がった。
 吹き寄せる海風が、耳の奥で潮騒に似た音をたてて渦を巻く。
「ただの小兎……」
 星が美しい弧を描いて、天空を駆け抜けた。その瞬きは海へと飛び込み、紺碧の海面が透き通るほどの幻想的な光を放つ。
「ただの……こうさぎ……だったのに……」
 力の緩んだ掌から、麦酒ジョッキが落下する。
 ゴトリと音をたてて甲板に転がるそれを、ぼやける意識の奥底から見つめる。
 珍しい。
 酔っ払ってる。

エルズの服屋


 セインは背がでかい。見上げるほどにでかい。
 だがセインの背の高さは、見上げるためにあるのではなく、彼が他者を見下ろすためにあるのである。

「いらっしゃいませ。エルズの服屋へ、ようこそ」
 朝も早くから賑わう港町の、その一角にある衣服屋は、今、最も客足の少ない静かな時間を迎えていた。
 差別というわけではないが、この時間帯、いらっしゃいませ、が、しゃいま!になるぐらい忙しくなる昼過ぎの時間帯に比べて、店員の態度は自然と熱心になる。一人一人の客に対し、細かな要望を丁寧に聞いては、高慢な眼鏡に適う衣服を熱心に検討し、これではないと突っぱねられても笑顔で対応する、そんな、ある意味で至上暇つぶしな時間帯だ。
 だから店員は、客の我侭をたいてい笑顔で受け流すのだが──この時間であっても、招きたくない客とはいるものだ。

「ようこそ、いらっしゃ」
「よーう」
「……しゃ、しゃしゃ、しゃま……」

 ベルを鳴らして、客が店内に足を踏み入れた途端、店長は店員一同笑顔で凍りついた。逆光を受けた客人の影が、まるで店内を飲み込まんとばかりに長く長く伸びる。店長は自慢の髭を悪寒で逆立てつつ、根性で「しゃいま……!」と忙しくもないのに多忙時の挨拶をした。
「あれあれ、ありがたくも常連になってやってる優しすぎるこの俺様が、今日もわざわざ足を運んでやったもんだから、歓喜のあまりに打ち震えてんのもしかして」
「い、いえ、滅相もございません」
 店長、暗に「違ぇよ!」とのたまい、店員たちの無言の賞賛を受ける。
 しかしこの客人に遠まわしは一切通用しないということは、過去の経験から百も承知だった。案の定、客人はニヤニヤ笑うと、馬鹿にしくさった顔で「ま、分かるけどー、俺様人気者だしー」とほざいた。
 客の名前はセイレスタン=レソルト。通常ならば、名を名乗った客人の名は「様」付きで名簿に記しておくのだが、彼の「様」は複数の店員によって、幾重にも抹消されている。それどころか根性のない小さな小さなミクロ文字で、「二度と来るな」とか書かれていたりするが、当然ながら客人名簿を客人が見ることはないので、無駄な足掻き万歳である。
 男として理想と言っても良いだろう絶妙に鍛え上げられたその体躯は、服飾デザイナーにとっても恐ろしく魅力的だ。しかし彼ら職業人にとっては魅力的な体躯だが、セイン自身にとっては少々厄介の種でもある。街中探しても、彼ほど背の高い者は見つけられまい。──そう、彼の身長は、長身の度を越しているのだ。
 既製品はまず彼の体躯に合わない。店長は苦々しく思い返す。そもそもこの店は既製品しか扱っていない。だが最初に彼が来たとき、彼の体躯に惹かれてついオーダーメイドなんぞを自ら提案してしまったのがまずかった。本当に後悔してます。ごめんなさい。まさか彼が、セイレスタンという男が、ここまで性格が悪いとは思っていなかったのである。もっとも、最初の来店時も「つーかさ、俺様に合う服を用意してないってどういうわけ?当然お客様のニーズに合わせて、用意しとくべきじゃね、俺様サイズをさー」とかほざいていたのだが、あまり耳に入っていなかったのだ。
「で?俺様に言うことは?」
 セインが癪に障る笑みを浮かべたまま、はるかな高見から店員たちを見下ろし、聞いてくる。物凄い威圧感に、店員たちの小さな意気地は露出する前に吹き飛ぶ。
「お、おおお、お客様、本日は何をお求めで!?」
「はぁ?ここは服屋じゃねぇんですか?俺様に合う服に決まってんだろ、ボーケ」
「ご、ごもっともで!」
 以前、靴屋でもないのに無理やり靴を作らされた経験のある店員たちは、一斉に、そりゃこっちの台詞だ脳味噌の栄養全部身長に回ったカラッポ頭め!とこっそり内心で罵る。
 採寸は既に、最初の来店時でいやというほどやらされている。店主はすぐさま店員に布棚から布を取ってこさせた。もたついた店員の頭は八つ当たりもかねてバッコバコである。
 店長は手馴れた手つきで、布を右腕を支えにして広げてみせた。しかしセインは遠目から布を見下し(見下ろしたのではなく、見下したのである)、布を乱雑に手で払った。
「……あーもーいいわ。ほか行くわ。やってらんねぇ」
「お、お客様!?」
「この店は客の足元見るわけね、へぇ」
「お、おおおお、お待ち下さい、これはそ、その……質の悪いもの、としてお見せしたもので!」
「うぜぇ死ね」
 そう言うなり、何の躊躇いもなく背を向ける客人。
 店主はグァッと目を見開き、激しく葛藤する。
 店主個人としては厄介な客が減るのは、はっきり言って死ぬほど嬉しい。服屋の誇りなんかそっちのけ、涙がちょちょぎれるほどセインが失せるのが嬉しい。しかし、この客は──この客は……!!
「……あーあー、せっかく今日は大金、持ってきたってのによ……」
 ものすっごい金払いがいいのである。
「お、お客様……!!」
 店長はもはや何の涙か分からない液体を目ん玉から流しつつ、声を張り上げた。
「実はひそかに、セイン様のため、用意しておいた布地があるのですが、御覧になりませんか……!!」
 欲に駆られた店長の口走りを聞き、セインはぴたりと足を止める。
 そして彼はゆっくりと嘗めるように、石化してエルズ服店の一同を見渡すと、凶悪な笑みを浮かべた。
「それを……早く言えや」
 そして今日も、悪夢の一日が始まるのだった。

メルとワッセル


 朝から船内を騒動の渦に巻きこんだメルとワッセルは、地獄の間すなわち反省室の暗がりにぽつんと腰を下ろし、互いに「ふっ」とアンニュイな溜め息をついた。

「おかしい。おかしいわ。私は仮にも女で、貴方は仮にも男で。こんな暗い密室に二人を閉じこめ、何か間違いでもあったらまずいんじゃないか……という気遣いはないのかしら、あの脳みそ空っぽ率一生涯保障しますなホーバー副船長様は」
「ねぇな。お前が筋骨逞しい俺の肉体美に欲情することはあっても、俺がお前みたいな変な女にどうのこうのってのは、絶対にありえねぇ」
「どうのこうのとは? どうのこうのとは、ナニがどうなって、アレがこうなると?」
「あぁ? だから、どうのこうのっつーのはナニがど……てか、説明させんなよ!」
「誰がいつ真面目に説明を求めたのかしら!? ただからかっただけよ、筋肉馬鹿!」
「そ、そうだったのか? ……くそっ、お前とまともにしゃべったことねぇから、会話のテンポが計れねぇっ」
「会話のテンポって……筋肉馬鹿の貴方にそんなものを計る知能レベルがあったとは驚きだわね。でも、そういえば、ワッセル君とはあんまり日常会話を交わしたことがないかもね~」
「ねぇ……かな。あー、つーか、……前から誰かに聞きたかったんだけどよ」
「何よ?」
「日常会話ってなんだ?」
「は? 何が言いたいのかしら、脳みそハゲカツラのワッセル君。ああ、脳みそハゲカツラってのはつまり、ハゲカツラのごとく、脳みそがつるつるの皺皆無って意味だけど」
「な、なんだよ、褒めんなよいきなり」
「……んん!?」
「皺ひとつねぇ、若々しい脳みそって褒めてんだろ? やめろよな、照れるだろ」
「どうしましょう!? さすがの私もたじろぐ天然っぷりだわ!」
「いや、ただ俺さ、日常会話の定義がよくわかんねぇ。どんなのが日常会話なんだ? 日常ってなぁ、どういうことを言うんだ?」
「……深い。ワッセル君にしたら、ずいぶんと奥深い質問だわ。まあ、本人さしたる意味は含めてないのでしょうけど」
「あ?」
「いいの、気にしないで。馬鹿はあさっての方向でも見ててちょうだい。……日常会話ねぇ。私たちもたいがい非日常の生活を送ってるものね。確かに言われてみると、日常会話が何なのか、私もよく分からないわ。まあ、世間一般的には「天気がいいわね」とかかしら? 「最近、人体実験どこまで進んでる?」とか」
「な、なんかピンと来ねぇな」
「特別に貴方仕様で言うと、「近ごろどの部位を鍛えてるんだい?」とかよ」
「上腕二頭筋!!」
「へぇ、そうなの。ふぅん。……っていう感じなのが、世間一般で言う日常会話よ」
「そうなのか! へぇ、これが日常会話……っ悪くねぇ!」
「日常会話、ヘイヨーッ」
「ヨーヨーッ、ヘイホーッ」
「にち、にちにちっ、にっ、にちっ、にっ、にちっ、ニチジョーッ」
「ニチジョーッ! チェキラッ」

 その時、地獄の間がある船倉で作業をしていた水夫は、扉の向こうから聞こえてくるわけの分からないラップを聞き、「それは絶対日常会話じゃない」と神に誓って思ったのだった。

メル帝国時の七時


 夜中も夜中、真夜中の船長室。
 お腹を出して寝こけているラギルニットの寝息だけが、半分寝ている耳の中にこだまする、そんな静かな夜。
 仄かなカンテラの明かりを頼りに、作戦机の上に置かれた物体を寝惚け眼で見下ろしていたホーバーは、半分うつらうつらしながら呟いた。
「…………で、なんだっけ、これ……」
 途端、ダンッと激しく机が叩かれる。
「我が偉大なる発明品を前にして、居眠りをこくとは何事だ、碧いだけで中身はごく普通な脳味噌色した、一般的脳味噌めが!以後気をつけるがいい……寝ている隙に貴様の脳髄に目覚まし時計をセットしてくれる……!」
 言うまでもないが、作戦机を挟んだ真向かい、肩を怒らせ高慢に叫んだのはメルである。
「言っておくが、何時にセットするかは教えてやらんぞ……。怯えるがいい、さぁ怯え震えるがいい、肝っ玉極小サイズの哀れな男よ……。いつなんどき鳴るとも知れぬ「超・恐怖脳髄目覚まし時計!叩いても叩いても止まらないの!(半永久電池使用)」に怯え、日々の尊き惰眠を」
「……メル。ラギルが起きる」
「……──しーっ」
 ぼんやりと突っ込むと、メルは大慌てで辺りを見回し、誰もいない周囲に向かって、しーっと言った。ホーバーはそれには突っ込みは入れず、ふらふらと船長の椅子にもたれて、うー……と唸る。
「……ねむい……」
「安心するがいい小市民、そのうち目も冴える……。そう、我が天才的頭脳が創りだした発明品を前にすれば、冬眠中の熊すら、迅速怪傑、目を覚ますであろうよ……くくく」
「明日じゃ駄目なのか……今何時だ……」
 普段ならメルなど放って置いて、さっさと惰眠を貪るところなのだが、そもそも惰眠を貪っていたところを、メル発明の悪臭袋を鼻に突きつけられて起こされたのだ。とりあえず話を最後まで聞かないことには、夢の続きを見ることもまた夢の夢。
 今何時だ。その言葉に、メルはギラリッとピンクの色眼鏡を光らせた。
「ふはははは!聞いたな!?聞いたな愚かな男よ!私に今時間を聞いたな!?」
「ラギルが……」
「ば……っ静かにせんか愚か者……!……よし、時の何たるかも知らぬ無学な貴様に、教えてやろう……。どうぞお手元の品をお手にお取り下さるがいい……」
 また半分寝こけて、ガクリと頭を後ろに反り返らせていたホーバーは、改めて作戦机の上に置かれた物を見下ろし、お手にお取りくださった。
 メルが、ニヤリと笑った。
「懐中時計、だ」
 掌の上に乗った物体を、カンテラの明かりの下で軽く傾けると、銀色の鈍い光を放ったそれは、なるほど確かに「懐中」の名に相応しく、柱時計を小さくしたような形をしていた。
「ふふふ……どうだ、すごかろう。正直、すごいだろう」
「……うーん、この小ささは確かにすごいけど、時計っていっても、うちはテスがいるしな……」
「馬鹿め馬鹿め馬鹿でのろまな亀の子め……!テスなどと、普通に小人料金で万事通じるような者よりも、この偉大なる発明品を──」
「しかもこれ、間違ってるぞ、時間。今、七時だって?夜にしても朝にしても、ありえないだろ、七時は……」
 メルはフンッと鼻で笑った。
「当然だろう。私の腹時計に合わせてあるのだ、この世界の時とずれていて当たり前ではないか。我が大帝国の偉大なる時を、何故この下らぬゴミの如き世界に合わせてやらねばならんのだ」
「……そうか、だからお前、この時間に起きてるのか……」
「そうだ、メル様大帝国は、現在心地の良い早朝!新しき朝に、万歳三唱!!」
「……ばんざい」
「万歳!!」
「…………ばん……」
「万歳!!」
「…………グー」
「……しっ」

