嵐を支配する男

03

 ふと気がつくと、嵐はさらにひどくなっていた。
 船首先端から先は、猛然と吹き荒れる風と豪雨とで灰色に霞んでいた。
 やけに静かだった。振りかえると船上には誰もいなかった。慌てて目を凝らすと、黒く荒れる海の中に、小さな船が何艘も浮かんでいるのが見えた。
 逃げたのだ、ルイスを置いて。
 ルイスは胸をかきむしりたくなるような焦燥感に襲われ、蒼白になる。
 キースがこうすることは命令を受けたその時からわかっていた。彼はルイスをファレオバウスの生贄にしたのだ。巻きこまれるのを避けるため、小船で帆船を離れ、じっとルイスが食われる瞬間を待っている――。
「……ルイス!」
 自失状態で舵輪を握りしめていたルイスは、誰かの絶叫で我にかえった。
 声の源を探して首を巡らせると、ホーバーが船べりにしがみついて声を張りあげているのが見えた。
 ルイスは少年がまだ残っていたことに、泣きたいほどの安堵を覚える。だが風音が強すぎて、何を言っているのか聞こえない。
 彼は歪んだ笑みを浮かべ、前方へと身を乗りだした。
 そのときだった。
 視界の右手で、巨大な水柱があがった。
 衝撃で船が激しく揺れる。海水が甲板になだれこみ、舵台にまで高波が突っこんでくる。ルイスは死に物狂いで舵輪にしがみつきながら、恐怖に見開かれた眼を四方八方へと走らせた。
 そして、それは水柱の中から現れた。
 帆船グルバラー号とほぼ同等の大きさをした、鯨に似た形状の生き物。眼らしきものの存在しない、のっぺりと平たい顔。ただ乳白色の牙で覆われた口だけが、ぽっかりと開かれている。
 海獣ファレオバウスだ。
 ファレオバウスは美しい弧を描いて甲板のすぐ上空を飛び去り、左舷側の海面へと突っこんでゆく。ふたたび帆船は左右に揺さぶられ、海水が船べりを越えて流れこんできた。
 ルイスは声も出せず、崩れ落ちそうになる体を舵輪を掴むことでどうにか支えた。
 恐怖という名称のある感情よりも、もっと混沌としたモノが脳内で暴れまくる。血の気が引くのと一緒に口がわななき、祈りとも救いを求める言葉ともつかない言語が、開かれっぱなしの口からとめどなく紡がれてゆく。
「ルイス……!」
 割れた悲鳴が聞こえてきた。
 ルイスはその声を求めて、震える足で一歩あとずさった。
 逃げよう。逃げるんだ。逃げなければ食い殺される。
 早く。はやく自分も小船に――。
『では全員、波に呑まれて死ぬな』
 キースの笑い含みの声が、耳に蘇った。
 ルイスはびくりと足を止め、動揺に揺らぐ目を海上へと向ける。
 波間には、仲間たちを乗せた小船が、今にも沈みそうな姿で浮かんでいた。
 ルイスは喉を詰まらせ、顔をそらした。
 そらした先には、舵を握る自分の手があった。
 その手は、ぞくりとするほど激しく震えている。
「……ぁ、あ」
 ルイスは海水と汗とで滑る舵輪を、必死に握りかえす。
 舵は左舷側へと引きずられていた。船の左舷側はすでに海面の下に沈んでいる。この手を離せば、制御を失った船はあっという間に沈没するだろう。知りたくもないのに、その光景が掌を通してはっきりと想像できた。
 だがこのまま舵をとりつづければ、仲間は助かっても、自分が獣に食われて死ぬのだ。
 ――どうすればいい。どうすればいいんだ。
 ルイスは無意識の助けを求め、ふたたび海上の小船へと目を向ける。だがその姿は、あまりに小さかった。雨の向こうに霞み、高波に幾度も翻弄され、どんどんと帆船から遠ざかってゆく無数の小船。彼らに自分を助ける余裕などあるはずもない。
 そして、自分が食われない限り、彼らはこのまま嵐に飲まれて死ぬ。
「なんで……!」
 激情に駆られるも、それはまるで言葉にならなかった。ルイスは中途半端に叫んで、舵輪に額を打ちつけた。
 放してしまいたかった。
 重たい舵を、このまま手放してしまいたかった。
 自分には、あまりに重すぎる。
 なのに、それができない。
 ルイスは舵を握りしめたまま、何度も涙にならない嗚咽をあげる。
 死にたくない。
 視界の隅で、水しぶきが上がる。
 死にたくない。
 ファレオバウスの不気味な咆哮が、鼓膜を震わせる。
 死ぬのが怖い。
 怖い。
 こわい。

