物語の断片集

かの有名な君


「ふぅん。あなたがヴェルデ家の次男ね、かの有名な?」
 初対面の印象はといえば、最悪だった。
 淡い色素の髪を高慢に掻きあげて、少女は少年の碧い髪をじろじろと不躾に見つめた。
「ははー。確かに、キレてるわ」
 少年は不審感たっぷりに少女を見返した。
「お前が噂のナンディレス家…………変人揃いで有名な、あの?」
「あら、言うじゃない。言っとくけどあたし、変人扱いされたら、喜ぶわよ」
「…………」
 あの噂は本当だったのか、と遠く頭の隅で思いながら、少年は溜め息をつく。
 だが反面、小気味良さも感じていた。こんなに真っ向から侮辱されたのは初めてだ。陰口ではいくらでも漏れ聞こえてきた言葉を、面と向かって言われるなんて。
「ねぇ、変人同士、ちょっと庭にでも出ない? あたしこういう場所って大嫌いなのよね」
 少女は広間に集った着飾った貴族たちを剣呑な顔で見つめる。この場にいるのも嫌だったが、少女と庭に行くのも嫌だった少年が、何も答えずに無視していると、少女はにこりと笑って、ごく自然に片手を少年へと差し出した。
「エスコート、してちょうだい」



勇気を試す


 シャークは列の半ばほどに並びながら、落ち着きなく先頭の方を覗き見ては、ガタガタブルブルと震えて前後の人にとっても嫌がられていた。
「……ぅぁあああ! ホーバー!!!」
 先頭の方から、いつもの不機嫌そうな顔で戻ってくるホーバーを見つけるなり、シャークは列から半分も身を乗り出して、少年にしがみついた。
「……!? な、なんだよ、は、離せ……!」
 唐突に抱きつかれ、ホーバーは焦りまくる。なんだよ、の辺りでようやくそれがシャークであることに気づくが、抱きつかれる不快感が消えるわけもなく、ホーバーは珍しく本気でびびった。
 しかしシャークの方がもっとびくついている。力任せに押しのけようとするホーバーに、「おかーさん!」と更にしがみつく。列に並ぶ連中が唖然とした顔で見ているのも何のその、半泣きになりながら叫んだ。
「耳に穴開けるなんて、ごめんこうむるっスー!!」
「……はぁ?」
 ホーバーはようやく抵抗するのをやめた。
 代わりに、馬鹿らしい気分に襲われながら、シャークの腹に膝蹴りを食らわせた。
「……うぇ! け、今朝の朝食が出てくるっス……」
「…………やめろ」
 シャークはよろよろと顔を持ち上げ、不意に悲鳴を上げて、今度は盛大に後ずさった。
「今度は何だよ……」
「み、みみみみみみみみ、み、みみ!」
「…………死にかけの蝉」
「残念、はずれっスー! 残念賞は鼻の下に優しいふんわり柔らかティッシュっス……違うっス! 耳のことっスー!」
 ホーバーは眉根を寄せ、自分の耳に手を当てた。指先にぬるりとした感触が残る。眼前まで持ってくると、指には少し血がついていた。
 開けたばかりのピアスホールが、血を流しているのだ。半分半透明な血を。
「……これ、血? 何か……透明だな」
「い、いいっス! そんな解説しなくていいっス!」
「要するに……ピアス開けんのが、怖いのか?」
 相手の自尊心を傷つけないよう……なんて配慮がホーバーにあるわけもなく、彼はストレートに聞く。
 自尊心が傷つけられた! なんていえるほど自尊心もないシャークは、ストレートに答える。
「死ぬほど怖いっス!!」
「あ、そ…………」
 シャークは再びホーバーの胸倉にしがみついた。
「ど、どど、どうだったっスか、痛かったっスか、死ぬほど痛かったっスか、 かゆいだけっスよね、むずがゆいだけで、むしろ気持ちいんスよね!?」
「…………気持ちよかったら変態だと思うけど。いや、痛かったよ、普通に」
「ガーン…………!!」
 さらに無配慮に、ホーバーは両耳にひっついた赤紫の丸いピアスを指でいじりながら、天井を仰ぐ。
「医者みたいなやつが、右耳を1,2,3、ハイで開けるんだよ。熱消毒した太い針で。で、左耳は、1,2,3で開けるんだ。ハイがないんだ。医者が言うには、一度恐怖心が植えつけられてるから、左耳も1,2,3ハイでやると、体が無意識に動いて、変な風に穴が開く可能性があるって……」
「それを今ホーバーが説明しちゃったら、意味ないじゃないっスか――――!!!!!!!?」
「…………あ、そうか。ごめん」
「ホーバーの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! 変態魔人!!」
「何で変態魔人…………」
 しばらく大騒ぎしている(シャークが)と、更にピアスの穴開けを終えたらしいクロルが戻ってくる。
 クロルは二人を呆れた顔で見つめ、立ち止まった。
「なぁに大騒ぎしてんだい……先頭まで丸聞こえだよ」
「そんな終わったからって涼しい顔してずるいっス……うう」
「あんたがいつまでも入り口で、怖いっスてごねてたから、列に並ぶの遅くなっちまったんだろ? ……あれ、ホーバー。あんた血が出てるよ」
「あーうん……耳たぶって血管あったんだな。クロルは……何ともないな」
「あたしゃむしろ、医者に耳たぶ厚すぎ、って文句を言われたよ。針がなかなか通らなくてさぁー、何回も刺し直されて、痛いのなんの。でも血は出なかったねぇ」
「血が通ってないんじゃないのか」
「……何か含みのある言い方じゃないかい? え?」
「って、そこそこ、うるさいっス!!」
 シャークが突如激昂して、二人の頭に拳を打ちおろした。
「もう! 最低っス! 二人とも最低のこんこんちきっス! 二人なんか耳穴から血を噴出して、失血症で昇天しちゃえばいいんスー!!」
「……………………」
「……………………」
 クロルとホーバーは内心で怒りを抑えながら、次がもうシャークの番なことに気づいて、にやりと笑った。
「……死ぬほど、痛いよ。言っとくけど」
「たまに菌が入って耳が腐るらしい……」
「1,2,3でハイだからねぇ?」
「医者もそろそろ疲れてる頃だな……」