 メル帝国時間の昼まで続いた。

ヴェルデ家


 中央大陸フェクヘーラの西方、魔の地にほど近い半島にその帝国はある。
 世界に名を轟かす、巨大軍事帝国バクスである。
 軍司令たる三人の軍王「陸王」「空王」「海王」が帝国の玉座に着き、国家の中枢を支える貴族のほとんどが軍部に属す。
 帝都は軍人気質を表すがごとく堅固な石造り。都をぐるりと囲う城壁は、火を放たれようが、水を放たれようが、およそ崩壊する気配を見せない。
 城壁により守られ、誇り高き民に守られ、その中央に座すは帝城ケルヴァ・ピーク。

「おい。お前の可愛い弟殿が、指名手配を喰らったぞ」
 帝城の上階にある閲覧室で、軍部文書に目を通していたヴェルデは、頭上から降ってきた声に顔を持ち上げた。途端、眼前が闇に包まれる。腕でもって闇を払いのけると、その先には見知った男の顔──古くからの友人であり、同じ海軍第三軍に属するアーヴァスが立っていた。
「……何の話だ、アーヴィ」
「指名手配だ、指名手配。武器商人ヴェルデ家の次男が、今日、指名手配にかけられた……ってどうでもいいが、帝城では愛称で呼ぶなと言っただろう」
「ヴェルデ家……?」
「……おい、おつむは起きてるか。……お前の実家だ馬鹿者!」
 先程の闇の正体、指名手配書でもって額を叩いてくるアーヴァスに、ヴェルデは眉根を寄せる。
「知っているが……」
「……そうかい、良かったよ、安心したよ、まだ一応人間やってたご様子で」
「私の家がどうしたというんだ」
 要領を得ない友人にぴくりとこめかみを震わせると、アーヴァスは指名手配書を机の上に叩きつけた。
 そして、一語一語を区切るように、説明する。
「お前の、弟が、指名手配された」

 武器商人ヴェルデ家。
 階級としては中流貴族に位置するヴェルデだが、バクス帝国には珍しく、軍人としてではなく商人として名を挙げた貴族である。
 初代家長を勤めるのは、フォルドイ=マーゴ。貴族の地位を得るため、中流貴族でありながら名のある軍人を生み出せず、落ちぶれていたヴェルデ一族と婚姻を結んだ武器商人である。
 ヴェルデの令嬢シャイリス=リア=ヴェルデとの間には二人の男児が生まれ、新貴族としてまずまずな滑り出しを見せる──はずだった。

「弟……?」
 さらりと揺れる漆黒の髪、長めの前髪から見え隠れするのは、北の海を思わせる蒼い瞳。ヴェルデ家の長子は、興味のなさそうな顔で指名手配書に視線を落とした。
 刷られたばかりの手配書には、二人の人物が描かれていた。どちらもまだ14、15歳ほどの少年だ。一人は、ひょろりとした印象を受ける短髪の少年。そしてもう一人は、どこか見覚えのある、凛とした顔立ちの少年だ。
「そう、右の方がお前の弟だ。……おいおい、まさか忘れちゃいないだろうな?」
「随分、若いが」
「ご明察。生きていれば、弟殿は27歳であらせられる」
「髪が短いな……」
「…………」
 的外れな言葉ばかり発するヴェルデを、アーヴァスは頭を掻きむしりたい思いで見下ろす。
「とりあえず、弟の存在は覚えててくれてよかったよ!お前の記憶力ときたら、鳥並だからな!」
「そうか、すまない。……だが何故今の姿で指名手配をかけない。これは10年以上前の姿だろう。生きているならば、もっと成長しているはずだが」
「指名手配だって?」
 アーヴァスは手近な椅子を引き、乱暴に腰を下ろす。
 そしてふと虚空を睨みすえた。まるで憎い敵を目前にしたように。
「逃亡軍船バクスクラッシャーの副船長ホーバー……指名手配も賞金もかかってるさ。奴にはまるで見合わない小額で、な」
 ヴェルデはそれを他人事のように見据える。
「奴は、存外切れる。もしくは切れる奴が側にいるのか。……奴はわざと自分を指名手配させたんだ。手配をくらえば、こちらと直接的にも間接的にも繋がりを持つことが出来る。小額の賞金に乗る稼ぎ屋の実力はたかが知れている。叩けばいくらでも情報吐き出しやがる。……我々は態の良い情報源にされているんだ。奴らにとってバクス帝国の情報は、どんな些細なものでも貴重だろうからな」
 話すうちに苛立ちに駆られたアーヴァスは、鋭く舌打ちを打つ。
「だがそうと分かっていても、小額以上の賞金をかける理由が奴にはない。……畜生、のらりくらりと逃げやがって、腹立つ野郎だ……!」
 そしてアーヴァスは、何を言うでもないヴェルデを睨みつけた。
「お前も少しは怒れ!あいつはお前の全てをぶち壊しにしたんだぞ!穢れた精霊の血、帝国への反逆、あまつさえ海賊になど身を投じ、今なお帝国に敵対し続けている……!あいつはお前の出世を阻み、お前の未来をぶち壊したんだ……!」
「……そうか?」
「ヴェルデー!!」
 まるで反応の薄いヴェルデの胸倉を掴むと、アーヴァスは周囲に上官がいないのをいいことに、思い切り声を張り上げた。
「お前よりも地位の低い、ろくに功績もない連中がお前のことを大っぴらに馬鹿にしてやがるんだ、悔しくないのか!成り上がりだの、穢れた血族だの、海賊貴族だのなんだの……っあのクソ腹立つ弟さえいなければ、お前は今頃……!!」
「買いかぶりだろう」
「閣下がお前のこと認めてくださっていたんだ!今ですら上層部の諫言を無視して、お前を軍部に留めていてくださってる……お前はその意味を全くわかってない!」
「別に弟のせいではない。ヴェルデは事実成り上がり、精霊の血は祖先よりのもの、海賊貴族とて……」
「とて、なんだ!」
 不意にヴェルデは蒼い瞳を鋭く細め、胸倉に伸ばされた腕を右手で強く握りしめた。
「……かつて国に尽くした同朋を、賞賛こそすれ、罵倒する謂われはない……」
「…………!」
 アーヴァスは瞬間的に怒りで我を忘れる。生まれた時から植えつけられた帝国軍人の誇りは、たとえ友人であろうと穢してはならないのだ。
 だが──何の怒りも、憎しみも存在しない、ただ深いばかりのヴェルデの双眸は、過去何度もそうであったように、彼の怒りをあっさりと鎮めてしまった。
 彼らへの同情がアーヴァスの心にもまた存在することを、あっさりと見破られた。

 ただ一度だけ、帝城の最下層で見かけた。
 ヴェルデ家の、呪われた二子。
『ジルサン=バリー指揮官に会わせてください』
 嘲笑と蔑視の中を、凛と背筋を伸ばして歩いてきた。
 緊張で声が微かに震えていたが、兄と同じ蒼い瞳は真っ直ぐに前を向き、必死さを表情に宿していた。
 あの表情を見れば、急ぎの用であることは分かったはずなのに、誰一人として彼に答える者はなかった。
 ただ見下しきった視線を、残酷に背けただけだ。

「……言っとくが、俺は、お前のために怒ってるんだ。別に……あの弟が憎いわけじゃない」
「知っている」
「そりゃ結構!」
 腕を乱暴に引き戻して、アーヴァスは気まずさを隠すためか、殊更大げさな挙動で指名手配書を持ち上げた。
「ともかくその弟殿が指名手配を喰らったんだ。……バクスクラッシャーの副船長ホーバーがじゃない、お前の弟が、だ」
 ヴェルデは腕を掴んでいた手でもって、乱れた襟元を適当に直す。
「……弟か……」
「そう、弟だ。本名の方で賞金をかけられた。隣の坊やと一緒にな」
「……シャーク」
「奴も本名の方でだ。だから本名を名乗っていた当初の顔で、指名手配を受けた。だから髪が短い。だから幼い。分かったか」
「……本名」
「…………お前、まさか弟の名前、覚えてるよな?」
「…………」
「…………」
「……頭に”レ”がついたな……」
「いや待て待て待て、”レ”なんてどこにもついてないぞ……」
 冗談だろ、とばかりに口を引き攣らせるアーヴァスだが、ヴェルデの表情に変化はない。
「……おいおい、ヴェルデの兄殿」
「果たしてなんだったか……」
「……頭は”カ”だ、”カ”」
 思い余ってヒントを与えると、ヴェルデは首を傾け、視線を虚空に彷徨わせた。
「……カ?」
「カだよ、カ、カ……頭文字で思い出してやれーー!!」
 先程の真面目な空気はどこへやら、アーヴァスはあまりのひどさに絶望する。ヴェルデの無頓着は常日頃から度を越しているが、まさか弟の名すら忘れているとは。
「……それはともかく」
「流すな。流さないでくれ」
「何故今頃になって、公的海賊当初の彼を指名手配にかける。何かしたのか……」
「……~~~」
 眉間に寄った皺をごしごしと手で伸ばして、アーヴァスは必死に冷静な顔を作る。全くこの男と会話して、ろくな目に遭ったためしがない。
「二人の指名手配理由は、貴族令嬢の誘拐及び誘拐幇助。だが上層部の狙いは、この二人じゃない。そのご令嬢……ナンディレス家の息女メルファーティ……彼女だ」
 言いながら、彼は指名手配書を虚空でひらひらと揺らす。
「あの夜を境に、完全に行方を眩ましたナンディレス家の令嬢。足取りも、痕跡も、何一つとして残されていない。長年行方を追い続けたが、今に至っても見つかっていない。ただ一つの手掛かりがこの二人。彼女が最後に言葉を交わしたとされ、何か情報を得ている可能性がある。……撒かれた餌というわけだ」
「誘拐は嘘か……」
「いや?十分に有り得る”事実”だ」
 ようやく本題を語り終えたアーヴァスは、安堵とも疲労ともつかない溜息を落として、席を立った。そして未だ椅子に座ったまま、無表情に手元を見つめているヴェルデを、複雑な思いで見下ろす。
「……この件は第三軍の指揮下に入る。二人の居場所は見当がついている。賞金稼ぎたちもすぐに動き出すだろう。ヴェルデ……任務は遂行できるか。名前を忘れていようとも、奴はお前の弟だ。捕らえられれば、絞首台送りは免れないだろう。奴は……あのバクスクラッシャーの副船長だ」
 だが、彼の心配は全くの無駄な憂慮に終わった。ヴェルデは手にしていた軍部文書を静かに閉ざすと、何の感傷すら浮かばぬ蒼い双眸で──厳格なる軍人の眼で、指名手配書に描かれた人物を鋭く見据えた。
「問題ない」
 そして言い放った。
「任務を全うする」
た、楽しかった……!!
いやーん!すっ呆け兄貴ですよー!超無頓着人間ヴェルデ長男ですよー!!仕事馬鹿のヴェルデですよー!でもアーヴィの方が美味しいー(笑)
「本当の名前」と、リンクしている話です。
かなり前に浮かんだ話で、それ以来ずっと書きたかったんですが、書くと長くなりそうだったので控えていました。が、ランキングで本名の話も出たので、ついに念願叶えて書いちゃいました!あくまで本名は引っ張ってますが(笑)
元々、ちょろっと本名の一文字ぐらい公開しときたいなーという狙いの元に浮かんだ小話だったんですが、最終的に、もう一つ浮かんでいる話の欠片と合流し、このような形となりました。そちらもいずれ書けたら……と思っています。

ヴェルデ家長男。
ホーバーが不名誉にも海賊として国を追われたために、出世の道を完全に立たれた。
現在、海軍第三軍で、年齢・地位・実力に見合わぬ任についています。
生まれ着いて、恐ろしいまでに無頓着な性格。から見ると、天然に見えるけど、ただ単に何事にも頓着しないというだけ。
けれど国への忠誠は篤く、軍部の任をどこまでも厳格に全うする。ある意味、物凄いはっきりしたポリシーの持ち主です。
忠誠が篤い上、自分の誇りに対して頓着があまりないので、同じように忠誠心を持っていた公的海賊に対しては寛容。彼らには同情心を抱いている。
弟に関しては、ホーバーが兄に対してそうであるように、あまり関心がない。というよりは記憶がない。ホーバーと口を聞いたのはただ一度きり、ほとんど帝城につめていたので顔を合わせることすら稀でした。あげく母親が弟の生誕を、兄ぃに教えなかったため、数年間、彼は弟の存在すら知りませんでした。そんな関係。
別に嫌ってるわけじゃなくて……今お互いに、弟っす、兄ぃっす、って名乗れば、何というかうわー兄弟だなーていう感じに仲良くなれるんだろうなという感じの関係です。

