眠る前のあの歌を…

08

 バザークが親友の想いに気がついたのは、船内で起きたある事故がきっかけだった。
 詳しいことはもう覚えていない。記憶に残っているのは、ただ眩しすぎる空の青。
『……クロル!』
 タネキアの陽射しはあの日もきつくて、空は抜けるように青かった。

 その日は、バックロー号の整備作業の日だった。
 強い日差しの下、五十人の船員が一丸となって作業を行った。傷んだ甲板の修復、備品の総点検、破れた帆の補修……その日は特に大規模な作業となったが、整備自体は別段珍しい作業でもない。定期的に行っている作業で、いつも通り何事もなく終わる――はずだった。
 正午を回ったときだった。
 船鐘係が、船鐘を高らかに鳴らした。
 軽く、また重く鳴り響く、鐘の音。
 その時、クロルは甲板を歩いていて、彼女の周囲には誰もいなかった。
 彼女が帆柱の横を通りすぎようとしたとき、突如、上空の帆桁がガクンと斜めに傾いだ。かと思うと、巨大な帆桁が、そのまま真下へと落下したのだ。
 帆桁は、冗談のように重い。ずんっと、腹の底に響く重たい落下音とともに、帆桁が甲板を押し潰した。――ちょうど、クロルがいたはずの、その場所を。
 誰もが凍りついた。突然の事故に、体が動くことを拒否した。
 それはバザークも同じで、彼は棒を飲んだように、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
 だが、クロルは幸いにも無事だった。
 落ちた帆桁の向こうで、呆然と甲板にへたりこんでいた。
『……クロル!』
 誰もがいまだ動けずにいる中、誰よりも早くクロルの元に駆けつけたのはホーバーだった。
 ホーバーは自失状態のクロルの前に膝をつくと、緊張に言葉を詰まらせ、彼女の顔を見つめた。
 お互い、言葉もない。周囲も言葉が出ない。
『あ、あた! あたたっ、ちょ、あんた、いたいいたい!』
 と、ホーバーが声もないまま、クロルの頭だの首だの肩だの腕だのを、捻くりまわしはじめた。そして最後に、わめくクロルの両手首を掴み、その手にも傷一つないことを確認すると、ようやく詰めていた息を吐き出し、表情を緩めたのだ。
『よか……った』
 ――今でも、その光景の一欠けら一欠けらを覚えている。
 クロルの手を掴んだまま安堵にうつむくホーバーと、それを声を失って見つめるクロルと。誰もがあげた歓声の中で、自分が声もなく立ち尽くしていたことも。
 それ、だけだ。
 それ以外、何か特別なことがあったわけではない。
 だがそれは紛れもなく、きっかけとなった。
 ホーバーは、たとえそれが他の船員だったとしても、きっと同じことをした。同じだけ心配しただろうし、同じように安堵したはずだ。
 だがバザークは、あの瞬間に気がついた。
 誰もにとっただろうホーバーの行動を見て、クロルの身を案じる真剣なあの目を見て、安堵のあまりについた溜息と、同時に緊張を解いたその様子を見て、バザークは気がついたのだ。
 それまでただの一度たりと気付かなかった、親友の、クロルへの深い想いに。

 その時から、意識するようになった。
 今まではクロルにだけ傾けていた意識を、ホーバーにもまた向けるようになった。
 何かの折に、クロルをふと見つめるホーバーの眼差し。
 愛しげで、切なげで、誰よりもクロルを優しく見つめる目。
 だが、同時にバザークはもっと残酷な事実に気がついてしまった。
 クロルのホーバーに向ける表情が、自分や他の船員に向けるものと、まるで違う色を持っているということに。