「はい、次!」

 まだ自分が先頭にいることに気づいていないシャークは首を傾げていたが、軍医に声をかけられ、盛大に悲鳴を上げた。
 しかし何かにしがみつくより先に、煩さに怒り心頭な軍医に耳を掴まれ、幕内まで引きずりこまれてしまったので、最期の言葉を二人が聞くことはなかった。

「1,2……」
「ぎゃー!! ハイって言うって約束してほしいっス、ね、ね!?」
「……おい、こいつを押さえてろ」
「ひぃいいいい!? だ、誰っスか、どこから出てきたっスか、この助手の人ぉお!?」
「はーい、痛かったら手をあげてくださーい」
「押さえられてるっスからー!! 手、手、押さえられて……ていうかこの助手の人、モヒカンっス、絶対医者なわけないっス、どこのヤーさんっなんスか!?」
「1,2,3――」
「ッノォオオッ!!」

 二人は想像以上の騒動に唖然としながら、列に並ぶ年少の海賊軍人たちがどんどん青ざめてゆくのに気づき、はぁ……と重い溜め息をついた。



ろまんちしずむ


 むかっ腹が立つのと同時に興味が沸いた。
 貴族とはここまで醜い生き物なのかと、ひがみ半分に鼻で笑ったのと同時に、彼女の凛と伸ばされた背に自然と目が惹きつけられた。
 バクス帝国の中流貴族がよく身に纏う、膝上丈までのかっちりとした上着。
 濃紺地に、鮮やかな藍の刺繍を入れたそれは、彼女の黒髪に良く映えていた。
 ──実を言えば、顔の造作や体型はあまり覚えていない。
 十年以上昔の鮮やかな思い出は記憶の下に埋没し、霞がかって、もうはっきりとは思い出せない。

 けれど、霞の色は実にロマンチック。
 そう、淡い薄紅色だ。

「イル?」
 水夫長の目を盗んで問いかけてみると、ホーバーはしばらく眉根を寄せて考え、首を傾げた。
「……聞いたことある気はするけど」
「あ、知らないなら良いんス!知ってるかなーって、ちょっとちらっと聞いてみただけっスから!」
 慌てて手を振るシャークを無視し、ホーバーは作業片手に答える。
「確か同じ中流だったと思う。俺は社交場に出ないから、そんな詳しくはないけど、確か──」
「いや、本当にいいんス!変なこと聞いたっス、すっぱりと忘れてほしいっス!」
 そう言われて、すっぱり忘れられる人間などそうはいない。
 例に洩れず、ホーバーもまたシャークの正体不明な照れ笑いを不思議そうに見上げた。
 しかし特に追求はせずに、
「イル・カード=レキス」
 異国の言葉のような、耳に馴染まぬその音を口にした。
「……多分、そいつの名前」

 涼風が吹いたみたいだった。
 シャークは一人ぽつんと立ち尽くし、水夫長がツンツンのっぽ作業に戻りやがれと拳骨を食らわすまで、不思議な音の余韻に浸った。


誇り


 不恰好に切られた碧髪を見て、船員たちは眉を顰める。
 ただでさえ、見ていて気持ちの良い色ではないのだ。
 右と左が不揃いのそれに、誰もが必要以上の生理的嫌悪感を抱いて顔をそらした。
「…………何だそりゃ」
 遅刻を責めるのも忘れ、ジルサン船長が呆気にとられた声をあげた。その場にいたバクスクラッシャーの主要面子の中で、唯一目を逸らすことなく髪を凝視してくる船長に、ホーバーはただ無造作に首を振った。
「……何でもねぇってこたねぇだろ。どうした」
 普段ならそれで追及を止める船長が、今回に限って更に問いを重ねてくる。
 扉の所で立ち尽くし、ホーバーは途方に暮れたような顔をする。
 固く結んだ唇の奥で、歯を食いしばり、感情の現れぬ顔を俯かせ、少年は小さく曖昧に呟いた。
「ナイフで切るのが……思ったよりも難しくて……」
 日に焼けた首筋をさらりと流れ落ちるのは、長く残された左部分の髪。
 幸いにも、意図的にずらした回答に、ジルサン船長は笑い転げてくれた。

「何だかえらく可愛いことになってるっスよ、ホーバー!」
 左耳の上辺りで、髪をちょろりと結んでいるホーバーの肩を、シャークが笑いを堪えながら叩いている。
 そのやり取りを遠目に見て、ジルサン船長はこの航海で随分伸びた自分の黒髪を、わしゃわしゃと掻き回した。
「バクス人ってのは良く分からねぇな。色が碧ってだけじゃねぇか」
「……アレ、気持ち悪くないんですかい?」
 側にいた船員があからさまに顔を顰めて、少年水夫を顎で指し示す。
「あんな気持ちの悪い生物、俺は初めて見ましたがね。あれもどうせ、誰かに切られたんでしょう……当然だ。黒く染めたままでいればよかったものを……役にもたたねぇくせに」
 ジルサンは曖昧に船員を見返し、やれやれとばかりに首を振った。

 衝動に駆られて手に取ったナイフ。
 自分の髪を鷲掴んで、刃先を髪に通した瞬間、いつかの船長の言葉が耳にこだました。
『自分を偽る奴を船に乗せる気はない』
 激情の狭間。
 対立する二つの感情。
 衝動は中途半端に途切れて、途切れた結果は左右不揃いの髪に顕れた。
 唖然とする父親を睨むことも出来ず、ナイフを机に叩きつけることすら出来ずに、情けなく逃げ出すことしか出来なくて──。