アーヴァスは、ヴェルデの同僚であり親友。
生まれが平民出なので、まださほど出世はしていない。なのでヴェルデと同じ軍部の下っ端やってます。数年後には昇進することでしょう。
貴族じゃないので、バクス貴族独特の冷たい厳格さがない、気のいい兄ちゃんです。
無頓着男ヴェルデ兄と、唯一まともに日常会話のできる人。ヴェルデの才能を認め、それを生かすチャンスに恵まれていることを羨み、それを弟によってぶち壊しにされたことを自分事のように怒っちゃう、人間臭いお人です。
ホーバーとヴェルデ兄貴の父母も名前初公開!(どうでもよし・笑)
父親は商人出身で、歴史の長い大貴族たちの間で、成金貴族として肩身の狭い思いを味わってます。恰幅のいい父ちゃんで、成金貴族なのに金に汚くないのが災いし、人の顔色を伺い、貴族である妻の顔を伺い、いつも及び腰になってる父ちゃんです。
母親は歴史ある中流貴族の出身。多分元々は高級貴族だったのでしょうが、落ちぶれたのでしょう。そんなわけでプライドが馬鹿高い。地位を守るため、商人などと結婚させられたあげく、第一子は母親すら顧みない超無頓着息子、期待をかけた第二子はよりによって精霊の血を現すというひどい有様。全ては旦那のせいだと思い、屈辱に心が荒んでいる。(精霊の血は父親側の祖先から来ているので)美人だけど、冷たい感じの美人。
ホーバーとヴェルデ兄の顔立ちは、二人ではなく、父親側の曾々ばあちゃんに似ている模様。曾々ばあちゃんも先祖返りをし、髪の毛、碧だったようです。

長い沈黙を破り、ついにバクス帝国海軍が過去の清算に乗り出す。

一応、男女


「……は?」
 唐突に問われて、ガルライズは一瞬の沈思の末、すっとんきょうに聞き返した。
 聞き返されたメルの方はというと、いつも通りの偉そうな仁王立ちで、不満そうに顔をしかめている。
「は?って何、は?って。さっさと答えなさいよすっとんきょう」
「……あー」
 目線を再び新聞に落として、ガルライズは咥え煙草をカリカリと噛む。賞金稼ぎの誤拿捕のニュースを斜め読みしながら、彼はなんとも言いがたい口調でぼやいた。
「……メルちゃーん……俺、一応男なんだけどなぁ」
「あんたが女だったら、あんたの胸の谷間に血反吐を吐くわよこの野郎」
「いや……そりゃ俺も自分が女だったら、自分の胸の谷間に鼻血吹くけどさ」
「鼻血じゃない!血反吐!反吐!」
 むきぃっとピンクの髪を掻き毟って、メルはガルライズの手から新聞紙をもぎ取った。
「人の話は、人の目を見てお聞き!」
「…………」
 ついでにぐいっと胸倉をつかまれて、無理やり「メルの目を見る」状態にさせられたガルライズは、ものすごく気まずげにツィー……っと視線を横に逸らした。
「何で視線を逸らすのよー!」
「……あのね、そういう質問された上で、目を見ろとか言われると……」
「なに」
「……あー……──……どうしようもねぇな、この子……」
 部屋の隅っこにある棚の装飾なんぞを見つめつつ、ガルライズはとほほな気分で独り嘆いた。

夏でもないくせ


「……暑ぃですねぇ」
 夏でもないくせ、異様なまでに気温が上がった、冬のある日。
 暑さから逃れるため、少しでも冷たい床にだら~……と腰を下ろし、少しでも冷たい壁にでれん……と背中を預けていたダラ金は、半目状態の虚ろな目をぼけぇと瞬かせた。
「……暑いですねえ」
 互いの体温が伝播して来ない程度に距離を離したその左手に、彼とまったく同じ格好でダレていたラギルニットは、舌をべろーんと出して同意した。
二人とも、普通に座っている時の二分の一の座高しかない。寝そべる一歩手前、辛うじて「座っている」状態を保っている二人は、見る者まで暑苦しい気分にさせるほど、だれきっていた。
 ふんふふん、ふふん。
 ふふんふんふふふ、ふん。
 だれ切った二人の前を、軽い足取りの人影が通りすぎる。
 二人の顔に一瞬影が落ちて、一瞬微妙に、ものすごい微妙に涼しさが降ってくる。
 ダラ金は、ぼけぇとしたまま呟いた。
「……ホーバーが鼻歌うたってやがる……世も末だ……」
 ラギルニットは、えへ~と虚ろに笑った。
「ホーバー、やっとお金がたまって、あたらしい剣買えたんだよ……だからね、うれしーのー」
 ゴンッと後頭部で壁を叩いて、ダラ金は天井を仰向けに見る。
「お金たまったぁ……?んだそりゃ……」
「一年ぐらい、寝棚の下に隠した壷のなかにね、ちょくちょく小銭を入れてたの。それがやっとたまって、やっと剣が買えたんだよー」
「副船長さまの武器の金ぐらい、”海賊持ち”にしろよ、情けねぇな……。望遠鏡欲しがって、庭の雑草抜いてるガキじゃあるまいし……」
「うち、貧乏だからねぇ……」
「…………あーまーねー」
 ふんふーんふふん、ふん。
 ふふふんふん、ふんふふん。
「……あー暑いし暇だし貧乏だし……いいことないねぇ」
「……いいとこなしだねぇ」
「船でも襲おうぜーせんちょー」
「こらこらーむやみに襲ってはなりませんよ船大工さーん」
「えーじゃーふくせんちょーちょっくら殴ろうぜー」
「みゃくらくないけど、それならいいよー」
「アイサー」
 ダラ金は抑揚のない声でうなずいて、うなずいておきながら、ずるり……と更に体をずり落とした。
「……暑ぃですねぇ」
 つられて、ラギルニットもずるり……。
「……暑いですねえ」

ふんふふーんふふん。
ふふふんふん、ふんふふん。

海賊と海軍の見解の違い


「なぁ、ギリ。お前、海賊が人生で一番輝いて見える瞬間がいつか知ってるか?」
 ギリは傍らで不精髭をぼりぼり掻いている艦長を見下ろし、不愉快そうに眉をひそめた。
「やめてください。奴らには擦っても拭えない垢がお似合いですよ!」
 艦長は軍服の詰襟を緩め、皮肉たっぷりの笑みを浮かべた。
「……お前はいいよなー、家柄がいいってだけでよ。実戦経験も大して積んでねぇひよっ子のくせに、ゆくゆくは俺の椅子に座るってんだから……まいっちまうよな」
「艦長。私が貴方の椅子を奪うとしたら、それは私の家柄によるものではなく、貴方の怠惰によるものです。その不精髭はいかがなものでしょう」
「式典のときにはちゃんと剃ってますよー。社交界じゃ、お嬢様方の視線の的ですよー」
 艦長は凪いだ海を見渡し、ふと真顔になった。
「……お前には分かんねぇだろうな。止めても止めても、海軍の人間が海賊になっちまう理由」
 海は自由の象徴とされる。どこまでも続く海原、そこには独裁者もいなければ、厳しい規律もない。
 だが人は船の上でなければ、海では生きられない。その船が国に属するならば、たとえ自由の海に漕ぎ出そうとも、そこはやはり国家という檻の中なのだ。逃げることなどできはしない。
「まずい飯食って、規律でがんじがらめに縛られて。周りを見れば汗くさい男ばっか、安らぎの場といえば数時間交替のハンモックの上だけ。そのくせ、たいていはろくな死に方をしねぇ」
「海軍の名の元に死ねるのならば、それは名誉の死です」
「お前らはいい。なりたくてなった海軍様はよ。だがな、下っ端なんてなりたくてなった連中ばかりじゃねぇんだよ。奴隷みたいなもんさ。いきなり徴兵されて、紙切れ一枚でタネキアの奥地まで行かされて、食料も尽きて、水もなくなって、熱射にどんどん仲間が倒れて……気づけば相棒は傍らで腐って死んでる。疫病が船上で流行れば、全員あっという間にあの世行き。ひどいもんだぜ。何が名誉の死だ。最後は水を取り合って、備品奪取の罪で鞭打ち刑。仕方ねぇんで尿を飲んで、それも出なくなっちまって無様に死んでゆく。その死体も、誰にも回収されやしねぇ」
 艦長は横目でギリを捕らえ、目を細めた。
「海軍の下っ端の大部分は、そうやって名誉もへったくれもなく死んでくんだよ」
「だから海賊になるというんですか。理解できませんね」
「……かっこよく死にてぇのよ、男ってのは」
 不意に遠くを見つめて、艦長が言った。
「最初の質問だ。海賊が一番輝くのはいつか。それはな、絞首刑にかけられる瞬間だ」
 目をつぶれば、耳の奥底で階段を上る音が聞こえてくる。
 かつては海軍の仲間として共に戦った相棒が、海賊として首吊り台までの階段を登ってゆく音。
「まるで玉座に上る国王陛下だ。みすぼらしい服を着て、手には縄をかけられてるってのに、まるで惨めさがない」
 ギリは片目を神経質に引きつらせる。海賊を国王陛下になぞらえるなど、不敬も甚だしい。
「大衆の前に立たされたとき、見届け人が言う。最後に言い残すことはないかと。大衆はじ……っと耳をそばだてる。何を言うのか、何を聞かせてくれるのか、これ以上にない真剣さで海賊を見つめる。そして海賊は自分の生き様を、あるいは自分の死に様を語る権利を得るんだ。舞台役者が涙流すような大観衆の前で」
 大衆は水を打ったように静まり返る。
 波乱に満ちた人生を送ってきた海賊が、最後に残すただ一言を決して聞き逃すまいと。
「……そんな美しい死に様が、海軍の誰に許される?」
 そしてより大衆を歓声で沸かせた海賊は、堂々と、誇らしげに吊るされるのだ。
 その後の死体の処理方法は屈辱に満ちたものだが、それすらもが海賊たちには誇りとなる。
 鉄の格子にはめられ、死肉を鳥に食われても、それは海軍が海賊をいかに恐れているかの証明になる。
 海賊からは、決して誇りを奪えない。自由という誇りを。
 艦長は不精髭を撫で、ギリ、と呼びかけた。
 気づけば浮かんでくる光景に夢中になっていたギリは、ハッと我に返り、身を正した。
 慌てて艦長に目を向ければ、艦長は抑揚のない顔で水平線を見つめていた。

海賊たちの掃除の歌


 長い間……本当に長い長い間、何度も沈みかけながら、何度もぶっ壊されながら、それでもバクスクラッシャーを支えてきたバックロー号。
 バクスクラッシャーにとっちゃ、憎いバクス帝国が建造した船だけど、この船がなかったら、彼らは帝国を脱出することはできなかったし、この十年間、生き抜くことなど出来なかった。

 彼らの生きる地。
 彼らの帰る場所。
 彼らの居場所。

 元々は定住者であった彼らが、根のない草となって海をたたようことは、何て恐ろしいことだったろう。
 けれど彼らに安住を、バックロー号が与える。
 壊れにくい甲板、立派なマスト、どんな風だって捕まえる帆、子供たちが転んだってしっかりと受け止めてくれる頑丈な船柵……。
 彼は喋れないけれど。
 笑ったり泣いたりすることはできないけれど。
 彼なりの大きな愛で、バクスクラッシャーを守り、慈しみ、大切に大切に包み込み──そして、失くしてしまった居場所を、再び彼らに作ってあげる……。
 バックロー号は、もう長い命じゃない。
 それでも彼は、体が虫食いだらけになったって、バクスクラッシャーを守ってゆくだろう。
 船員たちがいつか、本当の居場所を見つけるまで……。

「今日はバックロー号の大掃除だよー!」
 ラギルが大声で舵台から叫ぶと、船員たちはうんざり顔を隠して、半ばやけくそで「おぉー!」と返事を返す。
 そりゃそうだ。
 バックロー号ときたら、考えるだけで疲れるほどに、巨大なのだ。
 しかも、ラギルが「大掃除」といったら、船内だけでなく、外壁の掃除まで含むのだから、この炎天下を抜きにしたって頭が痛くなる。
「……泳ぐ人ー」
 ホーバーがものすごくやる気がなさそうに、言う。
 歩くより泳ぐ方がずっと好きなキャムが、真っ先に手を挙げる。
 しかしそれだけである。
 船員たちの多くはデッキブラシを「離さないわよ!」とばかりに握りしめ、そして何人かの仲間のことをじとーっと見つめ始めた。
 その「何人」かに入ってしまっているホーバーは、両手で目を覆うと、「うっうっ……」と悲しげに泣きはじめた。

 船の大掃除において「泳ぐ人」の仕事は、ものすごく命がけである。
 条件さえ整えば、船体を横倒しにして全員でブラシでゴシゴシすればいいのだが、これだけの大型帆船でしかも人手が50人となると、なかなかその機会がめぐってこない。
 帆船の喫水線より下、つまり水面下に沈んだ船底にこびりついた、「貝落とし」の作業の話である。
「……イヤだ」
 この仕事は当然、泳ぎが得意な面々に託される。
 かなり重労働なので、キャム以外の船員は、ほとんどの確率で嫌がる。
 そんな訳で、船員たちの無言の視線を浴び、多数決で何人かの船員が生贄となるのだが、毎回、その一人がホーバーだった。
 ホーバーはこう見えて、泳ぐのは大好きである。
 時々、思い立ったが吉日とばかりに、真夜中に海に飛び込んだりして、見張りの船員を激怒させるというアホな一面も持っている。
 だから海に入ること自体は別にいいのだ。
 重労働もさして問題ではない。
 ──大問題なのは、貝、である。
 船底にこびりつく貝は、三角形の頂点が落ち窪んだ、ちょうど火山の火口に似た形の「フランゲリア」がほとんどだ。
 この「フランゲリア」、通称「ツボ貝」が、ホーバーは大の苦手であった。
 見るのも触るのも、なぜか嫌なのだ。
 公的海賊時代に、貝落としが嫌がために掃除を拒否したら、ジルサン船長に思い切り脳天を殴られ、ついでに大爆笑された。
 多分、前に一度、穴からにょろっと妙な中身が出てきたのを、目撃してしまったせいだ。あれが悪かった。しかもそのにょろが、魚をバクッと丸ごと食ったから、最悪だ。あれほど気持ち悪いものははじめて見た。
 だからツボ貝が、ホーバーは大嫌いなのだ。
 誰にも内緒である。
 なぜか全員知っている。
「……何故だ」
 ホーバーは悶々と悩みながら、キャムに引きずられるようにして、ヘラ片手に海中へと飛び込んだ。