「クロルって、弱音とか本音とか、けっこう言わないだろ」
 脳裏を過ぎるあの日の記憶に力なく身を委ねながら、バザークは独り言のように呟く。
 抜けるような青空。今日と大差ない、あの日の空。
 記憶の中の空に重なって、クロルのとびきりの笑顔が浮かんでくる。
「ものすごい怒ってても、それを表に出さないことがある。辛いことがあっても、口に出さずに一人で耐えたりして」
 弱々しく言葉を紡ぐバザークの姿に、ホーバーは何も言えずに見つめた。
「俺、バクスクラッシャーの船員になったのって、ホーバーより何年も後だから。だからなのかもしれないけど──クロルって、俺にはいつも笑顔でいてくれるんだ」
 悔しくて、どうしても言葉にできなくて、バザークは遠まわしな台詞を使った。
 そう、いつも瞼裏に浮かぶのは、笑顔のクロル。
 バザークはクロルの弱さを知っている。姐御肌な態度の裏側に、決してそれだけではない色々な感情が潜んでいることだって知っている。それこそを愛しいと思うのに、クロルはバザークの前では決してそれを晒さない。
 ただ、ホーバーにだけなんだ。
「お前にだけ、クロルは本気で怒る」
 何度も見てきた。クロルはホーバーに対してだけは、本気の喧嘩を仕掛ける。大声で怒鳴り散らして、醜く顔をゆがめて、自分が傷つこうが相手を傷つけようが、がむしゃらに怒り狂う。
「お前にだけ、弱さを見せる。……そして弱さを晒したことをすごく恥じるんだ」
 堪えきれずに弱さを晒して、晒した自分をクロルは恥じる。ホーバーにだけは弱さを見せるくせ、ホーバーにだけは弱さを晒したくないと意地を張る。
 バザークには決して見せない表情の数々。
 他のどの船員も知らない、本当のクロル。
 そのことに気がついた瞬間、バザークはどうしようもなく焦った。
 強い劣等感が、自分の身に巣食らうようになった。
 ホーバーには自分と同じぐらいに強い、クロルへの想いがある。
 なのにクロルは、ホーバーにだけ心の底に潜めた本音をさらけ出す。
 ──そんな有利な立場にいながら動かないなんて、なんて贅沢で、なんて卑怯。
 その思いは、いつしか決して消えない心のしこりとなった。
「もったいない、だろ……」
 最後にそう言って、バザークはずっと押し殺してきた本音を締めくくった。
 