 だったら、手放してしまえ。

 死にたくない。

 ならば見捨ててしまえ。

 死ぬのが怖い。

 仲間など、見殺しにすればいい。

 見捨ててしまえばいい。

 簡単なことだ。

 見殺しにすればいい。

 ほんの数年、後悔に苦しむだけだ。

 自分の命を捨ててまで仲間を守る?
 そんなお綺麗な正義感など捨ててしまえ。

 できるはずだろう。


 前にも、一度やったのだから。



 不意に、奇妙な解放感が全身を襲った。
 虚脱感で、頭の中が真っ白になる。
「……?」
 その白濁した脳内に、不気味な音が響きわたった。
 ルイスはぼんやりと舵輪を見下ろす。
 舵輪が、猛回転をはじめていた。
 怒り狂ったように軋んだ音をたてながら、凄まじい勢いで回転していた。
「……!?」
 ルイスは我に返って、慌てて舵を掴んだ。だがその手は、弾かれたように舵輪から引き離される。
 舵輪自体に弾かれたのではない。
 もう一度舵をとることを、ルイスの本能が拒否していた。
 ルイスは呆然と舵輪を見つめた。
 その眼が次第に虚ろになってゆく。
 ――何が悪いのだ、と心の中で誰かが笑った。
 自分が離したわけではない。
 気がついたら、舵から手が離れていただけだ。
 わざとじゃない。ただの事故なんだ。
「そうだ、事故なんだ……」
 どのみち、今さら舵をとってももう遅い。船はもう沈む。こうなっては舵を取ることなどもはや意味がない。
 ファレオバウスに食われれば嵐が止む?冗談じゃない。伝説とまで言われた海獣のそんな逸話が、なぜ本当だと信じられるのだ。そんな馬鹿げた噂を信じて無駄死にするなどごめんだ。仲間を助けるために自分を犠牲にするなどごめんだ。
 逃げよう。逃げるんだ。
 ルイスは回り続ける舵輪から逃げるように、一歩、一歩と後ずさった。
 ――その足が、唐突に止まった。
 背中に壁でもあるように、体が突然動かなくなってしまった。
 ルイスは息苦しさを覚えて胸元を見下ろす。
 そこに、見知らぬ腕があった。
 氷のように冷たい腕が、自分を羽交い絞めにしていた。
「……!?」
 ルイスは息を呑んで、悲鳴を上げようとした。だが胸と一緒に喉まで締めつけられたようで、声がまるで出てこなかった。
 耳元に気配を感じる。ふと気がつくと顔の脇に、別の誰かの顔があった。
 その顔は冷たく笑うと、耳元で囁いた。
『どこに行くんだよ……』
 聞き覚えのある声だった。
 骨の髄にまで響くような、低い声。
 何度も何度も、夢の中で聞き続けてきた、懐かしい声。
『……ルイス』
 そう、忘れるわけがない。
 それはルイスが見殺しにした、親友レイバルの声だった。

