物語の断片集

無題


過酷なるイリータインとの合併時代。
ホーバーが、残忍冷酷なキース船長の下で副船長やらされてた頃の話。

 ──いつしか船員たちは疑っていた。
 表向きキースに優遇されるホーバーを、誰もが疑った。彼は自分たちを裏切り、イリータインに寝返ったのだ、と。
 まだ芽吹いたばかりだった彼らの不安を、キースが利用しない理由がなかった。

「……どういうつもりだ」
 船長室の豪奢なテーブルの上に並べられた食事を見て、ホーバーは常に色を変えない表情を、わずかに歪めた。
 すでに席についているキースは、優雅とも言える動作で足を組み、瞳の笑わないいつもの笑みを冷やかに浮かべる。
「海賊どもの上に立つ俺たちが、奴らと同じ腐った飯では示しがつかないだろう」
一瞬にしてその意図を悟って、まだ少年でしかない副船長は静かに目を伏せた。
──残飯のような食事を与えられているバクスクラッシャーの船員たちが、船長室に運ばれるこの食事を見て、ホーバーをどう思ったかは想像に難くなかった。
「冷める。食え」
キースは、閉ざされた瞼の内側に絶望の色があることを想像し、楽しげに言って骨付きの肉を手に取った。

だが、それは軽んじすぎた考えだった。

ホーバーは決意めいたものなど何もなく、ただ自然と蒼い瞳を開き、無言のままにキースに背を向けた。
飢えている。船員たちに憎まれようと、イリータインに反抗するために、この海で生き抜くために、この食事を喰らって体力を蓄えておく必要もあった。
だがそれをホーバーはしなかった。
船員たちに悪いと思ったのではない。生きることを諦めたのでもない。

──船員たちは知らないだろう。
無口で、表情の少ない、ジルサン=バリーの気まぐれで副船長の座を得たこの少年が……、

「俺の命令には逆らうなと言ったはずだ、副船長殿。食えと言った。聞こえなかったか?」
そこらの兎でも嬲るような、軽いが高圧的なキースの声に、ホーバーは静かに振り返った。
キースは僅かに見開いた目を、凶悪な笑みに変えた。
振り返った副船長の目にあったのは、絶望などではなく、屈服などでもなかった。
それは凪いだ海のように静かな、

──激しい闘志だった。

さっさと息絶えると思っていた兎が、思わぬ大蛇にばけたものである。キースの冷たさに彩られた端正な顔は満足そうだった。
振り返ったときと同様に、ホーバーは静かに視線を外して、船長室を後にした。
今度はキースも止めなかった。

タネキアの夜は、バクス帝国よりもずっと温かだ。
不気味なほどに光を発する無限の星々が、甲板に出たホーバーの足元に長い影を投げかける。
甲板のあちこちで作業や、見張りをしていた船員たちが、一瞬ホーバーに憎しみとも恨みともつ かない視線を向けた。
仲間へ向ける視線とは違う敵視を黙って受け止め、ホーバーは静かに彼らの間を通り抜けた。

 この時から、疑心と絶望に駆られた船員たちの自分との戦いと、少年の一人きりの孤独な戦いが始まったのである……。


「血に飢えた獣は手段を選ばない。……お前……試しに死んでみるか」
 ガルライズの狂気の笑みは、イリータインの水夫を震え上がらせた。
 ようやく相手を間違えた事に気づいた時には、水夫の眼球は血を吹いていた。

 嘘だ……嘘だ……嘘だ……。
 唇から漏れ続ける自失したテスの言葉に、傍観を決めていたラスは初めて拳を振り上げた。

「いっそ死ねたら楽なのに……そう思わないっスか」
 シャークは何かに駆られたように、早口で呟いた。
「一度たりと、本当に、そうは思わなかったんスか」

「人妻なんかに手出してないで……あたしにしときなよ」
 フィーラロムを庇って前に進み出たクロルの挑発に、イリータインの面々は凶悪に舌なめずりした。
 娼婦の笑みを湛えたクロルの背後で、フィーラロムは部屋のどこかにある武器を必死で探した。
 表情には微塵も恐れを出さないクロルの手は哀れなほどに震えていた。