 ホーバーは戸惑いを隠せぬまま、肩を落とす親友を見下ろした。
 そして彼は無意識に首を横に振った。
「……違うだろ」
 不審げに顔を持ち上げるバザークを見上げ、今度はホーバーが気まずそうに顔を俯かせた。
「有利なんて……そんなの、バザークの方だ」
「何でだよ!」
 反射的に、バザークは反発の声を上げる。恋敵と思ってる男に慰められるのだけは御免だった。
 だがホーバーは彼の語気には気づかず、視線を泳がせ、情けなく言葉を濁らせた。
「だから……」
 ホーバーは前髪を手で掻き回し、それがクロルの言っていた「困った時の癖」だということを思い出し、なおさら気まずくなりながらも、やがて諦めたように吐き捨てた。
「だから、バザークみたいないい奴が……クロルに好かれないわけないだろっ」
「──」
 バザークは呆気にとられて、ホーバーを見下ろした。
 何を言ってるのだろうか、この男。まるで意味が分からない。
 思わず心配げに眉を下げ、親友の肩にぽんと手を置くバザークである。
「……お前、その口下手、直した方がいいぞ」
「うるさいな……」
 本人の前では言わないと誓ったことを、せっかく言ってやったのに。ホーバーはぎりぎりと歯噛みする。
 だが食堂で思った時と考えは変わらない。それは紛れもなくホーバーの本心だ。
 バザークは、いい奴だ。
「クロルはお前には笑顔を見せるんだろ?」
 ホーバーは彼女の輝くような笑顔を思い出しながら、言った。
「その笑顔を引き出せるのは、バザークだからだ」
 この男ほど心根のきれいな人間を、ホーバーは他に知らない。
 クロルがバザークの側にいて、いつも笑顔でいるのだとしたら、それは心から楽しいと感じているからだ。バザークといることで居心地のよさを感じているからだ。それはそう、ホーバー自身が感じているのと同じように。
 ホーバーにはできない。クロルからあんな笑顔を引き出すことなど。
 だからバザークが本気で動くというなら、クロルが好きにならない方が不思議に思えた。
 いや、むしろそうなればいいとすら思う。
 ――そして、恐らくはそうなるだろうとすら。
 食堂でのクロルの奇妙な反応を思い出して目を伏せるホーバーを、バザークは逆に目を見開いて見つめた。
 そんな考え方があるなど、思ってもみなかったのだ。
 気まずさと気恥ずかしが同時に押し寄せてきて、バザークは言うべき台詞を失う。
 自分が、クロルから笑顔を引き出した?
 そんな言葉、信じることなどできない。そんな自信など持てるわけもない。
 だが、もし本当に、そんな考え方をしてもいいというのなら――。
 心の底にあった冷たい劣等感が、ゆっくりと溶けてゆくのを、バザークは感じた気がした。
 と、そのとき、不意にホーバが開き直ったように、後頭部をガリガリと掻きむしった。
「……第一、俺はよく分からないんだ」
 虚をつかれ、え、と首を傾げるバザークに、ホーバーもまた首を傾げる。
「邪魔する気も動く気もない、って、別に強がりとか意地で言ったわけじゃない。本当に……俺は、自分がクロルを好きなのかどうかすら、良く分からないんだ」
 その言葉に目を剥いたのは、バザークである。
「……は?」
「自分の気持ちを伝えろ、とか言ってたけど、俺には伝えるような言葉がない。だから邪魔することしかできなかった。……ごめん。それに気づいたから、邪魔するのもやめたんだ」
 バザークは緑の瞳をこれでもかと見開いて、堂々とそんなことを暴露するホーバーを見下ろした。
 そして一つの可能性にぶち当たる。
「……もしかして、お前」
 持ち上げた指がふるふると震えた。
「俺が言うまで、気づいてなかった? その……自分がクロルが好きだってこと」
「…………」
「……嘘だろ」
「……いや、今も良く分からないし」
「……嘘だろ!?」
「……いや」
「あんな、あんな……あんな目でクロルを見ておいて!?」
「ど、どんな目だ」
「あんな優しげな目で、え、え、何、俺、何した、嘘、俺、もしかしてやっちゃった!? 自分で最強の敵作っちゃった!? 嘘だろ!?」
 動揺のあまりにホーバーの肩を両手で揺さぶるバザーク。
 ホーバーは前後にぐらぐら揺れながら、眉根を寄せて考えこんだ。
「そりゃクロルには幸せになってほしいけどな……でもその相手が自分っていうのは考えたこともなかったな。むしろ俺じゃ無理だろ。想像つかないし、考えるだけで不気味な構図だ」
「うそん!」
 もはやパニック寸前のバザークである。
 だって、そんなホーバーが自分自身の思いに気づいていなかったなんて、だとしたら一体自分は何を悩み、何に劣等感を感じ、何をもってしてホーバーに勿体無いなどと──。
 と、意味もなくその場で回転するバザークを尻目に、ホーバーが何気なくつぶやいた。
「……相手が誰でも、クロルが幸せならそれでいい」
 ピタリ。
 バザークは謎の大回転を止めると、目をギラッと殺気立たせた。
「そ、の、目、だ、って言うんだよ、この激鈍男――!!」
 ボコッ!
「……は!? って、お前、また殴……!」
「うるさい! そんな、そん……というかそれをさっさと言えー!」
 ドカッ!
「だから最初から言ってるだろうが!」
 バキッ!
「いっ……て、あんなんで分かるか、口下手──!!」
 ケーッ。
 無人島に、殴りあう男二人の情けない悲鳴が響きわたる。
 すでに数度目の絶叫、しかも毎回、何だかんだと仲がよさそうな罵りあいに、海鳥もいい加減うんざり鳴くのだった。

 この時、二人はまだ気付いていなかった。
 クロルの様子が、どこか妙だということに。

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