 船員たちは思い思いに掃除を進める。
 ラギルニットをはじめ、子供たちがえらく楽しそうなのが、大人には憎たらしい。
「あぢぃ~!」
 うんざり叫びながら、それでも他の船員たちが頑張って掃除をしているのを見ると、手を休めるわけにもいかない。しばし太陽に虚ろな顔をさらした後、船員は再び無言で掃除を始める。全員とも、これの繰り返しである。
「でけぇよ!バックロー、おめぇ、でかすぎだよ!」
 ぶちキレたセインが、ガシガシと甲板を蹴る。落ちた自分の汗に足を滑らせ、危うく転びかけて、またぶちキレる。しかし普段は仕事なんかほったらかしのセインも、この大掃除だけは、なぜか皆勤賞だ。
 ラギルニットはふと舵台に立って、ほわぁっと疲れたような楽しげなような息を吐く。
 高い所に立つと、潮風が心地よかった。
 見下ろせば、甲板中でヒィヒィ言いながら、船員たちが掃除をしている。
 海面からも時折泳ぐ係が顔を出している。
 青い顔で吐き気を堪えている風な馬鹿副船長を、キャムが海に引きずり込む様が、なにやらおかしくて、ラギルニットはくすくすと笑った。
 さんさんと降り注ぐ、暑すぎる太陽。
 いっぱい働いて、汗まみれな肌を優しく撫でる、熱帯の風。
 波に揺られ、風に吹きつけられて、バックロー号がギシギシと軋んだ音をたてる。
「えへへ……」
 ラギルニットはそっと舵台の手すりを撫でた。
「気持ちい気持ちいって言ってるの?」
 そして満面に微笑んで、言う。
「いつもありがとう、バックロー!」

 うんざりしながらも、それでも手を休めない船員たちが、やがてヤケクソで「海賊たちの掃除の歌」を歌い始めた。

金の稼ぎ方


 作戦机に地図を広げて見ていたホーバーは、突如、トゥーダ大陸の上にどっかりと乗っかったでっかい尻を、きょとんと見つめた。
「……トゥーダが潰れる、姉さん」
 遅まきながら、それがミシェルの尻であることに気づいて、ホーバーは視線を上に上げた。
 彼に背を向ける形で机に腰を下ろし、高らかに足を組んだ女──ミシェルは、色っぽく腰を捻って、年下の副船長に向き直った。
「ホーバーや……ちょいとお姉さんのお願い、聞いてくれないかい?」
 くっきりとした眉、鋭い眼差し、どぎつく口紅を塗った唇は、野性的ににやりと笑っている。キツくウェーブのかかった髪を無造作に払うと、ミシェルは細く長い指で、ホーバーの顎をちょいと撫でた。
「金、貸しな」
 ホーバーがただ苦笑を返すと、ミシェルは親指と人差し指で顎を引き寄せ、副船長の耳元に息を吹きかける。
「か・ね……倍返しを約束するからさぁ……」
「その約束が守られたこと、過去にあったっけ?」
「……もう!」
 動じもしない顎先を乱暴に放ると、ミシェルは一声吼えて、そのままべったりと机に寝転がった。
「金がないんだよ~!遊ぶ金がないんだ!このままじゃ、アタシは娯楽に飢えて死んじまう~!」
「この前、金の配給したばっかだろ?あれはどうしたんだ?今回は結構な金額があったはずなのに」
「もうとっくにないから、おねだりしてるんだっつーのに!」
「……。いっそ個人的に稼げば、姉さん」
「あたしにそこらの男どもとヤレってかい!」
「稼ぐ方法は、それだけか」
 机をバンッと叩いて吼えるミシェルに、ホーバーはノリで突っ込んだ。

君を待つあの世界


 いつかホーバーだって死ぬ。
 他の連中だって、みんな死ぬ。
 一番小さいお前よりも先にな。

 お前を置いて、みんな、先に死ぬんだよ。

 寝棚の一段目で眠っていたホーバーは、不意に目を覚ました。
 寝る時はとことん爆睡するのだが、図太いどこかの神経が起きているのだろう、彼は周囲の変化には恐ろしいほど敏感だった。
 今もそう。わずかな変化を感じ、普段はたたき起こしたって起きないホーバーは、瞬間的に脳の奥底までを覚醒させた。
 蒼い目を開き、寝棚の上段に当たる天井を見上げる。
 しばらく無言で見つめ、躊躇ったすえに、彼は小さく呼びかけた。
「……ラギル?」
 瞬間、震えたような気配を感じる。
 押し殺した嗚咽が、不自然に途切れる。
 ホーバーは上体を起こし、天井越しにその後の反応を待つ。
 寝棚の一段目から足だけを床に下ろし、もう一度だけ呼びかけた。
「どうした?」
 闇に慣れた目に、深夜の船長室は明るい。後部窓から差しこむ月光は驚くほど強く、船長室を明るい藍に染めている。
 しばらくラギルの答えを待っていたホーバーだったが、何の反応もかえってこないのを確認すると、寝言か……と安堵の息を吐いて、ふたたび眠ろうと寝棚に戻りかける。
 そこではじめて反応が返ってきた。
「ホーバーは……死んじゃうの?」
 予想外の問いかけに目を見開き、ホーバーは戻しかけていた足を再び床におろした。
 わけがわからず頭上を見上げると、涙で顔を濡らしたラギルニットが身を起こし、ホーバーを見下ろしてきた。
「さ、さぁ。今のとこ、そういう予定はないけど……何だ?急に」
 戸惑いつつもとりあえず答えると、ラギルニットはぎゅっと唇を引き結んで、力なくうなだれた。すぐに大きな赤い瞳には大粒の涙が溢れ、ぽたぽたととめどなく落ちてゆく。
「……ラギル、下りてこい」
 怖い夢でも見たのだろうか。うながすと、ラギルニットは顔を引っこめ、長い間ためらったすえに、梯子を使ってのろのろと下りてきた。
 ずいぶんと泣いていたのだろう、ホーバーの目の前に立ったラギルの目は、真っ赤に腫れあがっていた。座ったホーバーと大して頭の位置の変わらぬ小さな小さな子供は、今も必死に涙を堪えている様子だ。
「夢でも見たのか?」
 問いかけると、ラギルニットは金色の髪を散らして、大きく首を横に振った。
「……あの、あのね……っ」
 だが言葉を紡ごうとした途端、意思とは裏腹に声が嗚咽に変わる。涙がふたたび溢れだし、どんなに目を閉じてもどんどんと零れてゆく。
 もう大きくなったのに、いやだな……そう思って必死に涙を堪えようとするのだが、そうすればそうするほど癇癪は大きく膨れ上がるようで、ラギルニットはついに耐えきれず、声を上げて泣き始めた。
「……や、だ……!死ん、じゃ……っやだ……!」
 一晩中、ずっと身体の奥底に押さえつけていた感情が、ついに押さえを破って暴れはじめる。ラギルニットは小さな腕で目をこすりながら、それでも止まらない涙にさらに動揺して、駄々っ子のように言葉をつむぎ始める。
「置いて……っちゃ、やだよ……!!」
「……置いてく?」
 意味がさっぱり分からず首を傾げると、ラギルニットは言葉にならない唸り声をあげて泣きじゃくった。
 ホーバーはしばらく頭を捻らせ、考えこむ。
 不意にその蒼い瞳を笑わせると、ホーバーはまだ幼い子供の名を呼んだ。
「ラギル。お前、死んだ後の世界って、どういうのか知ってるか?」
 突然の難しい質問に、ラギルニットは涙を流したままブンブンと首を振る。
 けれどその赤い瞳は、小さい頃からずっとずっと側にいてくれたホーバーを食い入るように見つめる。
 幼さゆえに、波に晒されたばかりの砂浜のように、穢れを知らない真っ直ぐすぎる眼差し。何の打算すらない助けを求める瞳。
 それをしっかりと受け止めて、ホーバーは微笑みを浮かべたまま目を伏せた。
「あっちには……大きな船が一艘、海の上に浮かんでるんだ」

 白い太陽と、ぶ厚い雲と、真っ青な空。
 どこまでもどこまでも続く、青い青い海。
 そこに、大きな船が一艘、浮かんでいる。

「俺は気付いたら、甲板の上にいる」
 まぶたの奥の景色を見ているような静かな表情を、ラギルニットもいつしか泣くことも忘れて見つめていた。
「きっともう船の上には爺さんや、婆さんたちがいるな。カヴァスじい、ラヴじい、ヴェスに、マートン。ショウルばーさんに、ミス・トルテ。きっと、やっと働き手が増えたってやかましく出迎えてくれる」
 闇夜の中で、その顔は楽しげに微笑んだ。
「一人で掃除やらされたりして、人手の足りなさにうんざりしたりして……俺は甲板の隅で、疲れ果てて海を眺めるんだ」
 自分の泣き声に紛れて聞こえなかった波の音が、耳をくすぐる。
「でもそのうち、また誰かが甲板に現れる。まぁ……俺よりは長生きしそうな連中だな。シャークが来て、クロルが来て、バザークが来て……」
 夜でも暑いタネキアの空気が、褐色の肌を優しく撫でてゆく。
 風だ。風を感じる。これは海の風。
 ラギルニットは引きこまれるように、瞳を閉じた。

 大きな船の上に、一人ひとりと集いはじめる。
 お前もついに死んだかーなんて馬鹿笑いして、抱き合ったり、デコぶつけあったり、思いきり殴り合ってみたりして。
 一人、ひとり、懐かしい顔たちが船の上に集まりはじめる。

「テスとかが来て、ファーが来て、ガキどもが来て……」
 そしてホーバーは最後に、囁くように名を呼んだ。
「そして最後に、ラギルニット、おまえが来る」
「……どうして!?」
 思わず目の前に浮かんでいた夢のように美しい景色のことも忘れて、ラギルニットは目を見開いた。
 金色の睫から涙が散り、拳はきつく握り締められる。
「どうして最後なの……!?どうしてすぐに一緒に船に乗っちゃいけないの……!」
 その必死な様子に、涙の理由を知った気がした。
 ホーバーは苦笑して、ラギルニットの頭をぐしゃぐしゃにした。
「俺がいやだから。……船員の誰もが思ってるよ。自分がラギルニット船長を迎えたい。迎えるときはきっと全員で……全員一緒に、お前を出迎えたい」
「そんなの嫌だ……!置いてっちゃいやだ……!!」
「置いてくんじゃなくて、ただ少しだけ先に行くだけだ。先に行って、お前を迎える準備をする」
「……むかえる、じゅんび?」
「そう。水夫は散らかった甲板の大掃除だろ。料理番はラギルの大好物を作るし、大工は甲板に舞台なんて造ったりして、バザークが調子に乗って歌を歌って……」

 あの青い世界で。
 冒険の海が広がる世界で。
 今か今かと待ちわびながら、船員たちは歓迎会の準備をする。
 やがてすました耳に、高らかな船鐘の音が響きわたる。
 それは合図、あの愛しい子供がやってくる、その合図。
 誰もが満面の笑顔をうかべ、駆けてくる子供に両手を差し伸べる。
 抱きしめるために。抱きとめるために。
 そして、声をそろえて叫ぶんだ。

 ――いらっしゃい、ラギルニット船長……!!