 目に焼きつくような、強烈な赤。
 炎と見まごうほどの紅蓮の髪は、海風に激しくひるがえる。
 だが奇妙な客人はそれを押えるでもなく、ただ静かにそこに立っていた。
「ひどいよ……!こんなこと、みんなは望んでない……!」
 血に濡れた甲板は、船員たちの生気を無くした虚ろな顔を逆さに映す。
 ラギルニットは唇を噛みしめて、血だまりを靴裏で踏みにじった。

「反乱だ……!」

 それはまだ、バクスクラッシャーが悪夢を見ていた頃の話。
 僅かな希望に必死で縋り、黒い運命と震える足で立ち向かっていた頃の、
 バクスクラッシャーの物語。



KNOCK BLOOD DOOR


 扉を叩く音がする。激しく叩く音がする。
 それに混じって聞こえてくるのは、多分ダラ金の声だ。
 朦朧とする意識の中で、ホーバーは彼が何を言っているのか、聞き取ろうと努力した。けれど水中にいるみたいに、音が間遠に感じられる。ぼこぼこと水泡のようにしか聞こえてこない。
 ダラ金は水の中にでもいるんだろうか。
 ぼんやりとそう思った瞬間、鼻先をツン……と鉄の匂いが掠めていった。

 ──ああ、水じゃない。血の中にいるんだ……。

 不意に自覚して、ホーバーは背後の柱に重い後頭部を打ち付けた。
 振動が脳髄の中で不愉快に反響し、耳奥がワンワンと鳴る。

 ──それでもって、血の中にいるのはダラ金じゃなくて……俺か……。

 扉が叩き壊される音が聞こえた。
 自分のすぐ間近で、数人の声が悲鳴を上げた。
 嫌な音が響いて、自分のものではない血液が飛び散り、顔を濡らして床に落ちる。
 何がどうなっているのか、誰が何をして、誰がどうなったのか、ホーバーにはまるで認識できない。目は殆ど物を映さず、耳は殆ど音を感知しない。肝心な意識もまた朦朧として、自分がどこにいるのか、どうしたのか、そんな記憶すらもおぼろげにしてしまっている。
『……ホーバー』
 ダラ金が船倉の暗がりの中に立ち尽くし、かすれた声で自分を呼んだ。
 咽るほどの血の匂いが漂ってくる。周りで呻き声がひっきりなしに……。

 ──あ、そうか……助かったのか……。

 不意に全ての状況が飲み込めた。
 僅かに視力を戻した目が、顔を覆い隠し、自分の前で蹲っているダラ金の姿を映し出した。
 その手には、鞭。小刻みに震えるそれからは、赤い液体が伝っていた。
 ホーバーは子供みたいに泣くダラ金が何だか可笑しくなって、凝り固まった血の張り付いた顔をパリパリと笑わせた。
『……でっけぇガキ……』

 頭を小突いてきた拳は、涙で少しも力が入っていなかった。


船倉でイリータインの船員にボコボコに伸され、殺されかけてるところに、ダラ金参上で船員を半殺しにして、ホーバーを助けた場面……を、ホーバー視点で書いてみました。
色々と誤解や確執があった時代。




赤い赤い夢


「ずっと……ずっと気になってたの、ホーバー」
 その船員は力なく垂らした手を小刻みに震わせて呟いた。
「何が?」
 不思議そうに振り返って訊ねれば、泣きそうな目が泳いで、視線を逸らす。
「……本当は………本当はあの時──あの、時……」
 人気のない部屋に響き渡る、声のその種類で、ホーバーの記憶は閃くように蘇る。
 ああ、あの話だ。そう悟る。
「キース船長に言われたこと、本当はやめさせるよう頼んでくれたんじゃなくてホーバーが代わりにやってくれたんじゃないかってそう──……っ」
 詰まらせた言葉を飲み込むように、船員は口を両手で押さえて俯く。
「だって……っ今でも赤い夢を見るのよ!!」
 けれど言葉は発せられた。閉ざした扉を強引に開ける鍵、部屋の角で膝を抱えて隠れたふりをする記憶を無残に引き出し、白日の下に晒す、その強烈な言葉。