 それは、負けた証。

「……くや……しぃ──」
 ぐっと目を閉じて、込み上げるものを彼らの目から隠すように、額に両手を押し付けて俯く。震える手で髪を引っつかんで、そのままコツンと机に突っ伏した少年の口から、ようやく搾り出された言葉は、その一言だけだった。
 アレスもグレイも、スタフすらもが酒を飲む手を止め、その痛ましさに真顔に返った。
 床に転がる酒瓶の数は半端ではない。夜通しの飲み明かしで、無理やり吐かせた少年の本音は、まともな声にすらならなっていない。
 14年間押し隠してきた感情は、酒の力を貸しても、それっぽっちしか吐き出されなかったのだ。
 恐らくこれからも、彼は自身に背負わされた重荷を嘆くことも、愚痴ることもせず、ひたすら理不尽に立ちはだかる壁に向かい続けるのだろう。
誰も認めぬ、自分の誇りを守るために。
 押し潰されて、消えてしまわぬように。
 ──彼らもまた、若い頃に覚えた感情だ。
 ジルサンは手にしていた酒瓶の底を、酔っ払い少年の後頭部の上にゴンッと乗せると、いつもの飲み面子三人の顔を右から順に見つめて、笑った。
「ハイ、一名脱落~。お次は誰の番かな?」
 愚痴大会は、夜明けまで続いた。
バクス帝国では精霊の血は忌み嫌われているので、ホーバーと、そしてフェルカは厳しい環境で育ってきました。精霊術が使えると、周囲の対応もまた違ってくるけど、ホーバーは精霊力は一切ないし、フェルカも不安定な上に弱いので、最悪なパターンでした。
バクス帝国には一つだけ、彼らでも出世出来る手段はあったんだけど、その道を選ばなかったのは愚かなのか、我侭なのか、それとも。
様々な苦悩を抱えながらも自分自身で道を切り開いて、今の穏やかな二人がいる。
良き友を、良き理解者たちを得られたのは、彼らにとって何よりも幸いなことだった。そして得る努力をした彼らの強さは、何よりもの誇りだろう。

ジルサンはバクス帝国人じゃないので、彼らがホーバーやフェルカに対して、何でそんな感情を抱くのかは理解できません。
といってもそれは変だと彼らを説き伏せるつもりもなし。バクス帝国ではそれが普通だから。
けれど同時に、理不尽な理由で自らの道を閉ざされる苦痛は良く知ってるので、ホーバーやフェルカの痛みへ理解力がある。といってもやっぱり手助けするような真似はしないけど。
手助けなんて、彼らに対して同情でしかないと考えているから。



イガグリ遍歴


 小さな子供だった。
 九歳という年齢にしてみても、彼は驚くほど小さくて、まるで女の子が抱いている人形か何かのようだった。
 二つの眼は、木の実か何かで造られている。
 両手両足は、指を省略した丸っこい形をしている。
 いつもにこにこしながら、てとてとと不器用に歩き出す様は、まさに真夜中、女の子が眠っている隙に動き出した人形そのもの。
 短く刈った髪の毛は、ほわりと暖かい栗色をしていて。

 イガグリ、なんて名前で呼ばれてた。

「おう、イガグリ」
 毎朝六時きっかりに目を覚まし、他の船員の頭をペシペシはたきながら起こすのが、彼の役目だった。といっても、誰かにやれと言われたのではなく、自分で勝手に見つけた仕事なのだが。
 六時なんて時間、ほとんどの船員は眠り呆けているので、でこっぱちをはたかれた船員たちは強面を不機嫌にゆがめて、彼をボコボコにする。それが日常だ。
 ──いつも、一番最後に、船長室の扉を開ける。
 後部窓から差し込む陽光の中で、船長はもうとっくに起きている。
 人の悪い笑みで彼を見下ろし、こう言うのだ。
 おう、イガグリ。
 たまに、よう、だったり、イガイガだったり、イガグリ坊主だったり、精が出るなイガグリだったり、その日の機嫌で微妙に調子が変わったりするのだが。
 でも基本形は、おう、イガグリ。
 それが彼は大好きだった。
 頭をわしゃわしゃと撫でられ、「いて!」とか「刺さったこの野郎」とか何とか下らないことを言われるのも好きだった。
 子供の彼ですら本能的な畏怖を抱くほど、海賊としての船長は恐ろしい人だったけど、普段の船長は彼に優しかった。
 ずっと後に聞いた話だ。船長が彼より先に目を覚ましていたのは、早起きな人だったとかそういうわけではなく、階下で彼と船員たちが起こしている騒ぎが枕にずんずんと響き渡ったから、起きざるを得なかったからだって。
 でも文句を言われた記憶はない。
「……おはようございます、船長」
 今日も先に起きているので、口を尖らせて返事をすると、船長はニヤリと笑った。
「不機嫌そうだな、おまえ、そんなに俺の頭をはたきたいのか?」
「そういうわけじゃ……でもおれ、仕事が欲しいんです!」
「イガグリが、おれ、とか粋がってんじゃねぇよ。ぼくはどうした、ぼくは」
「ぼくは、もう卒業した!」
「卒業後の勤め先がおれなら、おまえの仕事はおれ。それでいいだろ」
「え。おれって……どんな仕事ですか?」
「知るかよ。ただの面白い冗談だボケ殺しめ」
 毎朝と同じように、船長はおざなりギリギリの適当さで受け答えする。
 彼はむすっと口を引き結ぶと、毎朝と同じように、船長が起きているなら特に用事がないということにハッと気がついて、気まずげに後ずさりした。
「……ええと、それだけです何か仕事があったらおれに任せてください失礼しました!」
 そして毎朝と同じように、船長はふと笑う。可笑しげに。

「甲板でな。イガグリ」

 船長が最終的に彼にくれた仕事は、船鐘係、という仕事だった。
 普通の船なら、特に決まった人員がいるわけではない雑務だ。手の空く船員が交代で任務に就く。
 船長が彼に船鐘係という仕事を与えた時、船員の誰もが笑い転げたし、泣き叫びもした。後者は、余計うるさくなることが目に見えていたからだ。
 曖昧な、意義とて微妙な、船鐘係という仕事。
 けれど彼にとっては──九歳という年齢と、カトラスを握るには小さすぎるその体躯から、子供扱いされ、船員としてすら見てもらえていなかった彼にとっては、
「おれ、って言う奴が、涙なんか簡単に見せんじゃねぇよ」
 涙と嗚咽と鼻水が、小さな腕と細い喉で必死に隠してもまるで隠しきれないほど、嬉しかった。