 甲板の向こうからホーバーの叫び声が聞こえてくる。
 ルイスは目を見開いたまま、ガチガチと歯を鳴らした。
 少年が自分の名を呼んでいる。
 その声が、レイバルの声と重なった。
『ルイス、返事をしろよ……』
「――ッ……ぅぁああああああ……っ」
 ルイスはようやく狂った悲鳴をあげた。
 耳元で笑い声がした。その笑い声はまるで海中で笑っているかのように、奇妙な空気音の混じったものだった。
『船内にまだガキがいるんだ……』
 レイバルがふたたび囁きかけてくる。あの時と同じ言葉を。あの時と同じ台詞を。
 だがありえない。そんなことなどありえない。レイバルは死んだのだ。あの嵐の海で、自分の命惜しさに見殺しにしたのだ。
『ルイス、舵をとれ……』
「やめろ! 頼むからもうやめてくれ……!」
 幻覚だ。これは死を目前にした恐怖が生み出した幻覚だ。ルイスは腕から逃れようと足掻き、必死に声を張り上げる。
 舳先の向こうでふたたび水柱があがった。ファレオバウスの巨体が宙を舞い、ルイスを嘲るかのように半回転して海中へと潜っていった。
 船が揺れた拍子に、ルイスは足を取られてその場に倒れた。同時に腕から逃れることのできたルイスは、死に物狂いで甲板に爪を立て、背後に立つレイバルの亡霊から逃げようとする。
『舵をとれ……』
 レイバルの声が彼に追い討ちをかけた。
『舵をとるんだ、ルイス……』
 ファレオバウスが咆哮する。しきりに海から顔を出して、激しく鳴き狂う。
 ルイスは激しくかぶりを振り、がむしゃらに耳を塞いだ。
 塞いだ途端、喉の奥が震えた。そんな権利などないのに、熱いものがこみ上げてくる。
 どれだけ後悔してももう遅いのだ。彼らが死んでしまった事実はもう変えられない。見殺しにした自分の臆病さを悔やんでももう遅い。遅すぎるのだ。
 舵なんて、もうとれない。
 もう、あまりに遅い。
「ルイス、もういい……!」
 不意に、少年の声が耳に飛びこんできた。
「もういいから、逃げろ……!」
 ようやくまともに聞こえたその声は、そう叫んでいた。
 ルイスは生気の失せた目で、柵の向こうに見える甲板に目をやった。
 甲板はひどく傾いていた。左舷側はすでに浸水が始まり、少年はその左舷の船べりに身を半分海に沈めた状態でしがみついていた。
 ルイスはよろめくように身を起こし、状況も忘れて泣きだしそうに笑った。
「……逃げろって」
 少年も我を忘れているに違いない。ルイスが逃げれば嵐は収まらず、船員の全員が海に呑まれて死ぬのだ。副船長として決して言うべきではない台詞を、少年は呑まれかけた船の上で叫びつづけている。
 自分も死ぬかもしれないのに、逃げろと叫んでいる。
『舵をとれ、ルイス』
 ふたたび、背後で声がした。
 ルイスは少年の姿を真っ直ぐに見つめ、肩越しにレイバルを振りかえった。
 そして彼は――息を呑んだ。
「レイ……バル……」
 すぐ背後に、レイバルが立っていた。
 昔と変わらぬ姿で、嵐も、傾いた船すらも関係ないようにまっすぐと。
 予想に反して、レイバルは、優しく微笑んでいた。
『ルイス、舵を取ってくれ……』
 ルイスの目から涙が零れた。泣く権利などないと分かっていても、堰を切ったそれはとめどなく溢れだした。
 ルイスは涙に顔を歪ませ、首を振る。
「でき、ない……」
『何故だ……?』
 いつかの会話が繰りかえされる。
「子供なんていない、みんなもう逃げた。舵はもう制御できない。俺も逃げるんだ」
『ガキがいるんだ。俺も乗っている。舵をとってくれ、ルイス』
 涙が止まらない。ルイスは悲しくて苦しくて、ひたすら首を振る。
 ふと耳から全ての音が消え去るのを感じた。
 全ての雑音が消え、肌を打つ雨すら感じない。
 代わりに蘇るのは、古い記憶が導きだした幻聴。
 風の音。雨が何もかもを打ちつける音。船の悲鳴。
 そして――子供たちの悲鳴。

 小さな船だった。乗客など数人しか乗せていない、小さな貨物船だった。
 船内に取り残された子供たちの悲鳴は、舵台にいたルイスにも聞こえていたはずなのだ。
 聞こえていたはずなのに――!!