『おかえり、副船長殿』
 椅子に優雅に腰かけ、冷たい金色の髪をした男は薄く微笑む。
『随分遅かったが、夢でも見てたのか?赤い赤い夢を?』

「自分のことで精一杯だったの……だから気付かないふりを……」

『どうして誰も気付かないんスか!何でこんなになるまで気付かないふりを続けたんスか……!?本当は分かってたくせに、全部嘘だってわかってたくせに……っお前らは誇りも何もない、守る価値だって何一つない最低の屑どもだ……!!』
 泣くように、悲鳴を上げるように──清廉な水が心に染み渡るみたいな叫び。

「今まで聞けなくてごめんなさい……今になって教えてだなんて虫が良いって分かってる」

『もっと頼って欲しいっスよ、ホーバー……!』
『……どうすれば……それが出来る……かな』
『手を伸ばして掴めばいい。ちょっと手を伸ばせば、すぐに掴めるんスよ……?』
 頼れるなら頼りたい。これほど支えを必要と思ったことはない。
 けれど一人で生きてきた半生が手を伸ばすことを躊躇わせる。
 既に差し出されたこの人の温かな手を。
『……でももうカトラスだって掴めない……砂だって零れ落ちるこの手で、一体何を掴める……?』

「でも、お願い、教えて」

『二号船では一体何が起きてるんだい?ホーバー』
 決して穢れることのない輝きは、こんな状況下に置かれてもなお、光を放っている。
 それがどこまでも嬉しくて、幸せなことに思えた。

「あの時、本当に命令を断ることが出来たの……?」

『何か起こす時は、必ず呼べ……』
 船の落とす影は冷たく暗い。
『俺は、お前の影となる』
 けれど不思議と染み渡る。影の色をしたその声は。
 ホーバーは碧色の髪を甲板に落として、あの時と同じく深く頭を下げた。
『貴方を副船長に選んだことを、今でも自分に誇ります……レティク』

「教えて……ホーバー」
 船員は俯けていた顔を上げ、初めてホーバーの顔を見た。
 その泣きそうな眼差し。けれど全ての命運を受け止める覚悟を決めた、その目。
 自分と同じ。全てを背負って、前へと進む覚悟をした目だ。
 ホーバーは自分の影を見下ろして、目を伏せる。
 やっと、自分を赦せる気がした。
 閉ざしてきた記憶を、やっと受け入れても良いと思えた。
 ──黙っていて、本当に、良かった。

「命令は本当に断った」

 自分にとっても、彼女にとっても、もはや真実は必要ない。
 自分の心は既に悪夢を背負う力を得ている。
 彼女の心も既に悪夢と戦う強さを持っている。
 今更真実を明かす必要など、どこにもない。
「……ただ一週間、ぶん殴られたり、食事を抜かれたりしてただけだ」
 躊躇いがちに有り得そうな嘘を呟くと、船員は胸を衝かれたような痛みを表情に出した。
「ずっと気にしててくれたんだな……」
 声もなく泣き伏す船員が落とす影に目を向けて、ホーバーは微笑みを浮かべる。
「……ありがとう、・ ・ ・」

 今でも夢を見る。
 赤い赤いあの夢を。

 誰にも、言わない。




扉と鍵と、赤


 扉に鍵をかけたのは、俺だ。
 赤い赤い夢。それを仕掛けたのは、俺だ。
 気づいているのだろう。それとも気づいていないのか。
 鍵をかける音を、堪えきれずに零れた笑い声を、扉越しに聞いたくせに。