 船長がいなくなって、船員層が様変わりして、バクス帝国を出奔して、誰も彼をイガグリと呼ばなくなって──14年が経った今。
 彼は、変わらず船鐘係だ。
 手足も伸びて、髪の毛もイガグリより少し伸びて、身長もわりと伸びて、カトラスすらも扱えるようになったけれど、彼はやっぱり船鐘係だ。
 堕落に生きる船員たちを、頭をはたくより強烈な鐘の音で叩き起こし、時間の消失する海の上に時をつくる。海賊たちの生活すべては、彼の鐘を基準に回転しているのだ。
 すごい話が一つある。
 船医クステルの分析によると、バクスクラッシャーの船員の発病確率は、他船よりも遥かに低いのだとか。
 それが規則正しい生活を送っているがゆえの結果なのか、たまたまなのかは不明だが。

 船員たちの守護者。
 船に時をもたらす者。
 誇り高き、船鐘係。

 彼の名は、テス。



死魚の記憶


 霧深い埠頭に姿を現したその奇天烈な出で立ちの女は、死魚の眼差しでジルサン=バリーを見上げた。
 ジルは女が無言で差し出した紙切れを受け取り、不審に眉根を寄せながらも内容に目を通す。
「……メル。苗字は」
 メルと呼ばれた女は湿気で額に張り付いたピンク色の前髪の向こうで、薄暗く歪んだ笑みを浮かべる。
「……そんなの私が知りたい」
 ジルは溜め息をつき、メル、と書かれた名前の欄以外、全てが空白で埋められた書類をぐしゃりと握りしめた。
 最後の備考欄にだけ書かれた「孫娘を頼む」という文字を、眼の端にとどめて。
「メルファーティ=ナンディレス。それがお前の名前だ。……乗れ」
 途端、弾かれたようにメルが顔を上げた。透明なピンク色の目の奥で、黒い瞳が緊張に縮まる。
「何故!? 何が起きたの!? 私は……私は……!」
「聞くな。俺にも答えられない。答えを知らないんだ」
 ジルの服を鷲掴んだメルの手が、血管が浮き出るほどに強張る。
 ジルはその手をやんわりと振りほどき、もう一度、物憂げな溜め息をついた。
「古い約束から、俺はお前を海の向こうまで連れてゆく。戦争が終わり、この船が俺のものとなったら――それまではこの船に身を隠せ。誰にも素性を明らかにするな。分かったか」
 本当に何も答えを持っていない、そう察したメルの顔から急速に表情が抜け落ちてゆく。
 また死魚のような目だ。自分の居場所を失った、孤高者の瞳。
 不意に、桟橋につけられたバックロー号の、圧し掛かるような船上から小さな呟きが聞こえてきた。
 見上げると、鮮やかな髪をした少年が驚いた顔で立っている。
「お前の面倒は、しばらくホーバーが見る。分からないことはあいつに聞け」
 有り得ない話ではない。メルもホーバーも同じ階級を持つ帝国貴族だ。顔見知りだとしても別段不思議ではない。
 霧が重く肩に圧し掛かる気がした。メルの死魚の眼差しが脳裏に焼きついて、その夜も消えることはなかった。
船員名簿にあるとおり、メルには過去の記憶がない。この後、部分部分の記憶が蘇って、自分の素性やら何やらは思い出すものの、何で自分がバックローにいるのかその理由とか原因とかは今もさっぱり思い出せない。
ホーバーとは社交界とか何やらで会ったことがあるんだけど、その辺もさっぱり思い出せないらしい。ホーバーはその時本名で名乗ってるので、ホーバーという名前にピンとこないのも無理はないんだけど。
どちらもバクス帝国社交界においては変わり者。かたや変態科学一家の長女、かたや成り上がり武器商人のプチ精霊。二人そろって壁の花で、でもだからといって互いをダンスに誘うでもなく、「あんたってほんとーに髪の毛キレてるわよねー」「うるさい……変態一家の長女……」とか罵りあって、ほかの人たちから扇越しの冷たい目で見られていたりして。

当時、忘れられちゃって、ホーバーは結構ショックだった。バクス帝国貴族で、唯一の友達だったから。
けれどこの後、過去のことは忘れてても、やっぱり気があって、仲良くなってゆくのでした。
この話は、物語の断片集「現代」の、ホーバー兄の話「ヴェルデ家」と「本当の名前」につながっていきます。
終戦も間近な、バクス帝国、霧深いある日の一幕。



昼下がりの廊下


 我に返って、口を閉ざした時には遅かった。
 左頬を容赦なく叩かれ、少女はその勢いのまま、壁に叩きつけられた。
「出て行け」
 激しい脳震盪の向こうで、低く厳しい船長の声が聞こえてくる。
 わんわんと唸る耳と、望んでないのに溢れてくる涙。
 クロル=ジャーリッドは悲鳴と嗚咽を飲み込むように、口に掌を押し付けて、ずるずると床に蹲った。
 ジルサン船長は容赦なかった。小刻みに震えて泣き声を押し殺すクロルの胸倉を、乱暴に引っつかみ、無理やりに引きずり起こすと、再び船長室の扉に叩きつけた。
「出て行け!」
 扉が衝撃に震え、ジルサン船長の怒号が船長室の天井を震わせる。
 クロルはぼたぼたと落ちる鼻血を拭って、扉をがむしゃらに開けると、そのままもつれる足で船室へと走った。