 ホーバーは目を細めて、ふとパン……ッと両手を叩いた。
 まるで魔法が解けたみたいに、まだ見ぬ世界の幻が消えてなくなる。
「…………それから?」
 薄暗い船長室に戻ってきたラギルは、ぼんやりとホーバーを見上げた。
 ホーバーは両手をそのまま広げて、笑う。
「それだけ。盛大にラギルニット船長の歓迎会を開いて、で、次の日にはもう大掃除で、また航海に出る」
「……それだけ?」
「そう。……ご希望でしたら、歓迎会は一週間ぐらいやってもいいけど、そうなると食料の調達のこととか、いろいろ考えないとならないよな……」
 ラギルニットはぱちぱちと涙のくっついた睫毛をしばたかせ、口をもごもごとさせる。
「……置いてくんじゃないの?」
 ホーバーは腕を組んで、難しそうに首を傾げる。
「まぁ、ラギルがよっぽど長生きしたら、数年かそこらはこっちで一人ぼっちだろうけど……でもま、その辺は我慢しろ。俺だってあっちで、爺さんと婆さんにいびられて、数年ぐらいストレスに悩まなくちゃならないんだから」
 その構図は容易に想像がつく気がして、ラギルは思わずぷっと吹きだした。
 笑ったとたん、胸をしめつけていた訳の分からない不安が、少しだけ消えていった。
 ラギルはもう一度だけ笑って、うん、と涙に濡れた目をぬぐった。
「……じゃあホーバーも我慢しててね。おれも、なるべく早く行くから!」
「…………いや、早くは来るな。準備あるし」
「じゃあ、適度に」
「そのようにお願いします」

「……うん!」

 まだ幼いラギルがはじめて認識する死は、あまりに漠然としていて、そして単純。
 泣いた反動で一気に眠気に襲われ、そのままその場で眠ってしまいそうなラギルを無理やり上に引きずりあげて、ホーバーは笑みとともに息を吐く。
薄暗い船長室、月明かりのなかで、子供はすやすやと安らかな寝息をたてはじめた。
 ホーバーは自分の寝棚に戻ると、しばらく、波の満ち引きにも似た寝息を聞いていた。
 いつか、いつかたどりつくあの青い世界を。
 笑い声に満ちた、今と変わらぬ世界を、夢に見ながら。

兄の性格


「ホーバーのお兄さんって、どんな人なの!?」
 どこからか情報を得てきたらしいラギルニットに嬉々として訊ねられ、ホーバーは言葉に詰まった。
「……えっと」
「うん!」
「……あー」
「うんうん!!」
「……髪の毛、黒い」
「っえーー!!」
 思い出せる範囲で答えた途端に、ラギルニットが「それだけ!?」と仰け反った。
「性格とかは? ホーバーに似てる? ホーバーみたく、ずぼらでダラけてて、あわよくば副船長なんてめんどーな仕事やめてやるんだーとか思ってる!?」
 誰から聞いたのだろうか、その一連の情報群は。
 ホーバーは思い当たる船員面々を頭の中で半殺しにしながら、真剣に、兄の顔を思い出そうとする。
 兄リヒッドと最後に顔を合わせたのは、もう十数年前だ。しかもそれ以前とて、面識と呼べるものがほとんどない。どんな人か、とは自分こそが問いたい質問だった。

 リヒッドは、ホーバーが生まれた時には、すでに海軍学校の寄宿舎暮らしだった。誰も教えてくれなかったので、ホーバーは八歳になるまで兄の存在すら知らなかった。
 ある朝、目を覚まして階下に下りると、居間の椅子にリヒッドが座っていた。
 彼は立ち尽くしたホーバーを振りかえり、母に不思議そうな目を向けた。
「誰ですか、あの子供は」
 母は舌打ちせんばかりにリヒッドを睨みつけ、険しい口調で吐き捨てた。
「貴方の弟です」
 リヒッドは眉をわずかに持ち上げ、もう一度だけホーバーを振りかえると、「そうですか」と平坦に呟いた。
 そして何事もなかったように、紅茶のカップを手に取り、優雅な手つきで口に運んだ。
 兄弟の初対面の感想は、それで終わりだった。
 兄は一族の鼻つまみ者だった。ある意味では、ホーバー以上に母から疎まれていた。
 ヴェルデの名を背負うことを嫌い、早々に「家督を継ぐ気はありません」と家を出た兄。母が憎悪してやまない父と、遅い第二子を作ることにしたのは、ひとえにリヒッドが家督を放棄したせいである。
 だが、母の目論見は外れ、二番目に生まれた子供も精霊の血を先祖還りさせた醜い子供だった。
 この日、リヒッドが屋敷に戻ってきていたのは、怒りに駆られた母が宿舎から呼び戻したためだ。
「それよりもリヒッド、貴方は一体何を考え、このような愚行に走っているのですか。貴族の長男たる責務が、そう簡単に蔑ろにされていいわけがありませんよ」
 弟の紹介などそっちのけで、母は凄まじい迫力で長兄に迫った。
「はあ……そうですか」
 リヒッドは母の怒りを素知らぬ顔で受け流し、あくまで飄々と紅茶を飲み乾す。
「リヒッド!」
「聞いてます。美味しい紅茶ですね」
 結局、兄が家に戻ることはなかった。
 
 あれ以降、ホーバーとリヒッドが会話を交わす機会は一度しかなかった。
 兄はそれからも幾度となく屋敷に呼び戻された。そのたび、庭先で一人で遊ぶ弟に一瞬の視線を送ったが、それだけだった。
 十二歳から先は、ホーバーも家を嫌って、下級層の街をうろつくようになったので、兄と会う機会はますます減った。
 だから兄に関して、記憶と呼べるようなものはほとんどないのである。
「変な兄弟だねぇ」
「貴族の兄弟ってのは変なもんなんだよ」
 しみじみするラギルニットに、ホーバーは適当に答える。
 貴族時代の友達はメルしかいないので、本当に根拠のない適当な台詞である。

 ただ――ひとつ兄に感謝していることがある。
 それは、初めて兄に会った日、兄が家族に大して全く無頓着である様を見せてくれたことだ。
 父母の愛情が得られない苦しみに足掻いていた幼い子供は、あの日、兄の背から学んだ。
 子供はそれきり泣くことをやめ、父母に期待することをやめ、自分一人の足で歩く決意をした。
 その先の道で、バクスクラッシャーという家族を得ることが出来たのは、ある意味では、兄のおかげなのかもしれない。
「……でも、まあ、変な兄だったな。今思うと」
 ホーバーはわずかに記憶に残っている「はぁ……そうですか」という言葉を思い出して、クツクツと笑った。
「なになにー!?」
「何でもない。他愛もないこと」

兄貴


「ルイスお兄さまぁ」
 怖気が走る呼びかけとともに、背後からだらりと圧しかかられて、廊下を歩いていたルイスはぞわわっとその場に立ち止まった。
「お金、か・し・て」
 色気皆無で耳に囁きかけるのは、右目に眼帯をつけた筋肉男ワッセルである。
「……イ・ヤ・ダ」
「……潰すぞこの野郎」
 同じ調子で答えてやると、ワッセルは途端に柄を悪くして、かけた体重を二割り増しにする。巨大熊なルイスは動じずに、ただ苦笑をして、年下の友人の赤黒い髪にボスッと拳を喰らわせた。
「まーた賭けにでもつぎ込むつもりだろ。奥さんに叱られるぞ?」
「……あ?奥さんって誰?」
「レティク」
「………………」
 だりゃぁああ!
 ワッセルのムキムキエルボが、ルイスの首に食い込んだ。
「……あはは!く、苦しいって……!」

裁縫選手権


「レティクの傷口はね、私が縫ったのよ」
 突然フィーラロムがそんな事を言うものだから、ラギルは驚きに目をまん丸くした。
「え!えぇ!この傷、フィーラロムが縫ったの!?」
「ふふ……綺麗な縫い目でしょう?」
 フィーラロムは花のように微笑んで、冗談めかして言った。
「お裁縫は昔から得意だったけれど、レティクは私の一番の傑作だわ」
 くすくすと楽しげに笑うフィーラロムに、目の定期健診を受けていたレティクは、動く方の右眉を持ち上げた。
「……それは光栄だ」
「もしも縫い物大会があったら、私はレティクを連れて行くつもりよ。きっと百点を貰えるわ、ねぇレティク?」
「……優勝は貰ったな」
「ほえぇ~」
 縫い物大会に出場して、レティクの傷の縫合をじろじろと覗きこみ、感嘆の声を上げる審査委員たちを想像して、ラギルは感心したように溜息を落とした。
 検査のため眼帯を外した彼の左目は、額から顎にかけての深い裂傷で、完全に塞がれてしまっている。しかし傷が、物静かで端整な顔立ちの邪魔になっていないところがすごい。醜いどころか、鮮烈な凄みが醸し出され、レティクの寡黙な雰囲気に鋭さを与えている。
 レティクは多くの女性の視線を集めるように、ラギルニットの目から見ても、かっこいい人だった。
「……総合大会だったら、優勝どころか、大優勝だよ」
 ラギルニットは、レティクとフィーラロムを交互に見て、一人うんうんと確信げにうなずく。レティクが無表情な顔を右に傾けた。
「……総合大会?」
「うん。お裁縫大会だけじゃなくてね、剣の大会も一緒にやるの。それで総合点が高い人が優勝するんだ!レティクとフィーラロムは絶対に優勝だ!すごいねぇ~!」
 遠近感がつかめないこの状態で、レティクは「あの剣戟」を披露する。力強さを秘めた、流動的な剣捌き。常の冷静沈着とは裏腹な、激しい立ち回り。それを思い起こして、ラギルニットは頬を紅潮させる。
 ラギルニットの子供らしい突飛な発想に、レティクは眼帯を付け直しながら、ふと口端に笑みを宿らせた。
「……すごいか」
「うん、すごい!」
「縫い目の頑丈さは保障付きよ。激しい剣戟にもびくともしないわ。……優勝はいただいたわね」
「……そうだな」
 肩をくすくすと笑わせるフィーラロム。レティクもまた愉快そうに笑い声をこぼす。
 ラギルニットは誇らしさに満面と微笑み、二人をきょろきょろと見比べて、大きく大きくうなずいた。

釣り


「……はぁ」
 レイムは食堂のテーブルに頬杖をついて、彼には珍しく悲観的な溜息をついた。
「どうしたの?レイム」
 真向かいの席でパンを齧っていたファルは、首を傾げて、具合でも悪いの?と心配そうに表情を曇らせた。
 レイムは「あ」と慌てて、ぶんぶんと茶色の髪を左右に振った。
「ううん、元気なんだけどね!ただ……」
 そしてファルがほっと安堵の息をつくのを見てから、レイムは再び憂鬱そうに猫目を細めた。
「なぁんか、さびしいなーってさ。レックはずっと剣の稽古だし、ラギルはずーっと拗ね拗ねモードだし。つまんねぇー」
「あ、ラギっちゃん、やっぱり拗ねてるんだ?」
「そりゃもー。拗ねてるの知られたくないみたいで、あっちこっち逃げ回ってるけど、ホーバー兄ってば探しもしないから、余計に拗ね拗ね」
「ありゃりゃ」
 ファルは苦笑しながら、少し複雑そうに天井を仰いだ。
「でも……分かるよ。ボクは別に、ホーバー兄に剣を習いたいって思ってた訳じゃないけど、でもホーバー兄は誰にも自分の剣を教える気はないんだって思ってたから。教えることがあっても、それはきっとラギっちゃんにだろうなって思ってたから。……それがいきなりレックだもん。ちょっとショックだよね」
「しかも、何でいきなり剣の稽古始めたのか、って二人に聞いたら、二人揃って同じ答え返してきてさ。あれが決定打」
「え、聞いたんだ!?何て答えたの?」
 レイムは顎をうにょーんっとテーブルに乗せて、フッとかっこつけな表情で言った。
「色々と……利害の一致で……だって」
「うわ。意味ありげだねー」
 色々と、だけならセーフだったかもしれない。けれど利害の一致で、まで同じ答えだったのなら、ラギルニットはさぞ面白くなかったことだろう。しかも質問には答えているが、答えには全くなっていない秘密性を持った回答。ラギルニットでなくても、何だか妙な置いてけぼり感を食う。
「ちぇー。僕も何か、習い事しよっかな」
 そして親友二人に揃って存在を忘れられたレイムの置いてけぼり感は、普段楽天家として名高いレイムの心すらも空虚に蝕んだ。見た目、まぁ落ち込んでるかな程度にしか見えないが、実のところ相当へこんでいる。
「じゃあ釣りやろうぜぇ!」
 そこへ、食堂の入口から快活な声が飛んできた。振り返ると、そこには釣り道具を肩に担いだキャエズが立っていた。相変わらず派手なオレンジ頭に、何となく意地悪げな吊り上がった三白眼が特徴の、二人より一歳年上の少年である。
 レックとラギルの三人とでつるむことが多いレイムだが、もちろん、キャエズとも兄弟の絆と誓い合った友である。釣り道具を入口脇に放ると、キャエズは浮かない表情のレイムに歩み寄り、うりゃ!とその首を腕の第一関節で絞めてやった。
「なぁに暗い顔してんだよ、レイムらしくもねぇ!」
「……っぃうあえろあえいう!!」
「あはは、赤イカタコンだ!」
 真っ赤に変色してゆくレイムの頬を、ファルが楽しげにつついた。