「泣き叫べよ、ホーバー」

 閉じた扉からは物音一つしない。
 彼を襲っているはずの絶望は、腹立たしいほどの静寂に隠され、ちっとも味わうことができない。
 泣き叫べ。泣き叫んで、許しを請え。
 そうすれば扉を開けてやる。

「泣き叫べよ………!」

 涙が頬を伝って、ようやく気づいた。
 泣いているのは自分の方だ。
 笑ったつもりでいた、泣いていたと知りもせず。
 絶望したのは自分だったのだと気づいて。 

 泣き叫べ。泣き叫んで、許しを請え。
 そうすれば扉を開けてやる。扉を開けてやるから――。

 俺をここから、出してくれ。

カンゼル=ヴィシュタ。断片「赤い赤い夢」の裏側、一場面。

もしもラギルがいなかったら、バクスは凄い愛憎劇の舞台になっていた。
ラギルには、複雑に絡みあった船員の感情を、全部ふわふわーってさせる力がある。ラギルが船長でいる最大の理由は、その「ふわふわ」。
全てをプラマイゼロにして、全員を否応なく幸せにしちゃう力。

一方のホーバーに対しては、船員の感情があまりに複雑で、絶対にプラマイ零にならない。
ものすっごい愛されてる反面、ものすっごい憎まれてもいる。
何が複雑かといえば、その憎しみが、単純にホーバーに対する憎しみではないからです。

ホーバーは唯一、バクス創設時から副船長でい続けている船員なので、色々な物語の中心にいる。
血濡れた、泥まみれの人生を歩んでる。なのに、ホーバーは絶対に屈しない。何度も何度も泥の中を這って、絶望に打ちひしがれても、最後には立ち上がって、前を真っ直ぐに向いて歩き出す。
船員はそういうホーバーの真っ直ぐさに惚れこんでいる。
と同時に、一部の船員にとってそれは、たまらなく許しがたい事実でもあります。
同じ泥にまみれて生きてきて、自分はこんなに汚れきったってのに、何でてめぇはそんな真っ直ぐに生きられるんだよ、と。嫉妬や八つ当たりなんだけど………よくわかる感情です。

カンゼルの場合、何よりも自分自身を憎んでる。泥にまみれて、汚れ切った自分が憎くて仕方ない。
なのに、同じ泥の中にいるホーバーは、カンゼルにはあくまで高潔に見える。
ラギルのように光輝くという力はないけど、もっと静謐で、透明な、光。
嫉妬に膨れあがった自己嫌悪は、ホーバーへの憎悪につながって、彼はある復讐を果たすわけだけど……。
その復讐は、思っていた以上にホーバーを深く傷つけた。数年経た今でも、消せない傷。願ってもない、復讐のその結果。
なのに傷つけてみてようやく気づく。
その結果、カンゼルが得るものは、もう取り返しがつかないほどの自分への嫌悪感だってことを。

いっそホーバーが「カンゼルてめぇ!」て一刺しでもくれてやれば、彼も救われるんだろうけど。
残念ながら、ホーバーは自分のことでいっぱいいっぱいだったので、気づいていません。
たまったもんじゃないです。KYな野郎なんだよ、ホーバーは(笑)
カンゼルも、ホーバー自身が嫌いで、憎んでいるというなら楽なんでしょうが、決定的に好きなんだよ、ホーバーが。可哀相に。

そんなこんなで、カンゼルは最終的に、断片集の「雪の汚物」に陥っていきます。
セインはちなみに「うっわ、ホーバー超嫌い! 俺様の手で殺してやるんだいっ」ていう愛溢れる憎しみ? それが快感というか(笑)
なので、セインはカンゼルのことを軽蔑しまくっている。
セインは自分大好きだし、自信を持ってホーバー本人が嫌いなのです。(どうなの)
カンゼルのホーバーへの憎しみは、セインにしてみればホーバーへの甘えにしか見えない。
気づいてほしいんだろ? ていう。ホーバーに、罵ってほしいんだろ? て。
うわー、お前ほんっと小物、お前みたいな生きる価値もない虫けら、生きてるだけで見苦しいから、俺様が情けで殺してやるよ、みたいな結果が、あの「雪の汚物」の最後。
似てるようで、全く相容れない、カンゼルとセインです。
ちなみにカンゼルも、セインのことは、もう本気で、心底、すっきりするぐらい大嫌いです。