「何、してるんスか?」
 結い上げた髪も解れ、顔を痣で腫らし、鼻から口端から血まで流したクロルが、船室を駈けずり回って荷を鞄に詰めているのを見て、シャークは困惑した様子で立ち尽くした。
 船室には彼女以外誰もいない。物音に気づいて、隣の船室から来たシャークと彼女以外、その問いを投げかける者もいなかった。
「海賊を辞めるんだ……っ」
 必死で涙を堪えて、クロルは衣服を既に満杯の鞄に押しこめながら、叫んだ。
「やめるんスか?」
「同じことを二度言わせないで……!」
 奇声に近い声で言い放ち、クロルは声を押し殺して、激しく体を震わせた。
 そして両掌で顔中を覆い隠すと、鞄に額を押し付け、苦しげに涙をこらえる。
「殺せない……あたしには……殺せないよ……っ」
 彼女の荷は全て整理され、ただ寝棚の上に、帝国からの配給品であるカトラスが残されているのみだ。
「どんなに憎くても、相手が敵であっても、殺せないんだ……!」
 殺せないのなら、船を下りろと、ジルサン船長には何度も言われてきた。
 それは船長の、クロルを思う気遣いでもあり、そして指揮官として、クロルを無用だと切る命令でもあった。殺せないのなら軍人にはなれない。公的海賊になどなるべきではない。下町の宿屋の娘に戻り、客にクロルらしい豪快な笑顔を向けて入るべきだ。
 そんなの、クロルにだって分かっていた。
 理性では。
「殺せないんだよぉ……っ」
 シャークはかける声もなく、ただ情けない思いで突っ立っていた。
 随分な時間が経ち、やがてクロルは鞄を背負って、シャークの脇を通り過ぎた。ジルサン船長に殴られた左頬は見る間に青ざめ、いまや見る影もない。
「……ごめん」
 通り過ぎる一瞬、クロルは立ち止まり、小さくポツリと呟いた。
 そのまま去ろうとするクロルを、シャークは思わず呼び止めていた。
「クロル……!」
 クロルは振り返らない。
 長いような短い沈黙があった。シャークは必死で言葉を探した。
 けれど見つからなかった。
 持ち上げた手をゆるゆると下ろして、シャークは静かに目を伏せた。
「……元気で」
 クロルは振り向かないまま、小さくうなずいた。

 船室の廊下を足早に進むクロルは、ふと前方から向かってくる人影に気づき、絶望的なまでに打ちのめされた気分になった。
 ホーバーだった。
 階段を下り、こちらへと向かってくるホーバーは、いつも通り冷たい表情だ。
 よりによって何故こんな時に。こんな奴に会わなくちゃならないんだ。
 きっとホーバーは自分に容赦ない。いつだってそうだった。彼は言うだろう、クロルのことを愚かだと、弱虫だと、誇りも何もない女だと嘲るに決まっている。
 クロルは鞄を握る拳に力を込めて、ホーバーが自分の横を通りすぎるのを、緊張とも、屈辱ともつかない思いで待った。
 だがホーバーは何も言わなかった。
 蒼い瞳がクロルを一瞬見つめ、興味がなさそうに去ってゆく。
 それきり。後は何もない。ただホーバーは自分の横を、まるでクロルなど存在しないかのように、通り過ぎていった。
 頭に血が上り、クロルは思わず叫んでいた。
「なんで何も言わないのさ!」
 ホーバーが立ち止まり、クロルを不愉快そうに見つめる。
「なにを言えって?」
「いつものように言えばいい! 負け犬とでも、臆病だとでも言って、あざ笑えばいいじゃないさ……! いつだってそう思ってきたくせに……!」
 人気のない閑散とした船内に、クロルの怒号が響き渡る。
 奥の船室から、心配そうにシャークが顔を出している。
 ホーバーは蔑むように目を細めて、涙で目を赤く腫らしたクロルを見下ろした。
 そして煩わしげに口を開いた。
「結局お前って、最後までそのままだったな。いつも自分が悪いみたいに言っておきながら、最後はそれを人に言わせて、それで侮辱されたような気分になりたいんだろ。全部自分の責任なくせに。人に侮辱されれば、少なくとも自分で自分を非難する苦痛は避けられるもんな。これは不当な侮辱だと、自己弁護できる。…………さよなら、クロル。もう度と会わないだろう」
 辛辣だった。
 それはクロルが望んだ通りの、辛辣な言葉だった。
 彼女はその場に立ち尽くした。
 静寂が耳に痛い。殴られた左頬が鈍く痛い。
 背後に去ってゆく靴音が、鼓膜に痛い。
 どこからか差し込む、船内を暖める昼の日差しが冷たくて……、
 俯いた顔から零れる涙が、ぽたりと床を濡らすのが、鬱陶しかった。

「……ホーバー」
 船室から様子を伺っていたシャークが、近づいてきたホーバーを非難するように呼びかけた。ホーバーはむすっとした様子で口を開く。
「クロルが戦場に出るたび、デロウが陰から見守っていた。自分の敵と戦いながら、デロウはいつもクロルに意識を凝らして、無事かどうか、敵にやられていないか、気遣っていた。ジルサン船長が任命したんだ、知ってるだろ」
「…………」
「デロウの右腕はもう使い物にならないって。そのことを知らないのは……クロルだけだ」
 クロルは剣を最後まで使えなかった。
 腕はいいのに、決して相手を斬ることが出来なかった。
 責めることではない。ただ向かなかった。それだけだ。
「クロルは、ここに、いるべきじゃない」
 一言一言区切るように、ホーバーは無情に言い放った。
 シャークは自分よりもずっと背の小さな少年を見下ろして、自嘲するように笑った。
「オレ、自分が情けないっスよ。クロルはここにいるべきじゃない、そう言うべきだって分かってたのに。何も言えなかった」
「そりゃそうだろ。俺、クロル嫌いだし、シャークはクロル好きだし……言わない方が正解だった。言わなかったシャークは、偉い」
 妙に感心した様子で言うので、シャークは思わず吹き出す。
 そして少しばかり寂しげに、誰もいなくなった廊下を振り返り、溜息を落とした。
「……寂しくなるっスね」
「せいせいする」
 ホーバーは肩を竦めて、一瞬、昼下がりの廊下に目をやった。