武器保管係


 フェルカの仕事は武器保管係だ。
 驚くほど気弱なその性格に、まるで似合わない武器の保管という仕事。
 彼にその役目を与えたのは、実は意外な人物だった。
「てめぇは武器でも磨いてろ、この役立たずが!」
 当時十歳の子供だったフェルカに、鞘にも入れていない剥き出しのカトラスを投げつけてきたのは、誰であろう、子供嫌いのセインだ。
「……今でもはっきりと覚えてる……。潮で錆びたカトラスは、僕の右肩を裂いて、壁にぶつかり、そしてぽっきりと折れてしまったんだ……」
 二階建ての武器庫の暗がり。木箱の上に腰を下ろし、船員たちから預かった武器の一つ一つを、精霊たちの恩恵で丁寧に包みこんでゆく。
「そしてそれに気づいたジルサン船長が、セインを殴り飛ばした……あはは」
 珍しくフェルカは楽しげだ。彼がこんな風に心から笑うことは、あまりない。いつもびくびくと人の顔色を窺う癖があり、笑いも常にぎこちない。
 傍らに座ったホーバーは、フェルカに預けっぱなしの長剣の、研ぎ澄まされた刃を指でなぞって、一緒に笑った。
「それは俺も覚えてる。怒ったセインがジルサンに殴りかかろうとしたら、フェルカが思わず……」
「……そう、思わず……折れた刃をセインに投げちゃった……」
 くすくすと二人揃って、肩を震わせる。
「刃はセインの頭に直撃……セインは血まみれで、医者に担ぎ込まれ……」
「そ、そのときセインが僕を振り返ったんだ……すごい呆気にとられた顔で……っ」
「……っ最強……!」
 セインが大嫌いな二人にとって、セインネタは笑いの宝庫である。互いに武器を持ったまま、腹を折り曲げて笑い転げる。フェルカの手を離れた精霊が、不思議そうに彼らの周囲を舞った。
「……でもあれがきっかけで、ジルサン船長は確かに武器保管は適任かもって僕に……ちょっとだけセインに感謝している……かな」
 笑い涙を拭って、フェルカは散っていった精霊を呼び戻す。
「……さぁ、戻っておいで……」
 指先に戻った精霊は、再びふんわりと武器を包みこんで、せいぜい一日しか持たない結界のようなものを築いていった。
「……それで最後です、副船長」
『保管』を終えた武器を、足元の武器の列一番端に置き、フェルカはにこりと手を差し出した。ホーバーは手にしていた長剣を彼の小さな掌に納めた。
「お任せします、保管係殿」
普段はもっとビクビクしてるけど、気の合う人と二人きりなら、きちんと冗談も言えたりする。でも三人になるともう駄目。
この話のオチは、最後にシャークが武器庫に入ってきて、語らう二人を見て、「よ、妖精さんが二人いるっス」みたいなセリフを吐いて、ホーバーに「フェルカ、投げてやれ」と言われて、終わり……といったところでしょうか(笑)

赤猫の清算


「初めは十本、次に八本……これな~んだ?」
 暗がりに没した視界のどこかから、男が楽しげに謎かけをしてくる。
「正解は、お前の指デス」
 こちらが答えを返すより先に、男が笑って答えを言った。
 朦朧と靄のかかった視界の端で、短剣が振り上げられる。
 それは一度だけ吊るされたランプの明かりを受けて、反射光を閃かせ、そして勢い良く振り下ろされた。
 テーブルには、無理やり押し付けられた自分の両手。
 強張る手の甲に、はちきれんばかりに血管が浮きあがる。
 僅かに自由のきく第一関節、伸びた爪がテーブルの表面を掻いて、割れる。
 血液が沸騰し、髪が逆立ち──

 ゴン……という音がして、ぱらぱらと何か小さな物が転がる、軽い音がした。

「……おや、大変失礼を。どうやら問題に誤りがあったようで」
 黒髪に長身が印象的なその男は、冷たい笑顔を浮かべたまま、おどけた口調で言った。
「八本ではなく、六本でした」

 ──過去は清算される。遠くない未来に。
 否、自分が過去を清算する。
「ようやく見つけた……」
 十五年以上前に失った、親指しかない右手を見つめ、彼は夜の暗闇に没した帆船をひっそりと見上げた。
 探し続けた、あの男の行方。
 鮮烈な微笑とともに、突如自分の舞台から姿を消したあの男。
 戦場の、黒き指裂き傭兵の名。
「セイレスタン……」
 彼の眼差しが危険な色に輝く。
 両足の間を、彼の赤い猫が八の字を描いて、一声だけ鳴いた。

雪の汚物


 一晩中降り続いた雪は、朝には止んでいた。
 腹に溜め込んだ白い汚物を、すっかり吐きつくした空は、気味が悪いほどに青一色。
 たいして街は、白一色。
 晴れの日にはそれは見物な赤い屋根の群れも、今はところどころにその片鱗を残すのみだ。
 降り積もった雪はずしりと重く、陽光を反射して真っ白に輝く様は、美しいというよりも、目に痛い。
 すでに人々は目を覚ましている時間だが、家々の扉は重い雪に邪魔をされ、開く気配がない。太陽がそれを融かし尽くすまで、まだ時間がかかるだろう。
 心地よい、否、非現実的なまでの静寂。まるで夢の延長線上にでもいるかのよう。
 街の目覚めは、まだ先だ。

 ここは冬の街。
 雪積もる、スカルヴェーラ。

 黒い外套は防寒性には優れるが、その反面、圧しかかるように重い。ふわりと雪の粉を撒き散らして吹く風にも、外套はわずかにその長い裾を揺らすのみだ。
 街の一角にある小さな広場、というよりは、道を造る行程で非意図的に出来てしまった、帳尻合わせのような空間に、その”黒い外套”は立っていた。
空は青、街は白、時折見える屋根は赤、そして白の上に引かれた、家々の直線的な黒い影。
 ──男は、そのどれにも属さない。同じ色であるはずの影にすら同調せず、鮮やかな空にも雪にも、決して溶け込むことはない。
 街が見ている夢のなか、その男だけは夢の一要素ではなかった。
 ”黒い指裂き傭兵”。かつてその名で呼ばれ、今は海賊の水夫などに成り果てた男は、白い吐息とともに、煙草の煙を吐き出す。
いつからそこに立っているのか、彼を囲む雪の上には、足跡が存在しない。しかし彼がまとう黒い外套には、雪は降り積もっていない。
 もしかしたら、彼もまた夢の一要素にすぎないのかもしれない。
 セイレスタン=レソルト、それが黒い要素の名だ。

 何かを待っていた、という訳ではなかった。
 だが前方から近づいてくる人影に気付いた自分が、狂気じみた笑みを浮かべたことを考えると、やはり待っていたのかもしれない、とも思う。
 彼を。いや、彼をというよりも、彼が来たことにより変化し、狂化する自分を。
 目に痛い輝く雪のその向こう、無秩序に並ぶ家々の間を縫って、一人の男がこちらへ向かって歩いてくる。
 細身だが釣合いのとれた体躯を包む、濃紺の外套。風に吹き上げられた粉雪が、明確な色で構成された街には不似合いな、蒼とも碧とも、また白とも付かぬ長髪に纏わりつき、夢への同化を促している。だが、その色が街の夢に染まることはない。
 当たり前だ、とセインは白い息の中で笑う。あれを血の赤で染めるのは、自分なのだ。好敵手という訳ではない。ただの敵、そんな生ぬるいものでもない。
 この感情は。
 足元から這い上がり、全身を嬲ってくる様な、この感情は。
 ──実の所、知っている。これはただの転化。本当に染めてやりたいのは、彼自身ではなく、その背後に見え隠れするあの男。
 黒い外套の底が深いポケットの中で、皮の厚い指先が”相棒”の冷ややかな肢体を撫でる。瞬間、彼は冷笑した。
 ──最近、知った。確かにそれは憎悪の転化。だが何時しかそれが、あの男へではなく、彼そのものへの感情へと変化していたことに。
 強烈な嫌悪感。嫉妬にも似た劣等感。癇癪を起こす寸前の熱せられた感情、憎悪以上にどす黒い、ある種の狂気、一種の愛。
 一歩一歩と、緩慢な足取りで近づいてくる”奴”を待つ自分は、達する前に焦らされた女のそれと良く似ている。
 感情の奔流に耐え切れず、セインは靴先で雪を踏みにじり、その潔癖を穢した。
 目に痛い雪の反射、肌を刺す冬の冷気、耳を打つ夢の静寂。
 帳尻合わせの空間に、奴が足を踏み入れた。

「……よお」

 口を開いた途端、まだ体温を保っていた口内に、冷気が舞い込んだ。
 内側から熱を奪われ、体内の臓器が急激に冷えてゆく感覚。だが相反し、狂気の熱は冷めるどころか、むしろ熱量を増してゆく。

「晴れたな」

 セインは馬鹿げた挨拶を相手に投げかけた。

「夢の中みたいだ」

 それは一時の、恐らくは数秒後には始まる惨劇の前を飾る、わずか数秒の余興。あるいは夢から覚める直前の、最後の余韻。
 雪の上に真っ直ぐな跡をつけてきた奴は、セインの落とす影際で足を止める。

「そう、思わねぇ?」

 問いかけへの反応は、なかった。
 相手の反応を沈黙でもって促すが、行動でも、言葉でも、奴は何一つ答えを返さなかった。
 深く項垂れたその表情は、明確な色を持たぬ髪の中に隠され、セインには見えない。
 無駄のない剣戟を生み出すその腕は、だらりと垂らされ、まるで力ない。
 セインの快楽めいた笑みが、雪が融けるように消え失せる。
 奴の体が、膝から、崩れ落ちた。
 鮮やかな色をした髪が、青い空に散った。
 落ちた膝がひどく重たげに雪へと沈み、濃紺の外套が少し遅れて主の後を追う。
 祈りを捧げる彫像か何かのように、膝をついたまま動かぬ彼の周囲に、じわりと赤い色が広がっていった。
 雪の粒子ひとつひとつの間を縫って、鮮やかすぎる赤が染みこんでゆく。
 皮膚の下で脈打つ血管のように、流動的に。
 脈となって、雪を赤が侵食する。
 それは、血の赤。

 黒い外套の裾が、ばたりと重たげにはためいた。
 夢と見紛う街の静けさにとって、それは何と邪推な音。セインは意識していなかった外套の重みを唐突に認識し、全身に気怠い重力を覚えて、疲労感に駆られた。苦おしいほどの熱は嘘みたいに冷め、殺気にぎらついていた目は、死体の白濁したそれに変わる。
 雪に膝をついた彼は、深く項垂れて、セインを見上げることもしない。
 ──彼もまた、はじめから夢の一要素にすぎなかったのだ。
 セインが染めてやらずとも。すでにそれは夢の一部。
 血の熱さに、赤い雪が融解を始めた。それを興醒めしたように見下ろして、セインは食んでいた煙草から口を離した。白い煙を吐いていた煙草は、雪の上にぽとりと落ちて、微かな断末魔をあげる。
 背後で、気配を感じた。
 セインは、吼えた。
「……動くなカンゼル=ヴィシュタ!!」
 目の前の彼へ見舞うつもりだった三本の”相棒”が冷気を切り裂き、駆け出した背後の気配を刺し貫いた。
 短い悲鳴とともに、それでも雪を踏む軋んだ音が聞こえてくる。セインは逃げ去る足音の行き先を意識の外で追いながら、足元に広がる赤い色を見下ろした。
 雪の街が生み出した夢は、終わりを告げる。
 突然の怒号と悲鳴に反応して、周囲を囲う家屋から物音が聞こえてくる。
 太陽はすでに上りきり、雪も徐々に解けはじめるだろう。
 夢に似た浮かれた気分は、凍えんばかりに冷え切り、
 現実が、始まる。
 夢よりも曖昧で、不確かな現実が。

 夢を構成していた雪の白さが、空の青さが、血の赤さが──

 黒い外套が、翻った。


 バクス帝国には雪が降る。
熱帯のタネキアに今は居を構える彼らだけど、やっぱり冬の国に生まれたので、長くて重たい外套も良く似合う。
ホーバーもだけど、セインなんか、本当、むしろバクス帝国らしい衣装とか似合うんだろうな。あの厳格で、人を寄せ付けない、帝国の冷たい雰囲気。
愛情表現が淡白で、むしろ憎悪対象へ向ける感情の方が、はるかに貪欲で執着めいているセイン。傍から見てると、セインの憎しみは、愛よりも深いように見えるのかもしれない。セインにとって愛がさほど重要でないなら、彼を手に入れるには、彼の憎しみを勝ち得る方が近道で、確実なのかもしれない。
敢えてセイン視点にしたんですが、元々はこの断片は、カンゼルの断片。
カンゼル=ヴィシュタ。
バクスクラッシャーが内包する、危うさの象徴。

双子


「レイリはわかってない! いつまで夢を見ているの!? レイリの見ている夢は、全部嘘で作られてるのに! どうして気づかないんだよ……っ」
 あれだけ言葉を飲み込んできたチカルの、思いもよらなかった罵倒を受けて、レイリは愕然とした。ずっと彼は一心同体のように、常に同じ心を共にしていると思ってきた。なのに今彼が放つ鋭い言葉は、何一つとしてレイリの心に適っていない。
 レイリは言葉の半分も理解できないままに、反射的にチカルの右頬をひっぱたいていた。
「……ひどい……! ひどい……っ!」
 悔しさでか、それとも悲しみでなのか、涙があふれ出てくる。
 言いたいことは山ほどあるように思えたのに、涙と興奮とで少しも言葉にならない。
 そもそも言いたいことなんてなかったのかもしれない。
 ただレイリは、哀れなほどに、呆然としていたのだ。
「……レイリ」
 赤く腫れた頬を寂しげに撫でて、チカルは静かに、けれどはっきりと、言った。
「父さんは帰ってこない。あんな裏切り者、帰ってこなくていい」
 その意味もまた、レイリには少しも理解することができなかった。

賭けの敗者


 駆け引きは得意だが、賭け事は苦手である。
 という事実が明らかになった時、必ず全員が声も出ないほど驚く。
 レティクの話である。

「…………」
 レティクは相変わらず読めない表情で、食堂の傾いだ椅子に、すらりとしたその体躯を預けていた。
 そんな彼の様子を、海賊たちは嬉し恐ろし、複雑な感情でもって、廊下からこそこそ見守る。
 自分が負けなくて良かった。本当に心の底からとても良かった。
 こんな恐ろしい罰ゲーム、自分には絶対にこなせない。
 海賊たちは身震いして、もっと慌てろよと突っ込みを入れたくなるほど冷静平静そのものな水夫長補佐、及びカードの敗者殿を、じとりと汗の滲む視線で見つめた。