魔物の潜む船


 船倉に静寂が落ちる。息の詰まるような緊張感を孕んだそれは、心を騒がせるという意味では、騒音にも近い。
「グルバラー号の現状は、今伝えた通りだ」
 ハーロン船長が不在の隙をついて集った十数人の船員たちは、込みあげる悔しさと、怒りを、奥歯を噛みしめることで抑えこむ。
「何を……やってるんだ、あいつら……」
 それでも制し切れなかった激情が、呻き声になって零れた。
「何であんなになるまで……―むごすぎる……っ」
 一週間もの交渉の末、レティクの手で、グルバラー号から引きずり出されたホーバーの姿は、見るも無残な状態だった。
 意識などろくになかった。まともに歩けない憔悴しきった体を支え、バックロー号に連れてきたときには、居合わせた船員の誰もが死んでいるんだとすら思った。実際、バックロー号の甲板に下り立った途端、ホーバーはほんのわずかな意識すら手放して、それきり昏睡し続け、今も目を覚まさない。
 そして困惑して見返したグルバラー号の船員たちは――分裂したバクスクラッシャーの仲間たちは、何の感情もない虚無の瞳で、それを見送っていた。
 航海を続けるバックロー号とグルバラー号の間には、わずかな距離しかない。そのわずかな距離はあまりに遠大だった。
 かの船の状況をたとえる時、レティクは珍しく比喩を使った。
 "グルバラー号には、魔物が棲んでいる"。
 それは確かに、間違いなく。
 船を覆いつくす漆黒の影は、今もなお、船員たちの心を蝕んでいる。

***

 ホーバーの去ってゆく背中を見送り、グルバラー号の見張り台に立ったシャークは震える両の拳を握りしめた。
 祈るような気持ちで目を固く閉じ、不意に、その目尻から涙が伝い落ちた。
 一人、取り残されたような気持ちがして、それがあまりに情けなく、不甲斐なく、シャークは声を殺して泣いた。



血を支配する


「……てめぇが裏切り者でないのは分かってる」
 イリータインの船員から奪った煙草をふかして、セインは冷たく言い放つ。
「が、だから何だってんだ? 俺には関係ねぇな。そもそも俺がバクスクラッシャーにいる理由なんてどこにもない。イリータインに寝返ったっていいんだぜ。現に」
 冷たい嘲笑が、煙草の火を受けて、船倉の闇に浮かぶ。
「イリータインの連中の方が、気が合う」
「たとえそうでも、セインは寝返らない」
 眼前のホーバーは、病的に濁った眼差しに似合わぬ強い口調で言った。
「誰を裏切っても、お前は決してフィーラロムを裏切らない」
「……はぁん、我らが副船長様は何でもお見通しってわけか?」
 何の音もなく抜かれた短剣が、ホーバーの首筋に押し当てられる。
「だったら、自分の未来ももうちょい見通しといた方がいいんじゃねぇ?」
 ちりちりと鋭い痛みが走り、首には真一文字に血の線が引かれてゆく。ゆっくりと、薄っすらと。
 それでもホーバーの目は恐怖を宿すことはなかった。
「今頼れるのは、セインしかいない。協力してくれ」
 セインは歯を鳴らし、身を乗り出してホーバーの首に切っ先をめり込ませる。憎悪が眉間に宿り、その顔はおぞましいほどに怒りに満ちていた。
「……その目が、俺は一番腹が立つんだ。てめぇは誰も恨まない、誰も憎まない、誰を疑いもしない。俺に協力してくれ、だと? いつも真正直で結構なことだな、副船長。俺みたいな人間にも良心があると信じてくださって、どうもありがとう。――だが俺はお前ほど綺麗じゃねぇんだよ。てめぇの真っ直ぐさに、たまに無性に腹が立つ。殺してやりたいほどにな……!」
 だがホーバーは何の躊躇いもなく、突きつけられた短剣の刃を握りしめると、薄暗い目をセインへと向けた。
「お前の評価なんて、どうでもいい。それでも俺には、やらなきゃならないことがある」
 指の間から血が滴り落ち、船倉の床にぽたぽたと血溜まりを作ってゆく。
「横ばっか向いて、目の前にある物から逃げてるお前なんかには出来ないことを、俺はやる」
「――ッ!」
 瞬間的な怒りが、刃をさらに食い込ませる。だがセインの口からふっと漏れたのは笑い声だった。
 笑った自分に気がついて、ようやくセインは短剣から手を離した。
「……は。やっと憎みがいのある奴に成長しやがったな、クソ野郎」
 そしてセインは身を屈めて、足元の血を掬い取り、血の主に見せ付けるように指に舌を這わせて舐めとった。
「てめぇの血は俺様のモノだ。今後、てめぇを殺すのは俺様だけだ。だが今はその時じゃねぇ。この血を免罪符に、今はてめぇに協力してやるよ。……俺なりの方法でな」
 ホーバーは生気の失せた目に、ようやく人間らしい色を宿して溜息をついた。
「……怖気が走った」