 クロル=ジャーリッド。
 彼女が公的海賊を辞めて、港街ヴァインシュタンテスへと帰還したのは、海戦が始まって、一年目のことだった。
クロルは海戦が始まり、一年で海賊を辞めます。理由はどうしても人を殺せなかったから。一年目まではどうにか水夫としてやってたんですが、ちょうど九ヶ月過ぎた辺りから、戦況が激しさを増し、誰もがカトラスを取らねばならないような状況になっていた。クロルも戦わなくてはならなくなった。けれど彼女は戦う事が出来なかった。
最終的にジルサン船長に殴られ、出て行けと言われ、ようやく彼女は船を降りる決意を固める。そんなシーン。
デロウがうんたらというのは、デロウという海賊が一度クロルを庇って、敵に右腕をやられてしまった。そのことも取り上げられて、ジルサンに船を下りるよう説得され、クロルはカッとなって「デロウは勝手に庇ったんだ」と言ってしまった。それでジルサンに殴られた……という流れです。
この頃ホーバーとクロルは最悪に仲が悪かったので、上のような口論をしているのですが…………今でも二人はよく喧嘩します。お互い随分人間丸くなったけど、根本的に気が合わないのです。でも仲良し! 不思議な関係。
ホーバーは反抗期。クロルは八方美人。そしてシャークは今よりも世間知らずだし、無鉄砲で考えなしでした。
ちなみにホーバーが言う「シャークはクロルが好き」というのは、他意はないです。シャークは仲間としてクロルが好きで、最初からずっと女の子として見ておらず、たまに口走ってますが、「アホな女っス」と思ってるっス(笑)

公的海賊時代の主人公は、この三人。それに加えて、あと何人か…………一番意外なところでは、テスも主人公格! 過去編では一貫してテスは大事な大事な役どころを担ってゆきます。ジルサン船長に一番可愛がられていたこともあり。
そんなジルサン船長は歴史編のキーパーソン。誰よりも畏怖され、恐怖され、敬愛された船長。



絡みつく熱風


 絡みつくようなタネキアの熱風すら切り捨てて、敵船の中を走り抜ける。
 カトラスを振るうたび、腕がもげ落ちるような錯覚を覚える。
 刃毀れした切っ先が敵のどこかを抉るたび、血の粉が虚空をほとばしって視界を染める。
 背後には絶望的な数の敵、すでに引き返すことは困難だ。船の深部を目指して駆けるほうがはるかに楽だなんて、何て皮肉だろう。
 そう思った一瞬、突然、カトラスを握る手のぬめりが気になった。
 こんな時なのに、手についた血を拭いたくなる。
 そのわずかな思考の欠落が、隙となって、ホーバーに返ってきた。

 船室に潜んでいた敵兵が、唐突にその姿を現した。
 少年にとって死角にあたる、視界よりわずか斜め後ろ。
 もし相手が殺気を咆哮という形で吐露していなければ、その数秒で、彼は確実に死んでいただろう。
「うあぁああ……!」
「……──」
 右背後に雄叫びを聞くや否や、ホーバーは肢体を左方へ傾けた。同時にカトラスを逆手に持ちかえ、肩越しに相手の顔を見据える。
 避けきれなかった敵の剣が、右脇腹をかすめてゆく。致命傷にはならないそれを敢えてかわさず、その代償として接近した敵の胸部めがけ、逆手のカトラスを一閃させる。
 右胸部に切っ先が食いこんだ。掌でそれを感じ、ホーバーはそのまま身体を半転させる。その勢いは、鋭い切っ先に、相手の右胸部から左胸部にかけて完璧な直線を描かせる。それと同時に、敵の剣もまた半転する少年の脇腹の上を綺麗に滑ってゆく。
 ホーバーは切っ先が敵の胸部から抜けるのと同時に、さらに半転して前方を向き直り、そのまま床を蹴って駆け出した。
 遠ざかる背後で、遅い悲鳴が上がる。
 それとともに、彼の脇腹がわずかに血を噴く。
 ホーバーは唇を噛むことで呻きを押し殺し、ひたすら船倉を目指して走った。

「捕らえられている捕虜を解放し、連中とともに甲板を目指す。俺たちは甲板から侵入し、内部に逃げ込むだろう敵を挟み撃ちにする」
「言うのは簡単ですが……!」
「不可能ではない。……そうだろう、レティク」
 敵船の船内図を見据え、ジルサン船長は傍らのレティクに視線を向ける。
 レティクは短く即答した。
「出来ます」
 ただし、と片目の策士は、心の内で失った左目を懸念で曇らせた。

 ただし、捕虜が既に殺されている可能性は、考慮に入れてはいない。

 ホーバーは階段を駆け下り、船の深部である船倉へと突入する。
 そして彼は、意思とは無関係だったはずの荒い呼吸を、止めた。
 カンテラの明かりが揺れる薄暗い船倉には、かつて仲間だった船員の死体が、音もなく転がっていた。
「……下だ!」
 上階から足音とともに、怒鳴り声が聞こえてくる。
 ホーバーは目を瞬かせると、弛緩していた指先に力をこめて、カトラスの柄を胸元に引き寄せた。
「……ホーバー」
 どこからともなく呼びかけられ、ホーバーは瞬時に貨物の影へと身を潜めて、その声に答える。
「捕虜になった船員は……」
 今さら何の役にも立たない問いを、それでも紡がずにはいられなかった。だが答えは無情だ。
「昨夜のうちに殺されました。……援護します。数刻もすれば必ず船長が来るでしょう。それまで持ちこたえてください」
 徐々に近づいてくる足音と怒声。それに相反して、静かで冷静な声。
 ホーバーは一瞬ためらい、だがやがて静かに首を振った。
「この作戦が失敗すれば、バクスクラッシャーには退路がなくなる。援護を待つわけにはいかない。船長たちは捕虜が殺されていることをまだ知らない。……俺は、一人でも敵を減らす」
 死すら覚悟した、いっそ透き通った決意。
 いや、死などとうに覚悟していたのだろう。
 副船長として選ばれ、副船長としては何ら役に立てないことを知ったあの時に。
 船倉の影に潜む声の主は、少年の決意に愉快げに微笑むと、「では……」と呟いた。
「たまには船員らしく……あなたと生死を共にすることとしましょうか」
 階段上の扉が爆音とともに吹き飛ぶ。
 ホーバーは風のように駆け出し、最初に現れた敵兵めがけてカトラスを振り上げた。



