嵐を支配する男

01

 雷鳴が轟き、強風が海上に吹きすさぶ。
 低く垂れさがった暗雲の下で、高波がうねりをあげ、巨大な帆船を木の葉のように上へ下へと玩んだ。
「帆を畳めぇー!」
 雨に打ちつけられて乳白色に輝く甲板では、船員たちが忙しく走りまわっていた。
 メインマストのすぐ上空では、黒雲が恐ろしい速さで東へと駆け抜けてゆく。
 嵐だ。突如として襲ってきた嵐に、海賊船は今にも海中へと沈められようとしていた。
 そんな混乱の最中、舵手長ルイス=ベッサイドは、ひとり落ち着いて空を見つめていた。
「帆が破れたぞ……!」
 減帆作業も間に合わず、どんな風にも耐えてきた帆が無残に引き裂かれた。
 雨脚は見る間に激しさを増し、船べりを越えた波が甲板へと流れこんでくる。
「……きゃっ」
 高波に押しあげられて甲板が斜めに傾いた拍子に、船員の一人である少女が足を滑らせた。とっさに腰を上げたルイスだったが、彼女のすぐ側にいた丸眼鏡の男が無事少女を支えたのを見て、また視線を空へと戻す。
 落雷音とともに、白い稲妻が海面へと突っこんだ。直後、無数の光が空を切り裂き、海へと落ちては、次々と巨大な波紋を描いてゆく。
 人の世とは思えぬ絶景だ。
 ルイスは思わず嘆息を漏らした。
「うーん、やっぱり嵐はたまらんわ……」
「馬鹿ルイス!」
 頭上からの罵声に、ルイスはぐっしょりと濡れた銀髪を掻きあげ、声の主をのんびりと振りかえった。背後で腰に手を当て、彼を見下ろしていたのは、黒髪の少年だった。
「この年中冬眠熊男! 準備はいいのか!?」
 ルイスは呑気に笑って、ああ、とうなずきかけた。
 そのとき少年の後ろ──舵台の方から、叫び声が聞こえてきた。
 ルイスは瞬時に顔を引き締め、舵台への階段を駆けのぼる。
「だめだ、外海に引っ張られてる! ルイス、頼む……!」
 舵を取っていた青年の悲鳴に、ルイスはしっかりとうなずいた。

 そして彼は、舵を取った。




嵐を支配する男




 舵輪は回る。くるくると。
 まるで渦が逆巻くように。
 時が遡るように──。

 カンテラの薄ぼんやりした明かりがともる、暗い船倉。
 積まれた予備帆や、じゃがいもの詰まった樽、食料袋が、床や壁に濃い影を落とし、膨れあがってはまた縮むを繰りかえしている。
「ルイス」
 ひとり船倉の整頓をしていたルイスは、天井の上から聞こえてくるくくぐもった声に顔を上げた。
「ルイス!」
 持っていた木箱をその場に置き、ルイスは急いで階段から上階を見上げた。
「船倉です!」
 大声で答えると、天井に開いた四角い階段口から、黒い影がひょこっと顔を出してきた。
 カンテラの灯りに不思議な色を反射させるのは、碧と白が入り混じった海色の髪。その間から覗く顔は、まだ幼さの残る少年のものだった。
「……何だ、ホーバーか。びっくりさせるなよ」
「何だとはなんだ」
 ぴんと張っていた背筋をあからさまに緩めると、ホーバーがむっと顔をしかめた。ルイスは短気なその反応を笑って、どうした?と問いかける。ホーバーはすぐに表情を改めると、いつもの無愛想さで言った。
「キースが呼んでる」
「……船長が? わかった。今行く」
 一言だけ告げると、ホーバーはさっさと顔を引っこめた。足音はあっという間に頭上を通り越して、遠くへと消えてゆく。
 ぱらぱらと降ってくる埃に苦笑すると、ルイスもまた顔をひきしめ、階段の手すりに手をかけた。