赤いカトラス


 ハーロン船長はテーブルに置かれた酒瓶を見つめ、その首を握った無骨な手を、手首を、腕をと、嘗めるように見上げてゆき、そしてたどり着いた先──紅色の髪の女に冷笑を浮かべた。
「客人殿、私と酒でも酌み交わそうというおつもりか?」
 彼女が答えるより先に、女の肩に停まった一羽の黒鳥が鳴く。
 ハーロン船長はちらりと鳥を見つめ、馬鹿にしたように笑った。
「それが貴女の口ですか?いまどき紅の一つも差さぬとは珍しい。それとも……」
 そして冷酷極まりない眼差しを細め、ハーロンは指先で机を軽くノックした。
「……海明遼では、黒い唇が流行りなのですかな?」
「………………」
 女は抹茶色の鋭い目を無表情に細め、酒瓶の首からそっと手を離した。
 ハーロンは冷笑を口端に刻むと、紳士の仕草で目の前の席を指し示した。
「どうぞお座りください。……夜はまだ長い」

「……ラギルニット、よく聞いてくれ」
 木箱にぽつりと座るラギルニットに、しゃがむことで目線をあわせ、ホーバーはゆっくりと言葉をつむぐ。
 ラギルニットは唇を噛み、けれど自分の泣き腫らした赤い瞳を真っ直ぐに見つめてくる青年の顔を見かえした。それはかつて無人島で自分を見守り続けてきたもの。あの時と何ら変わりなく、胸が苦しくなるほど優しく、暖かく、静かで深い眼差し。
「この船は海賊船だ。黒い海賊旗、斬りつけた血の十字、バクスクラッシャー……。お前が知りたがっていた俺たちの正体は、海賊。……」
 ホーバーの右手は慣れた手つきで腰にかけたカトラスを抜き放つ。
 痛々しく鋭い音をたてて、刃は船倉の床に突きたてられた。
「このカトラスには血が染み付いている。お前が見たあの光景……あれは紛れもなく、俺たちのもう一つの姿だ」



此の藍に、其の紅に


 風に吹かれ、長い髪が翻る。
 それはまるで火の粉を揚げ、天高く燃え盛る炎のよう。
 彼女は「シュオン」という名で呼ばれていた。
 名乗らぬ彼女に、ラスがつけた仮名だった。