アニアンローグ


「どこに行くの、セイン?」
 前を行くセインにしっかりと腕を掴まれ、半ば強引に夜道を歩かされる。
 いや、歩くというよりは小走りに近い。男にとっての早足は、フィーラロムの歩幅では走る速度だ。
 弱音を吐けば歩を緩めてくれるだろうとは分かっていたが、誰よりも焦りを覚えているのは──連れて行ってくれとねだったのは自分自身。弱音を吐くなど、脳裏に浮かびもしなかった。
 だが腕を引かれて歩きはじめ、もう随分になる。
 無言で真っ直ぐに闇を見据え、セインの表情は僅かとも見る事が出来ない。ただ煙草の煙ばかりがフィーラロムの頬を撫でて、後方に過ぎさっていった。
「……セイン?」
「…………フィー」
 不意に今まで無言だったセインが、彼女の名を呼んだ。
 何?と首を傾げるフィーラロムの顔を肩越しに振りかえり、セインは高い位置から彼女の顔を見下ろした。
 しかしそれきり何かを言うでもない。
「………………いや」
 長く感じられた短い沈黙の末、セインは再び前に向き直る。
「……なんでもねぇ」
 夜道に漂う紫煙はふわりと軌跡を描き、再び闇の向こうへと足早に歩き始めた。



トラワレ


「お願い、ホーバー……!」
 頑丈な鉄の門扉に縋りつき、フィーラロムは格子の向こうに佇むホーバーに頭を下げた。
「お願い……っ」
「フィー……俺……」
 ホーバーの困惑した声が聞こえた。それきり沈黙が落ちる。フィーラロムは頭を下げたまま、唇を噛んで込み上げてくる衝動を堪えた。
 何て醜いのだろう。何て無力なんだ。突き上げてくるのは、どうしようもない焦燥感。
 ――それでも失いたくない。見苦しいぐらい、あの人を欲してる。

 今、手を離したら、きっともう二度と会えない。

「…………分かった」
 フィーラロムはハッと顔を上げた。
 鉄格子の向こうでは、ホーバーがどこか遠くを見つめるように蒼い瞳を細めている。
 彼の背後には、門の前に立つ者に不気味なまでの圧迫感を与えてくるヴェルデ家の豪奢な屋敷。
 ホーバーは目を閉じると、シャツの襟元を正し、再び決意のこもった眼差しをフィーラロムに向けた。
「けれど俺でも、帝都の第三壁までしか越えられない。ジル船長がいるのはもっと奥だから、会えるかどうか分からない。それでもフィーラロム……かまわない?」
 珍しく弱気なホーバー、フィーラロムは自分の足元が崩れ落ちるような恐怖を覚えた。
 本物だ。自分が今感じている危機感は、この焦りは、紛れもなく本物なのだ。
「……かまわないわ。どうか私の代わりに、お願い……」

「ジルを捕まえて……」


 戦後、帝国海軍の軍師として召喚されたジルサン=バリー。
 帝城ケルヴァ・ピークの奥深くに姿を消し、一切連絡を絶つジルに、正体の分からぬ不安を抱くフィーラロム。
 思い余ったフィーは、バクスの船員たちの中で唯一、帝城に入ることのできる貴族のホーバーを頼る。だがホーバーは、成り上がりの中流貴族で、帝城の一定区画までしか入れない。しかも精霊の血を引くホーバーが帝城に入るという行為は、彼自身にとってひどく勇気のいること。それでも決意を固めて、帝城に乗り込んだホーバーだったが、ジルに会わせてほしいと頭を下げる少年に、帝城の人々はただ蔑視と嘲笑を浴びせる。
 ホーバー兄貴の友人であるアーヴァスは、それでも頭を下げ続けるホーバーの姿に、奇妙な同情を覚えた。だが彼が手助けするよりも早く、ホーバーの前に現れた男がいた。
 それは、バクス帝国の頂点に君臨する三人の王のうちの一人、空王。
「約束しよう、ヴェルデ。必ずやあの男に、君が来たことを伝えよう。……だが一つ教えてくれないか? ナンディレスのお嬢さんは、どこにいるのかな?」
 机上の空論を説く王、空言の王。
 空王は決して、真実を口にしない。
 そして物語は、魔物たちの巣窟デアモントロックを制した偉大なる王「陸王」、バクス帝国開闢以来最も恥ずべき海戦を始めた王「海王」、机上の空論を説きながら時代の訪れを待つ「空王」を歯車に――

 今、バクスの冷たい沈黙時代が始まる。


「嘘をついたことを許してほしい、フィーラロム」
「お前がジルサンを許せないのは、あいつがお前を選ばなかったからだ」
「シャーク、もしももう戻らない旅に出るって言ったら……ついてくるか?」
「違う……! あんな男など、私は……!!」
「ホーバーは馬鹿に限りなく近い、ぎりぎり馬鹿っス。だから安心していいっスよ」
「私、どうして踊り方を知っているの? 貴方は一体だれ?」
「世紀の犯罪者が身を隠すにはもってこいの場所だろ?」



海賊英雄と、女海軍指揮官


 帝城は見る者に冷酷さを感じさせるほどの、堅固な石造り。
 この国の気風にぴったりだ。ジルサン=バリーは見上げんばかりの格子門から目を逸らし、堅苦しい軍服の襟元を無造作に緩めた。
「まるで犬の首輪だ……」
「そう感じるのは、海賊、貴様の性根がたるんでいるからだ」
 不意に右前方から嘲笑が聞こえてきて、ジルサンは視線をそちらに向ける。
「中年男の、無様にたるんだ腹のようにな。精神を律する軍服の襟は、たるみきった貴様にはさぞきつかろうよ」
「レナか……」
 半ばまで巻き上げられた、巨大な格子門下の暗がり。壁にもたれて、威圧的に腕組をして、こちらを睨み笑っていたのは、バクス帝国軍海軍所属第六軍指揮官レナ=バーンスだった。
 男のように短く切った黒髪、化粧気のない面には、紅のかわりに嘲笑、白粉のかわりに厳格さが塗りこめられている。
「気安く名を呼ばないでもらいたい、海賊殿」
「これは失礼、女指揮官殿?」
 ジルサンは冷笑し、レナが劣等感を抱いている「女」指揮官という立場を、敢えて口にした。
 レナは笑みを消して、唇をギリッと噛む。
「……汚らわしい海賊が、帝城に何の用だ」
 悠々と獅子の足取りで格子門へと近づいてくるジルサンに、レナは鋭く問う。
 ジルサンは歩みを止めずに、ちらりとレナを横目で見据え、ふと笑った。
「汚らわしい……そう思ってくれるなら、俺を格子門より先に通すな。剣を十字に構え、歩みを阻止しろ。お前が追い出してくれたら、お前も、俺も、気分がいい」
「………………」
 そういいながら、ジルサンの足は決して止まらない。
 もうレナの目前まで近づき、格子門を今まさにくぐらんとしている。
 レナは一瞬の躊躇の後、腰に吊るした剣の柄に手をかけた。柄を親指で弾き、鞘内からわずかに刀身を晒す。──しかしそれだけだ。剣はそれ以上抜かれることはなく、ジルサンはそのままレナの脇を通り過ぎる。
「……何を考えている、ジルサン=バリー」
 通りすぎ様、レナは俯いたまま問いかける。
 通りぬけ様、ジルサンは前を見たまま応える。
「ではレナ=バーンス、お前は何を考えている?」
 鸚鵡返しは、卑怯で、知恵を持たぬ馬鹿のすることだ。そう言いかえそうとしたが、では私は何を考えているのかとの問いに、答えを持たぬことを自覚し、レナは唇を引き結ぶ。
 ジルサンは、わずかに苦笑したようだった。
 けれどそれもつかの間、二人は無言のままにすれ違う。
 格子門の下。
 一瞬交わった影は、離れて消えた。