 話は変わるが、この海賊船には「50人の船員がいる」。
 実の所、これは正確な数ではない。船員によって、その解釈が少しばかり異なるのだ。
「ラギルニット船長と50人の船員、全部で51人の海賊」という船員がいる。
「ラギルニット船長を含めて、全部で50人の海賊」という船員もいる。
 メイスーの話である。

 どこから現れたのか、それとも始めからそこにいたのか。
 厨房の隅にわだかまる闇の中、陽炎を思わせる蒼光が揺らめいた。
 漆黒のヴェールを掻き分けるように、長い四肢が闇を掻いて、現われ出でる。続いて、柳を思い起こさせるしなやかな体が、冬の月に似た白い肌が、そして凍てつく微笑を湛えた顔が──メイスーが姿を現す。
 海賊たちの誰もが息を飲んだ。レティクもまた軽く顔を持ち上げた。
 メイスーは食堂の一角にレティクの姿を認めると、笑みを浮かべたままゆらりと首を傾けた。
「おはようございます、レティク」
「……ああ」
 待て今は昼だ昼だよメイスーもう真昼だよーと、誰もが思ったが口に出せない。口に出せない分、些細な事なのに突っ込みたくて仕方なくなる。影でこそこそ脇腹を突っつき合っている海賊たちに果たして気づいているのか、メイスーは不気味に微笑み、レティクの座る椅子の前で立ち止まった。
「何か御用ですか……?」
 冷静沈着な敗者殿と、不気味に微笑む暗殺者が、感情の読めぬ視線を交差させる。
 罰ゲームの発案者たちは、ゴクリと息を飲んで、恐怖で小便を漏らしそうになりながら、罰ゲームの行方に目を凝らす。

 ある船員は、彼が船員ではないという。
 ある船員は、彼が船員であるという。
 彼の私生活は欠片とも見えてこない。彼の姿を見かけることは稀だ。彼と世間話をした者はついぞ見ない。時折ふらりと姿を消して、時折血にまみれて帰ってくる。彼の仕事は自称他称ともに暗殺だ。
 そう、彼は暗殺者。
 誰も怖くて聞けない。にもかかわらず、誰もが怖いので聞いておきたい。
 お前は海賊なのか? お前は仲間なのか?
 違うならば、十年もの間、どの海賊の「首」を狙い続けている?

 罰ゲームのお題は、尋ねることである。
 長年の、恐ろしき疑問を。

 レティクは周囲の殺伐とした空気などまるで意に返さず、メイスーを静かに見据えると、ものすげぇあっさり、尋ねた。
「何故、お前はここにいるんだ」
 船員たちは、喉の奥でヒィッと呻いて、恐怖のあまりに凍りついた。
 メイスーはたっぷりと数秒間考えるような素振りをして、微笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「小腹が空いたので……」
「…………」
「…………」
「…………ああ」
 レティクは相変わらずの無表情のまま、やはり数秒の沈黙の後、なるほど、とばかりに頷いた。
「そうだな……ここは厨房だからな……」
「そうですね、ふふ……」
「…………」
 二人の周囲で、ぱたり……と気のぬけた音が響きわたる。船員たちが一斉に、真っ白になって倒れた音である。
 レティクは港町の女どもが悲鳴を上げそうな流し目で、周囲にいるだろう船員たちを見つめ、再びメイスーに視線を戻す。さりげに困り果てているのかもしれない。
「じゃあ、何故お前はこの船にいる」
 訂正。レティクに限って困惑などありえない。彼は再び、やめてくれと土下座でお願いしたくなるほどあっさりと暗殺者に問うた。
 実は質問の意図に気づいているのだろうメイスーは、はぐらかすのをやめ、その微笑に楽しげなものを含ませると、ふとレティク同様に周囲を見つめた。
「……そうですねぇ……」
 そして彼は、瞳の笑わぬ氷のような微笑で、答えた。
「私にカードで勝てたら教えてあげますよ……皆さん?」
 瞬間、ドタドタッという音と、ひぃ待ってくれ俺を置いてかないでくれという情けない悲鳴とともに、周囲から気配が完全に消えうせた。
 それきり、食堂とその周辺は、カードの敗者と、暗殺者のみとなった。
 くすくすと船員たちを見送るメイスーを、レティクは改めて見上げた。
 それに気付いて、メイスーもまた彼を見つめ返す。
「あなたは、しますか」
 レティクは肩を竦める。
「負けた者が勝ち、という勝負ならば」
 そして彼は別れの挨拶も特になく席を立ち、メイスーに背を向けた。
 メイスーは静かに笑い声を零し、再び存在を気取られぬ闇の中へと姿を没す。
「……そう。あなたも知りたかったのですね。勝てない勝負に敢えて臨むほどに」
 ただ声だけが、くすくす……とレティクの後を追う。
 ゲームの敗者はただ軽く肩をすくめ、無人と化した食堂を後にした。

虹色の髪


「サリスの髪の毛ってさぁ…………本当は何色なの?」
 釣りをしていたら、おもむろに背後から問われ、サリスは快活に笑う。
「どうしたどうした~? さてはキャム、オレに興味津々かぁ?」
「……あんたの髪にね」
 つっこむ気もないのか、ごくごく普通の返答をしてくるキャム。
 サリスはそっかーと大げさに肩を落とし、ついでに落とした竿でもってちゃっかり魚を釣り上げ、あっさりとテンションを回復させる。
「生まれたときはな、つるっぱげだったな!」
「……まぁそうでしょうね」
「その次にナチュラルに生えてきたのは……ヘイ! 鱗が虹色だぜ、見てみろよ!」
「……あんたの頭がね」
 サリスが捕まえた魚も、サリスの頭も同じ色に輝いている。
 まったく、これほど奇天烈な髪もそうそうない。しかも毎月色が違うのは、なんのまねなのか。ただのお洒落さんなのか、飽きっぽいのか、ばかか。
 そこでサリスはようやくキャムを振りかえった。
 つるっぱげに、虹色モヒカン。
 ついでに顔は、熱血である。
「地毛は黒さ。キャムとおんなじのな!」
「……一緒にしないでよ」
 爽やかさと暑苦しさの中間で笑って、不意にサリスはちょいちょいと自分の横を指差す。
 素直にちょこりと腰を下ろすと、サリスはキャムの頭をガシッと抱き寄せた。
「どうした、ちびっこー。元気ねぇなー」
「うるさいな。こめかみグリグリしないでよ」
「オッ、知らねぇな!? こめかみってのはな、グリグリするためにあるんだ! グリグリする以外で、こめかみ使ってんの見たことあるか? ねぇだろ、そら見ろ!」
「意味わかんないし」
 キャムはぐずっと鼻を鳴らす。
「……ってゆーか、なんで虹色なの!? もーっ」
「ハハハ、八つ当たりとは生意気な! キャムもしてみろ、スカッとするぞ!」
「イラッとするもん!!」
「ハッハハーッ!」
 笑い声と涙まじりの怒鳴り声が、空に吸い込まれる。
 虹色の魚が、びちゃっと跳ねて、海へと飛んでいった。

副船長の報復


 最初の訓練らしい訓練は、剣技の基本型の反復練習から始まった。
 たった一つの、一見すれば単純極まりない型を朝から昼まで延々と繰りかえす。その実、本気で打ち込めば、死ぬほど疲れるこの基本型を、一度こなすたびに、腕の角度だの足運びだの、些細な部分を矯正されては再び繰り返させられる。
 負けず嫌いを自負するレックもさすがに音を上げそうになった頃、ようやくホーバーが剣を下ろした。
「こんなもんか。とりあえずは、この型を毎日やること」
「……お、おうよ」
 たかが数時間の打ちこみで疲労困憊な自分と、大して疲れも見せていない副船長との違いを思い知らされ、レックは情けなさと悔しさから、怒ったような口調で答えた。疲労感から重くて上がらない腕を、疲れを悟られまいと大げさに持ち上げ、剣を腰の鞘にしまう。努力空しく、腕は恥ずかしくなるぐらい豪快に震えた。
「……ま、毎日、どれぐらい打ちこめばいいわけ!?」
 カァ……ッと顔を赤くさせながら、レックは無駄に声を張り上げた。
「毎日、どれぐらい?」
 ホーバーは思いもよらぬことを聞いたような顔で眉を持ち上げ、右斜め上を見上げて首を傾げた。何か気弱なことでも言ってしまっただろうかと思い、レックは慌てて付け加える。
「いや、どれぐらいっていうか、お、おれは何回でもやれるけど!ただその、何回、型を打ち込んだら足りる?剣やる連中ってさ、毎日、どれぐらい打ち込むもん?」
「それは……好き好きで。自分が満足いくまで、やればいい」
「満足いくまで……って」
 物凄い適当に言われた気がして、レックは不満げにホーバーを見上げる。
 ホーバーはそれを苦笑して見下ろし、やはり同じ口調で言った。
「飽きたら、やめろ」

(うっひゃー。ホーバー兄ってば、キッツー)
 レックの剣の訓練を、甲板の隅にごろりと横になって眺めていたレイムは、内心でにんまりと笑った。
 レックの性格はレイムが良く知っている。負けず嫌いなせいか、一度のめりこんだ事に対してはとことんこだわるくせ、唐突に興味を失うことがままある。熱しやすく冷めやすい、これはレック自身も自覚している、彼の悪癖である。
 ホーバーがどんな意図で「飽きたらやめろ」と言ったのかは分からないが、少なくともレックはホーバーの言葉の意図を探ろうとするだろう。
 どうせすぐ飽きるだろう、と言外に言われた。恐らくはそう感じるはず。
(午後からが楽しみだなぁ)
 明日からといわず、恐らくは午後から、レックはひとりで打ちこみを始めるだろう。それが容易に想像できる気がして、レイムは笑った。
 ふと船室に入ろうとしたホーバーに視線をやれば、副船長もまたレイムと同じ確信めいた笑みを浮かべていた。

本当の名前


「シャークもホーバーも、お前ら、それ、本名じゃないだろ」
 そんなことを唐突に言われ、その「シャーク」と「ホーバー」は思わず顔を見合わせる。
「それが何か重要?」
「っスか?」
 二人は声を揃えて(シャークの方がちょっとはみ出したが)、同じ答えを返した。
 スタフィールドは、溜息まじりに、二枚の紙を眼前に持ち上げ、ひらひらと揺らした。
「本名の方で、賞金かけられてるぞ」
「……!?」
 やはり同時に二人は立ち上がり、紙をスタフの手からぶんどった。
「ギャーッ!本当っス!」
「本当だ。何でだ?誰が……つーかシャーク、お前……お前……こ、この名前は……」
「なんスか」
「似合わない」
「……ホーバーに言われたくないっス!なんスか、その……ププーッ」
「ほっとけ!……というか、俺ってこんな名前だったっけ……」
「オレもちょっと違和感が……」
「シャークって名前も違和感ありまくりだろ。明らかに偽名だろ、シャークって」
「ホーバーって名前だって、いかにも偽名な、変な名前っス!なんスか、ホーバーって!気が抜けるっス!ホーバー!?ホォ~バァ~!?」
「連呼するな!宿帳がそうなってたんだからしょうがないだろ!」
「宿帳?……あぁああ!ええぇええ!?そういうあれなんスか!?」
「言ってなかったっけ」
「知らないっス」
「……言ったの、クロルだっけ…………やばい、歳くったな、俺も。記憶が曖昧だ」
「……ホーバーより年上のオレは、どうなるんスか」
「えー?どうにもならないんじゃないの?なにせ「シャーク」だし?」
「よく分からないっス!分からないけど、なんか腹立つっス!「ホーバー」のくせに!なんか膨らんでそうっスよ、何かが、この名前!」
「は!?」
 怒涛のごとく言い合いをした末、ホーバーは唐突に吹き出した。
「ふ、ふくらんでそうって……何っ」
「や、分からんっスけど!ふくらんでそうっス!」
「何が……っ」
 そのまま腹を抱えて笑い出し、しまいには机までバシバシ叩く有様なので、シャークも可笑しくなって、「ホーバーボーンッ」と叫びながら、「膨らむ」様を身振り手振りで表現し始める。
 スタフィールドはものすごくつまらなそうな顔で、頬がぐにょんと上に伸びるぐらいの頬杖をし、ハイハイとばかりに呟いた。
「……で、ふくらんでそーとか、牙生えてそーとか、ウンコ踏んでそーとか、どうでもいいんだけどよ……どうするんだオラ。本名で賞金首なんて、やばいだろ、あれこれと。おじちゃん心配してあげてんだけどコラ」
 それまで笑い転げていた二人は、ふと笑った。
 茶目っ気たっぷりに、余裕たっぷりに、
「来るなら来ればいい。その紙見て、賞金稼ぎが来たなら」
「懇切丁寧に、言ってやるっスよ」

「”人違いだよ”っ」

 ビリビリにやぶられた紙は、狭い食堂の天井に舞う。
 捨てた名前にも、過ぎた過去にも、興味などない。
 バクスクラッシャーの中核を担う二人の若者を、スタフィールドは持ち上げられた頬の下で、溜息まじりの微笑みで見つめた。