 船に来た時から常にそうであったように、今日もシュオンは甲板の隅に胡坐をかき、うついて目を閉じている。
 彼女の肩先には、艶やかな黒い羽根をした鳥が一羽。鴉に似ているが、目は琥珀色と、どこか奇妙だ。
 だが奇妙さでいえば、主人たる彼女自身の方が勝っているだろう。
 口をきけぬのか、彼女の声を聞いた者はいない。
 感情が存在せぬのか、その顔が表情を宿すことはない。
 客人という立場を理解しているのだろう、平素は驚くほど存在感がない。
 それでいて、一度存在に気がつけば、それきり目を奪われたまま脱け出せなくなるような。

 実際、自分はその紅から目が離せない。



拾えない星


 深い濃紺の夜空と、夜の色を映して凪いだ、果てない大海。
 空と海との間に明確な境はなく、砂粒のように細かな星々もまた、空にも海にも散らばって、空と海とを一体化させている。
 波一つない夜の海に浮かぶ帆船、その甲板に立つと、自分が海を泳いでいるのか、それとも空を飛んでいるのか、分からなくなる。
 不思議な気分だ。
 まるで濃紺色の球体に閉じ込められてしまったみたい。
 海と空とで造られた球体、自分はその中で胎動している。
「なんつって」
 メルは船縁から、深さの知れぬ深淵の海を覗き込んだ。月のない夜は暗すぎて、覗いてみても、ただビロードのように滑らかな濃紺色の海面が見えるだけだ。だが凪いだ海面に瞬く無数の星々は、静謐とした美しさに輝いている。
 一粒一粒、星の色は違う。
 手で掬えそうな気がした。
 メルはそっと腕を差し伸べ──背後から聞こえてきた物音に肩を震わせ、伸ばした腕を引っ込めた。
 焦って振り返ると、帆柱の陰にひっそりと赤い髪の女が立っていた。
「……ああ、シュオンか」
 彼女の肩先に停まった漆黒の鳥に目をやり、メルは安堵と同時に奇妙な緊張を覚えた。夜目にも燃えて見える真紅の髪は、人の目を惹きつけると同時に、奇妙な高揚感と威圧感を与えてくる。妙な話だ、彼女自身にはさした存在感などないというのに。
「あなたも星を拾いにきたの?」
 メルはくすりと笑って、再び船縁に前のめりでもたれかかる。解いたピンク色の髪が頬をくすぐり、メルは指先で星の代わりに自分の髪を掬い上げた。
「星なんて掬えないんだ」
 メルは再び女の存在を忘れて、海に映る星空を見つめた。
「あたしの類稀な頭脳を持ってしてもね」
 ピンク色の瞳は細められる。
「星なんて……掬えなかったわよ」
 黒い鳥の微かな鳴き声が、世界に吸い込まれてゆく。



静寂にまつわる


 船べりに靠れかかって、胃の中の物を吐き出す。
 あまりに毎晩なので、ほとんど日常の作業と化してしまったそれがもたらす苦痛は、もう何の感慨も与えてこない。
 空っぽの胃を削って吐き出す胃液の苦さも、吐いてもなお胃の腑にわだかまる気持ち悪さも、とうに体の一部である気さえする。
 ホーバーは無理やりな吐瀉が与える頭痛をこらえながら、船壁を背に、甲板にずるずると座りこんだ。
 そして、何とはなしに満天の星空を見上げようとして、――またあの上からの視線に気付いて、苦笑した。
 人が吐いてる姿を見て、何か面白いことでもあるのだろうか。
「俺だったら貰いゲロするけどな………」
 静かすぎる眼差しが可笑しくて、ホーバーはクツクツと笑った。
 すでに一週間、彼女にこの醜態を目撃されているが、今日のようにそのことに反応を返すのは初めてだった。
 最初は、困惑した。不快に感じるには、彼女の眼差しはあまりに静かすぎた。何故見つめるのかと理解できずに、訝しむことしかできなかった。
 不思議と、三夜を過ぎた辺りから、奇妙な安堵を覚えるようになった。
 こんな無様な姿、誰にも見せたくなかった。イリータインの船員はもちろん、バクスクラッシャーの船員には特に。
 だが他人の彼女になら、見られてもどうでもいいと思える。否、むしろホーバーが背負う重荷をひととき引き受けてくれるようで、不思議とほっとした。
 一緒に背負ってくれるわけではないが、重荷を抱えている事実を知っている人間がいるというのは、結構、気を楽にさせるものなのだなと、ホーバーは笑いながら思った。
 不思議と晴れやかな気持ちで、ホーバーは頭上の星空を仰ぎ見る。
 階上の彼女もまた、赤い髪を揺らして、同じ空を見上げる気配を感じた。
「静かな夜だ」
 答えがないことを分かっていて、ホーバーは彼女に向けて言う。
 心地の良い夜風が吹いて、眠るように目を閉じた。