呼吸


「仮にも、大英雄と言われたバクスクラッシャーの副船長だぞ。なのに、こんなのって…………」
 愕然とした様子の声に、しかしホーバー自身は何事もなかったかのように首を振った。
「これがバクス帝国だ」
 口元だけで微笑み、手にした紙切れを破る。
「……絶対に、掌はかえさない。だから期待しないで済む」
「期待しないってそんな、だって……だって船長やほかの連中は、次々に召還を受けてるってのに!」
 鬱陶しかったのか、或いは興味がないのか、ホーバーは答えず、ただ破った紙を屑籠に放る。
 スティルタもまたそれ以上続けることができず、言葉を失う。
 まだ昼間なのに、部屋が薄暗く感じた。
 窓から差しこむ光より、窓枠の落とす影のほうがよりいっそう濃い。
 外からはお祭騒ぎの声が聞こえてくるのに、それは近くて、悲しいほどに近くて、遠い。
「…………国を出ろよ、お前」
 沈黙に耐え切れず、呟く。
「この国は、お前を殺す気だ。お前から全部を奪うつもりだ。このままじゃお前……!」
 次第に怒りを帯びてゆく声。
 けれどそれを制するのは、やはり何の変哲もない声。
「帝国は俺を殺さない。何も奪わない。ただ…………何もくれないだけだ」
「同じことだろう!?存在すら認めてもらえない、それはつまり殺されるってことと同じだ!」
「けれど俺はここでこうして息をして、生きている。死んでなんていない」
「息してるってだけだろう……!!」
 憤りがうまく言葉にならず、まともな反論にならない。
 スティルタは悔しさに歯を食いしばり、爪が掌に食いこむほど強く拳を握る。
 ――だが、彼は不意に気がついた。
 平素と変わらぬホーバーの、平素と違う、奇妙な無気力に。
「…………さっき捨てた紙、あれ、なんだ?」
 影の差しこむ部屋。ホーバーは答えない。
 スティルタは躊躇いながらも屑籠に手を伸ばし、紙の破片を取りあげた。
「……これ」
 それは破れてはいるが、船の乗船券であることが分かった。
 文字をよく読むと、隣国である「フースィ」の名がある。
 だとすればこれは、フースィ国へ出航する船の――。
 ホーバーは不自然に乗船券から目をそらし、小さく呟いた。
「……乗船許可、下りなかったんだ」

 終戦後のバクス帝国。
 勝戦に沸くヴァインシュタンテス港で。
 スティルタは、当時の船員の一人。
 現在、生死不明。噂では海に出ることなく、海軍によって処刑されたという。




ケルヴァ・ピークの底で


 自ら副船長に任命し、生死を共にした、まだ未熟な片腕と再会を果たしたのは、あの日から半年が経過した後のことだった。
 数十を越える公的海賊の船長、副船長が一同に会す、第三期戦後総軍大会議。すでにバクス帝国を出奔した海賊を除けば、海軍の主だった面々だけでなく、陸空軍の代表者も参列する、会議という名を冠した戦後最大規模の内部向け祝賀会である。
 バクスクラッシャーの「形式的」な副船長にもまた、「形式的」に案内状が届けられ、「形式的」に参列が許可された。
 ――だが、彼が来たのは、自分の意思でだった。
 もしも「形式」に則るならば、彼は病気を理由に大会議を欠席しただろう。
 だが、彼は来たのだ。
 自分に会いに。

 拒否されることには慣れている。
 けれど、人から頼られたのは、初めてだった。
 両の手で必死に縋られたのは、生まれて初めてだったんだ。
 彼女の願いを聞き届けることができたなら、死んでもなれない英雄にだってなれる気がした。

「……来たのか、ホーバー」
「ああ、来たよ、ジルサン船長」

 煌びやかな広間の片隅で、二人は互いの姿に目を眇める。
 片方はどこか眩しげに、片方は揺るがぬ決意をこめて。
 たった数ヶ月で全てが変わり果てたことを、他人事のように感じながら。

「きっとこれが最後になる。俺にとっても、貴方にとっても。――だから、奪いに来た。帝国が瓦解する前に。嘘が現実になる前に。
 今日、貴方のいのちを、俺は奪う」

 今まさに溺れゆかんとする帝城ケルヴァ・ピークの底で、ふたりは最後の会合を果たす。




仔猫を救う値段


「猫の子でも殺しますか」
 手渡された金は、あのときと同じはした金。
 皮肉っぽい反論に、碧色の髪をした青年は口の端だけで笑って見せた。
「猫の子を助けて欲しい」
 猫の子しか殺せない金額で。
 猫の子を助けてほしい。
 メイスーは凍てついた氷の微笑を浮かべ、たかが数枚のコインをポケットにしまいこんだ。
「……なるほど、理に適っている」

 本当は、適ってなどいなかったけれど。

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