『舵を取れ、ルイス……』
 レイバルは優しく繰りかえした。
『俺を助けてくれ……』

『もう、死にたくないよ……』

 ルイスはハッとして、レイバルを見上げた。
 レイバルは微笑んだまま、舵台の階段を下りていった。
 そしてその姿は、船室へと消えてゆく。
「レイバル……!」
 彼は死ににいくのだ。そして、死んだのだ。
 舵を取れと叫ぶ声。親友の声。助けを求める、声。
 何故あの時、見捨ててしまったのだろう。
 どうして舵を取らなかったのだろう。
 あの日からずっと、後悔して止まなかった。
 ルイスは嗚咽を零しながら、涙を無理やりぬぐった。
 舵をとってももう遅い。レイバルたちは二度と救えない。
 けれど今、自分の目の前には大切な仲間がいる。
 ルイスは涙の消えた目で、ゆっくりと舵台を振りかえった。
 舵台の向こうには、叫びつづける少年がいた。
 海の上には、大切な仲間たちがいた。

 舵をとれ、ルイス。

 ルイスは立ち上がり、回転しつづける舵輪を掴んだ。
「……食ってみろよ」
 舵輪が痛々しいまでに歪んだ音をたてる。
 ファレオバウスの咆哮がどこからか聞こえてくる。
「食ってみろ……!」
 ルイスは雄叫び、全身の力を使って舵を逆回転させた。
 海が逆巻く。咆哮が天を貫く。黒雲が引き裂かれる。

 世界が、白に染まった。

+++

「ひゃっほう! ルイスの奴、またやりやがった!」
 背後で、最初に舵をとっていたルイスの弟子バザークが歓声をあげた。
「ま、信用してたけどね」
 隣でアホだの馬鹿だの年中冬眠熊男だの、好き勝手言っていた黒髪の少年レックが、隠せない笑顔をすくめた肩の向こうに無理やり隠した。
「今日はお祝いっスね! 祝・四十個目の嵐制覇記念!!」
 丸眼鏡の男シャークが両手を上げて喜ぶ。きっと酒を飲めるのが嬉しいのだろう。
 ルイスは笑い、嵐の後の澄みわたった青空を見上げた。
 ――舵を取っている間、昔のことを思い出していた。
 はじめて嵐を支配したあの日。
 過去の後悔を打ち破った、あの日のことを。

 あとでキースが苦笑まじりに言った言葉だ。
 ファレオバウスは魔物の一種、その禍々しい力でもって舵手に幻聴を聴かせ、彼らの深層心理を狂わせるのだという。幻聴に耳を貸し、歪んだ心に囚われた舵手を彼らは好んで食らう。その力は強大で、ファレオバウスの起こす嵐を支配した者など今まで聞いたことがない――。
 ルイスは確かに舵を取りなおした。だが船は絶望的に傾き、もはや舵を取ることに何の意味もなかった。ただ食われるのを待つためだけに、彼は舵を取ったのだ。
 だが舵を取った彼を、海獣は食わなかった。
 突如として風が止み、荒れ狂う海は急速に鎮まった。
 舳先の向こうで暗雲が裂け、そこから眼に痛いほどの白い陽光が溢れだした。
 そして、覆った目をふたたび開けたとき、帆船は光輝く海に、ぽつんと浮かんでいた。

 一つだけ不可解なことがある。
 ルイスの見た、レイバルの幻覚だ。
 あれもまた、ルイスを惑わせようとファレオバウスが見せた幻だったのだろうか。
 だがだとしたら、なぜレイバルは微笑んでいたのだろう。
 まるでかつてのレイバルのように。
 親友を見守る、あんなにも優しい眼差し――。

 ルイスは親友の姿を思い出し、ひとり微笑みを浮かべた。
 もしかしたら、あれは本当にレイバルの亡霊だったのかもしれない。ルイスが彼らを救えなかったことを後悔しつづけたように、レイバルもまた子供たちを救えなかったことを悔いていたのかもしれない。
 それとも、ルイスのために現れてくれたのだろうか。彼らを見捨てたという過去の苦しみから、今度は仲間を救わせることで解放させようとしたのか。
「……ただの夢、だったかな」
 過去を美化する自分が可笑しくて、ルイスはクツクツと笑う。
 ふと傍らに気配を感じて振りかえると、ホーバーが空を見上げて立っていた。
 ルイスは微笑み、もう一度、空を仰いだ。
 そこには、鮮やかなばかりの青い空。

「レイバル、またおまえを救ったよ」

 そしてルイスは、嵐を支配する。

おわり

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