 ――より困惑していたのは自分の方だったと。後になってもメラスは思う。
 彼らが抱える事情も、彼の背負う重荷の中身も知っている。知っているからこそなお、目の前の男の清々した表情に困惑した。
 似た夜をメラスは彼ほどに「静かだ」と断じられたろうか。同じように絶望を抱え、同じように重荷を背負い、常闇の中でもがき苦しんでいたあの頃、メラスは夜を見つめて、その静寂を愛でる心を持ちえただろうか。
 困惑するほどに深く魅入られたあの夜の静けさを思う。裏腹に、身を焼く焔の内で。同じく身を焼かれながらも尚、静けさを愛しんだあの男の清廉さを。
 不思議と晴れやかな気持ちで、思い出すのだ。



十秒の信頼


 立ち尽くすホーバーを狙って放たれた矢を、ミシェルは直感任せに振るった刃で叩き落とした。
「……っちょ――何やってんだい、ホーバー!」
 ミシェルの決断があと少し遅ければ、矢尻は間違いなくホーバーの首を貫いていた。ぎりぎりの窮地だった。だがそれでもなお、ホーバーは呆然としたまま動かない。その間も的を外した凶暴な弓矢が次々と甲板に突き立てられてゆく。
 頬を、頭を、肩を、膝をかすめる射矢を、滅茶苦茶な剣捌きで払いのけながら、ミシェルは悲鳴のような怒声を上げた。
「しっかりしな! あんたが正気じゃなきゃ、誰も正気じゃいられないんだよ……!! クソムカつく話じゃないさ、あんたみたいなガキに頼らなきゃ、アタシら、一歩だって動けやしないんだ!!」
 汗の滲んだ横目で捕らえたホーバーの姿が、わずかに震える。その自失状態にあった顔が痛みに歪み、カトラスを手にした右手がぐっと握りしめられた。
「……十秒、くれ」
 騒音に近い戦場にあって、その静かな声はひどく心に響いた。
 痛いほどに分かっている。十秒だって足りない。半日あっても無理だ。足元に広がるこの光景を視界の隅に追いやり、込みあげる無限の怒りと絶望を全てなかったことにするには。
 それでも消さなくては戦えない。憎しみを抱えたままでは決して勝てない。
 冷静さを取り戻すための十秒、けれどそのわずかな時間すら、ミシェルには作れないのだ。
 悔しさに歯噛みしながら、しかしミシェルは汗で滑るカトラスを力いっぱい握りなおした。
 十秒であれ、ホーバーは自分に命を預けた。
 大したこともできやしない、たかが小悪党の自分に。
 その信頼を、裏切りたくはなかった。
(小悪党にだって意地ってもんがあるんだ。ついでに並外れた根性だってあんだよ……!)
 急所を狙った一矢をまた叩き落として、ミシェルは怒鳴り返した。
「クソガキが……! あたしゃあんたほど強くないんだ、五秒にしな!!」
 その台詞と同時に経過した十秒目、ホーバーは静かに閉じていた目を開く。
 握りなおされたカトラスの切っ先が、流れるように空を切った。

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