 新暦993年、ダヴィスカー大洋海上。
 あの悪夢にも等しき海軍艦隊との海戦からバクスクラッシャーを救った海賊「イリータイン」は、同時に、彼らをさらなる悪夢へと突き落とした。イリータインは卑劣な手段でもって、バクスクラッシャーを自らの配下に置いたのである。
 二艦編成となったイリータインは、皮肉にも名を「バクスクラッシャー」に改める。しかし実際には、旧イリータインの船員が旧バクスクラッシャーの船員をなかば奴隷として扱うという、完全な権力構図がそこにあった。
 そしていま、二号船であるグルバラー号は、悠々と航行する一号船バックロー号の横を、静かに併走していた。
 帆は貿易風を受けて大きくはらみ、舳先は暮れゆく夕陽を貫くように西を指している。航海はまず順調で、船員たちは比較的ゆとりのある時間を過ごしていた。
 そんな中、ルイスは船長室の扉を緊張に震える手で叩いた。

「ルイスです」
 声をかけてから扉を開けると、広い船長室では、冷たい金色の髪の男が豪奢な椅子に腰かけて彼を待っていた。
「遅い」
「……すみません」
 鋭く言い放ち、男は冷徹な、檸檬色の眼でルイスを見据えた。
 男の名はキース。二号船グルバラー号の船長であり、百人にも及ぶ海賊を指揮する二人の頭領のうちの一人である。
 現在バクスクラッシャーは、かつてのイリータインの船長、副船長だった二人の男によって指揮されていた。一号船バックロー号を船長ハーロンが、二号船グルバラー号を副船長キースが。地位的に言えばキースはハーロンよりも下だが、二号船上では事実上キースが最高権力者であった。
 そんなものに自分のようなただの水夫が呼ばれたのだ、自然、および腰になる。
「この前の嵐で、ロフェスが死んだのは知っているな」
 恐れから顔を上げないルイスに、キースは唐突な質問を投げかけた。
 ルイスは床を見つめたまま、眉根を寄せた。知っているも何も、ロフェスというのは先週まで二号船の舵をとっていた舵手の名だ。優れた舵手だったが、先日の大嵐の際、高波に呑まれて死んだのだ。知らないはずがない。
「この辺りは、普通の船ならばまず近寄らない暴風海域だ」
 冷たい眼差しのまま、キースは作戦机に広げた海図を指で示した。とん、という音に無言の指示を聞いた気がして、ルイスはおそるおそる顔をあげる。
 長い指が示していたのは、地図上の左隅、タネキア大陸の西端にある海域だった。キースの言うとおり、そこは普通の船乗りならばまず航路には選ばない、原因不明の風が荒れ狂う一帯である。
 その魔の海域を指で叩き、キースは濃淡の少ない声で言った。
「だが知ってのとおり、海賊島に行くにはこの海路を通るしかない。もう長い間、島に顔を出していない。お前らが俺たちの「仲間」となったことを報告しないのは、他の海賊方に失礼にあたるというものだ……分かるか?海の貴族にもそれなりの礼儀作法がある」
 海の貴族。そんなあだ名で呼ばれる海賊だが、それを額面通りに受け取るならば、キースはまさに海の貴族といえた。
 豪奢な刺繍で彩られた長衣、高級な海獣の皮で作られたブーツ、長い金髪は緩やかに後方で結ばれ、指先には品の良い銀の指輪は嵌められている。顔立ちは冷ややかだが、紳士の優雅さを兼ね備え、完璧な発音でつむがれるリスト語には、極上のワインのような甘美さが秘められていた。
 そして耳朶にうがたれた、赤いピアス。
 まるで血の珠だ。ルイスは恐れに身を震わせる。
「お前を舵手に任命する」
 その言葉は、あまりに唐突だった。
 地図には描かれていない海賊たちの盟約の島「海賊島」に思いを馳せていたルイスは、一瞬その言葉を聞き流し──直後、血を凍りつかせた。
 青ざめるルイスを見つめ、キースは口角に微笑みを乗せる。そして子供にでも諭すような調子で、同じ言葉をゆっくりと繰りかえした。
「舵手に任命する、ルイス=ベッサイド。お前は過去、商船の舵手を務めていたと聞く。その経験を生かし、次に嵐がきたときにはお前が舵をとれ」
 ようやく状況を理解したルイスは、弾かれたように頭を下げた。
「い、いいえ! 小船の舵しか取ったことがありません! 巨船の舵取りとは勝手があまりに違います、できるはずもありません! ……だ、第一、帆手はどうするのですか。俺はバクスクラッシャーの船員です、イリータインの船員が俺を信用するとは思えな――」
「誰が嘆願だと言った、ルイス。これは命令だ。……叛くなら、今ここで殺してもいい」
 キースの腰の脇で、カトラスが乾いた音を立てた。その不気味に輝く眼には、脅す色もなければ諭す色もない。そしてそれこそが、彼が紛れもなく本気であるという証になっていた。
 ルイスは言葉を失った。
 まるで分からなかったのだ、キースの意図が。
 舵手は船長・副船長を除けば、実質的に船上最大の権力者だ。舵手は全員の命を担う。帆船の扱いはよほど腕を信頼していなければ──そしてその忠義心を信用していなければ預けられない。なのに彼は一水夫でしかない、しかもバクスクラッシャー側の船員であるルイスにそれを託すという。
 魔の海域。原因不明の嵐が渦巻く、禁断の海。
 ルイスは必死に探る。この有りえぬ配役の中に隠された真実を。
 そして彼は、突然、気がついた。
「結果はどちらも変わりない。そうだろう?」
 ルイスの表情を見て、キースは待っていたかのように目を細めた。
「……──は、い」
 目を見開いたまま、彼は静かにうなだれた。