偽名の船員は、案外少ないかも、と今更気づきました!多いとばかり……!
ホーバーとシャークは偽名。クロルは本名(クロル=ジャーリッド)。
偽名使ってそうな奴らが、案外本名なようです。セインもダラも、本名。
……ダラ=金。(違う!)
クステルが偽名だったらウケるなー(笑)長ぇよっ(笑)
ホーバーの本名はバクス帝国の貴族らしい響き。
シャークのは……意外な響きかも……ホーバーがうろたえるぐらいに似合ってないかも(笑)

未来の創造


「なぁ、ラギル」
「なぁに?」
「お前、今よりでっかくなったら、何になりたい?」

 夕焼けで赤く染まった海と空。
 舵台に二人腰を下ろして、真っ赤な夕陽が水平線に沈む刻を見送る。
 ラギルはにぱっと笑って、隣で碧の髪を赤く染めてる人を振り返る。

「海賊の船長!」
「…………じゃあ今のお前は何なんだ、ラギル船長?」

 呆れ顔の副船長の問いかけに、ラギルは腕組をする。

「えー……海賊の船長さん?」
「……さん付けか」

 半円になった夕陽が、海に映って正円になる。
 見る間に沈む赤い日は、その姿を楕円へと変えてゆく。

「おれは、将来、海賊の船長になるんだ!今が船長さんでも、船長さんじゃなくっても、いつだっておれは海賊の船長になりたいの!」
「…………ふぅん」

 風が吹く。古代から変わらぬ海の風。
 靡く金色の髪を透かし見て、ラギルは理解したようなしていないような表情の副船長に笑顔を向けた。

「ホーバーは?」
「……え?」
「ホーバーは、今よりもっと大きくなったら、何になるの?」

 副船長は星屑の巻かれた空を見上げて、首をかしげた。

「……ジジィ?」

「えぇ!?」
「その前に中年か……」
「えぇー!?」

 腹を抱えて笑う声は、赤い太陽と一緒に風と海と明日へと包まれて……

 ──穏やかな夜が静かに訪れた。

翼を持つ悪魔


 夕暮れの鮮明な色が、天から降りそそいで、海面を緋色に染める。
 船べりに座って眺めていたシャークが、ふと、歌を口ずさみはじめた。

牙より生まるる 赤い陽
 明るむ空に 黒い羽

 立ち行かんと 影がのびる
  引き止めんと その影をふむ
 願いむなしく 帰らぬひとに
  手向ける花の ひとつも咲かぬ
 荒野に娘の泣くこえ 消える

「……何の歌?」
 甲板に寝そべっていたキャムが、躊躇いがちに、傍らのホーバーへ問いかける。
 歌はゆったりと、けれどどこか哀しげな旋律で、船上を流れる。
 大きな声ではなくて、小さな声でもなくて。
 ただ風音のような歌声が、茜色の帆へと吸い込まれてゆく。
「シャークの故郷の歌だよ」
 彼らと距離を離して、一人、船べりで歌うシャークを見つめ、ホーバーは答える。
 キャムはその横顔を寝そべったまま見上げて、ふぅん……と目を逸らす。
「どうしてこんなに哀しげなの……?」
「シャークの故郷は、暮らすには厳しい場所だったから」
「……っス、って言わないのね」
 普段とはまるで違う、茜色に染まったシャークの姿。
 どこか人を寄せつけない、悲しげで、愛しげで、遠い、遠い、その姿。
 拗ねた様子で呟くキャムに笑って、ホーバーは目を閉じる。
 ──一度だけ訪れたことのある、シャークの故郷を思い出す。
 瞼裏に浮かぶのは、真っ赤に染まった夕刻の空と、草木も疎らな赤茶の荒野に伸びる長い長い人影と、
 そして、赤く焼けた空に浮かぶ──翼を持った黒い魔物たち。


「おれだって、たまには怒るもん」
 拗ねた様子で口を尖らせる。赤い瞳は床を見据えて、こっちを見ようともしない。どうやら本当に怒っているらしい。
 部屋の隅っこで、膝を抱えてうずくまるラギルニットを、頭を掻きながら見下ろして、シャークは正体不明な溜息を落とした。
 あまり、感じの良い溜息じゃなかった。
 ラギルニットはムッとして、無言のシャークを上目遣いににらみつけた。
 シャークはそれを淡々と見下ろして、静かに口を開く。
「……オレも、たまには怒るんスよ」
「…………」
 いつもは笑みで細められているシャークの眼差しは、丸眼鏡ごしにラギルニットを真っ直ぐに見下ろしている。怒っている目つきではない。けれど穏やかな目つきでもない。──つまりシャークも怒っているんだ、本当に。
 ラギルニットは抱えていた膝をぐっと抱きしめて、唇を引き結んでうつむいた。
「……謝らないよ。おれ悪くない!」
「別に謝れなんて言ってないっス」
「じゃあどうしてほしいのさっ」
 思わず発したラギルの言葉に、シャークは眉根を寄せて再び溜息を落とした。
「言われて嫌々やるぐらいなら、何もしてほしくないっス」
シャークはいつもはヘラヘラしてるけど、怒るときは怒るのです。十三人兄弟の真ん中らへん生まれなので、怒るし叱る。それはいけないことっスときっちり怒って、ラギルを教育。
対して一見怒りそうなホーバーは、わりと放任主義。自分で気づきなさい的な適度の放任によって、ラギルを教育。
クロルは臨機応変。バザークは諭すタイプかなぁ……ダラは……怒らない気がするなぁ。適度に怒るという感情が彼には欠落しているような……。

ピンク色の涙


 闇に沈んだ帝都を、血の臭いのする影が音もなく這いずり回る。
 雲間から漏れ出でた月光に輝くのは、狼に似た薄青色の眼。
 人よりも獣に近い双眸が、今宵の獲物を見い出した。
 空気を切り裂く音とともに、獲物の首に鞭が巻きつく。
 呆気なく、実に他愛なく。
 虚空には、ゆらりと垂れ下がる、血もなき死体。

 カウントダウン・ジャック。
 それはかつて、バクス帝国を恐怖の渦中に陥れた殺人鬼の名だった。
 11年の長きに渡り、彼が殺したといわれる死者数は、百人にものぼる言われている。
 現在に至っても彼は逃亡中で、現在に至っても指名手配中で、そして恐らくはひっそりと影の中で死した後も指名手配中のままだろう。
 連続殺人犯カウントダウン・ジャック──ガルライズ。
 彼は死ぬまで、光差す真っ当な道を歩めない。
 歩むべきでもない。

 ガルライズという男は、陽気な男だ。
 セインやワッセルなんかとつるんでいるせいで、船員たちは距離を置きがちだが、実際話して見ると驚くほど陽気で、驚くほど快活で、仲間思いな一面すらある。
 だからつい忘れてしまうのだ。ガルライズが一体何者であるかということを。
 ガルライズの両腕には、奇妙な傷跡が無数に刻まれている。腕の側面を肩から手首にかけて、何十本もの横線が引かれているのだ。
 それは噂によると「カウントダウンジャックが殺した獲物の数」を表しているという。
 つまり変質的な強さを誇示するための、自意識過剰な自傷の傷ということだ。
 噂が正しいなら、傷は100筋あることになる。
 実際に数を数えた馬鹿はいない。傷が幾筋あるか、実際に正確な数を、ガルライズ以外で知っているのは、ほかに三人しかいない。そのうちの一人は、すでにこの世に存在しないため、実質たったの二人である。腹の上に横たわって、甘いまどろみの中、傷跡を数えたりもした女もいたかもしれないが、その意味など分かりはしないだろう。彼がカウトンダウンジャックであると知って、寝る女などそうそういない。いたとしても、ガルライズはそういう類の女になど見向きもしない。
 船員たちにいたっては、ガルライズの腕の傷は風景の一部でしかなかった。なにせ仲間になって、もう十年以上経つのだ。見慣れてしまえば、傷などとるにたらない風景の一部となる。
 まして傷持つ者が陽気で快活であったなら、尚更傷の持つ凄惨さも、傷の存在自体も、忘れがちになる。
 だが。
 見慣れたからといって、意識が傷へ向かないからといって、傷自体が消えるわけではないのだ。
 時折、ガルライズの傷は、思い出したように血を流すことがある。
 無数ある傷のうち、今なお深く刻まれたものは、何かの衝撃で薄皮をやぶり、中を流れる赤い血を溢れさせるのだ。
 鮮血はまったくの突然で、それを目の当たりにした船員は、大抵凍りつく。
今まで笑い合っていた男が、突然見知らぬ人間に思えてくる。
 足元がガラガラと崩れ落ち、どうしようもない恐怖にとらわれる。
 傷は、自傷の傷とは思えぬほど、ひとつひとつが真っ直ぐで、躊躇い傷などひとつも見られず、綺麗なものばかりだ。
 顔が浮かぶ。この傷を刻んでいる殺人鬼の冷徹な顔が。
 それが陽気に笑う目の前の男と、重ならない。
 そのギャップに、船員たちは頭が空白になり、反射的に凍り付いてしまうのだ。
 ガルライズは、いつも傷から血が出ていることを、話していた相手の顔から知る。
 ガルライズは、笑ったままの顔で、船員の顔を見つめ、笑ったままの顔で、自分の腕を見下ろして、笑ったままの顔で、船員を再び見つめる。
そして言うのだ。
「じゃ」
 何が、じゃ、なのかまるで分からない。
 ただガルライズは、いつも必ずそう言って、話の最中であろうがなんであろうが、手をひらっと一つ振ると、そのまま背を向けて、どこかへと去っていってしまう。
 そして、メルは、今、凍りついていた。
 ガルライズは笑ったままメルを見つめて、いつも通り「じゃ」と言った。
 腕から流れた血が腕を伝い、中指を伝い、甲板に一滴だけ小さな痕を残す。
彼が背を向けた瞬間、メルは自分でもどうしていいか分からないほど動揺し、困惑し、自分自身に激しい嫌悪を感じた。
 そんなつもりなどなかったのだ。そんなつもりなどなかったのに、血を見た瞬間、ガルライズが一体誰なのか、わからなくなってしまった。
 メルは言葉を失って、その場に立ち尽くす。
 外していた眼鏡のせいで、彼女は高飛車な変態科学者になることもできず、ただ対照的なまでに普通の素顔で激しく後悔するしかなかった。

「……どいてよ」
 ガルライズの船室の前では、セインが扉を背に立ち、煙草をふかしていた。
 軽く頭三つ分以上は低いメルをちらりと見下ろし、セインは再びそらした視線で吐き出した紫煙の行方を追う。
「おどきくださいませんこと、帝王様」
 腰に手をあて、顎をそらして言ってやると、セインは無表情のまま答えた。
「お断りいたします、女王サマ」
 メルはムカーッときて、
「ダラダラ、中にいるんでしょ、おどき!奴に用があるんだから!」
「断るっつってんだろ……」
 セインはまるで相手にせず、
「何でよ!」
「うっせぇな……」
「ダラに用があるの!この脳味噌空男っ」
「後にしろよ……」
「後じゃ遅いのよ!ダラが普通に戻ってからじゃ……っ普通の顔作った後じゃもう遅いの!!」
 あくまで退く気のないセインに、メルは激しい焦りを覚えた。高慢さで押し隠した本物の感情が、堰を切ったようにあふれ出し、悲鳴に似た声が出る。
それが悔しくて、メルはピンク色をした唇を噛みしめると、遥か高い位置にあるセインの顔を睨みすえた。
「……おどき、セイン。あたし、どうしても奴に言わなきゃならないことがあるの」
 だがそれでもセインは、視線を逸らして煙草を燻らせるばかりだった。
「なに言おうってわけ」
「あんたには関係ない」
「ま、確かに関係ねぇけどな……謝るとかそういう馬鹿やらかしたいなら、後にしろ。今はやめとけ」
「……中で、何してるの、ガルライズ」
「俺が知るかよ……」
「知ってるからあんた、ここで壁になってんでしょ」
「知りたくねぇから、部屋から出たんだよ。誰がんな面倒なことするか」
「…………どいて」
「謝られた方の身になれよ……」
 会話の流れで溜息まじりに呟かれたセインの一言に、メルは自分でも思いもよらぬほど激しく肩を震わせた。
「謝るとかそういうんじゃ……!」
 そういうんじゃ、ない。
 そう言いかけた言葉は途中で途切れた。
 隠しようもなく、明らかな肯定だった。
 ──そんなつもりなどなかったのだ。そんなつもりなどなかったのに、血を 見た瞬間、ガルライズが一体誰なのか、わからなくなってしまった。
 不意に言葉を失ったメルを、セインはそこで初めて見下ろした。
 そして彼は驚愕に目を見開き、驚きのあまりに銜えていた煙草をぽとり……と床に落とした。
「……メル、お前……」
 髪も服も目の色も唇の色も、その全てがピンク色をしたメル。
 その涙の色までが、透明な──。
 メルは歯を食いしばって、セインを睨むことで涙を散らした。
「うるさい……!悪かったわね、体内の色素狂ってんの、頭と一緒にぶちキレてんのあたしの色素は!どうせ汗も涙も小便も狂ったピンク色よ、畜生、畜生、畜生!!」
 そしてメルは声を嗄らせて絶叫すると、足音高く、廊下を歩き去っていった。
 後に残されたセインは唖然とその姿を見送り、溜息をひとつ吐くと、床に落とした煙草と一緒に、一滴だけ残された色付きの涙を、足で踏みにじった。
「……幸せなことで」
 その呟きは、閉ざされたまま開かない、扉の向こうに投げかけられた。

close
横書き 縦書き