「話、なんだって?」
 外に出ると、船長室の外壁にホーバーが背を預けて立っていた。
 ルイスは青白い顔をふと笑わせた。もしかしたらこの反抗期真っ最中の少年は、自分を心配してずっと待っていてくれたのかもしれない。
「舵を取れ、と言われた」
「舵? 取れるのか?」
「……少しな」
 ルイスは無理に笑顔を作ってうなずく。
 それを敏感に感じとり、ホーバーは小首をかしげた。
「乗り気じゃなさそうだな。水夫から舵手なんて、随分な昇格なのに」
 ホーバーはどうやら心の底からルイスのために喜んでくれているようだ。ルイスは答えるべき言葉を見つけられず、まぁな、と曖昧に答えを返した。
 不思議そうに蒼い瞳が細められる。ルイスは無意識に視線を外す。
「ああ。そういえばシャークが言ってたな。ルイスは前は貨物船か何かの舵手だったって」
 ルイスは、ああ……と静かに目を伏せた。
「取ったことはある。──けど、二度と取りたくなかった」
 聞き取れないほど小さな声で呟き、ルイスはホーバーに背を向けた。

 割り当てられた船室に入ると、まだ仕事中なのだろう、同室の者は誰もいなかった。
 そのことに少し安堵して、ルイスは潮の香りが染みついた寝棚に倒れこむ。
 波の音と、船の軋む耳馴染んだ音が聞こえる。
 波の数を無意識に数えていると、いつのまにか彼は眠りの中に入りこんでいた。

 ルイス……!
  駄目だ、船が沈む! 海へ逃げるんだ……!
 ルイス、舵を取れ! 船内にまだガキがいる……!
  だめだ、出来ない……!

  ・ ・ ・ ・、早くおまえも逃げろ……!

  ルイス……!!

 ルイスは悲鳴をあげて、飛び起きた。
(……夢?)
 上手く息ができず、苦しさから目尻に涙が浮かぶ。
 肩を上下させるたび、全身から噴きでた汗が気持ち悪く肌を滑り落ちてゆく。
 まるで、海にでも飛びこんだかのようだ。
「……っ」
 ルイスは悲痛に顔を歪め、血が滲むほどに唇を噛みしめた。
「だれか……っ」
 懇願するように、寝棚に額を打ちつける。
「嵐がくる前に、だれか、俺を殺してくれ……!」
 その必死の悲鳴を聞きつけ、誰かがそれを実行する日は、来なかった。

 わずか四日後。
 嵐はやってきたのだった。

02へ

close
横書き 縦書き