眠る前のあの歌を…

06

 曇天から舞い降りた、白亜の鳥。
 手紙を足に巻きつけたそれは、欄干の上で軽やかに踊る。
 手紙に書かれた内容になど、まるで無頓着な様子で。
『バザーク?』
 手紙を握りしめ、賢明に堪えた涙は、柔らかなその呼び掛け、ただそれだけで堰を切ったように溢れだした。
『どうかしたのかい?』

 それがきっかけだったのだ。

「ピクニック日和だねぇ!」
 大きく手を振り上げて、クロルは踝までの下草の中を、軽い足取りで走った。
 顔は蒼い空を見上げ、光の当たった彼女の表情は、それ以上の輝きを放っている。踊るようにくるくると回る彼女に合わせて、下草がかさかさと音楽を奏でた。
「……可愛いなぁ」
 それを数歩後ろから見つめて、バザークはしみじみと呟いた。
「綺麗で色気があって、かっこよくて、でも可愛いのって、卑怯じゃない!?」
 疑問形でありながら、完全に独り言な問いかけを大空いっぱいに叫んで、バザークははぁ……と手を胸に押し抱く。
「あぁ! 愛しい僕の踊り子! 君はどこまでこの哀れな男の心を弾ませれば気が済むんだろう! 高鳴るこの熱い鼓動で、君は僕を笑って踊るのかい!?」
 途端、前方を行く二人がガチガチと歯を鳴らして震えはじめた。
「い、愛しい奴の踊り子。アイツをなんとかしろ」
「あ、あたしに言われてもねぇ。第一踊り子ってな、あんたのことかもしれないじゃないさ……あ、ごめん、自分で言っといて何だけど、すっごい気色悪いから前言撤回するよ……あいた! 何さ撤回したじゃないさ!」
「最初から言うな、アホかお前っ」
「アホだってぇえ!? あんただけにゃ、言われたかないねぇ!」
「い……──ってぇな!」
 ひそひそ話をだんだん本格的な口喧嘩に変えながら、クロルとホーバーの二人は朝食入りの籠でバキボコ殴りあいを始める。
 バザークはハッと我に返り、仲良さそうに騒いでる二人に気付いて、「あ!」と慌てた様子で頭を抱えた。
「しまった、オレとしたことが! ヘイヘイ、そこの君たち、ジェントルな僕を置いていかないでくれたまへ──っ」
「お前はたまには普通の言語喋れ!」
「一番のアホが決定したよ!」

 子供の遠足状態でたどりついた西岸の花園は、三方を断崖絶壁の切り立った岩山に囲われた、本当に小さな砂浜だった。貝殻を砕いたような真っ白な砂のあちこちに、緑豊かな草地が点在していて、その草地の一つ一つに、柵も何もなくただ思うままに色彩豊かな花々が芽吹いている。
 砂浜の向こうには碧い海が開けていて、海と岩山に守られた砂の花園は、童話に出てくるような優しい穏やかさに満ちていた。
「へぇ、すごいな」
 花には詳しくないホーバーの口からも、思わず素直な感想が洩れる。
 バザークは苦悩の呻き声を上げて、その場に崩れ落ちた。
「あぁ。秘密の花園初の感想を、クロルにでなくおまえに貰うなんて!」
「……すんません」
 花園見物に乱入したことが大人気ないことだったと自覚があるので、さすがに気が引けたのだろう、ホーバーは気まずげに口をもごもごさせて、素直に謝罪した。
「なぁんか変だねぇ?」
 膝をついてうな垂れるバザークの後頭部に、あら丁度良い物置場が、とばかりに籠をどすっと乗っけて、クロルはすすり泣くバザークと、その向こうで気まずげに立つホーバーとを見比べた。
「あんたら、なんか変だよ? ぎこちないというか、よそよそしいというか」
 ギクリ。
 物置状態のバザークと、置物状態のホーバーが同時に身を凍らせる。
「……や」
「……別に」
 口元を引きつらせて、ごもごもと弁解する二人を目を細めて見やり、クロルはふと笑みまじりの溜息を落として、ひょいっと籠を持ち上げた。
「なーにがあったか知らないけど、仲良くおしよ? にしても、本当、綺麗な花園だねぇ! 弁当作った甲斐があったよ。こりゃあたしの絶品な朝食が二割増しだっ」
 深入りせずに話題を転換したクロルは、籠を振り回しながら、白い砂浜を波打ち際へと歩いてゆく。形の良い足跡と一緒に残された二人は、互いの顔を見比べて、気まずげに口を歪ませた。
「……オレは普通に接してましたよ」
「……俺もしてましたよ」
「さっきから、あんまりおまえと目が合わないんだけど、気のせい?」
「距離置いて歩いてるくせに良く言う……」
「それはそっちだろ。クロルとばっか歩いてさ」
「お前もそうすりゃいいだろ」
「…………」
「…………」
 クロルに気付かれぬよう、口の動きを最小に、もごもごと惨めったらしく言い合う。だんだんと本当に惨めな気分になってきて、二人は同時に低く息を吐いた。
 海賊が巣喰らう無人島には、不釣合いなほど可憐な花園。ゆるく風が吹いて、砂浜についたクロルの足跡がさらりと消えてゆく。あちこちの草地に咲き乱れる花々が揺れ、ほのかに甘い香りがした。
 これでは、否応なく気分が落ち着いてしまう。
 バザークは膝についた草を手で払うと、世の女の子たちが頬を赤くする柔らかな物腰で立ち上がった。ずば抜けて長身というわけではないが、さほど背丈のないホーバーと比べれば、十分に高いその背。軽く伸びをして、バザークは波打ち際の草地で身をかがめて花を愛でているクロルを見つめた。
 透き通った緑の瞳はそのままに、バザークは口を開く。
「思いを伝える前に、勘付かれるのはごめんだ。それにこんなことでいがみ合うのも、かっこ悪くて嫌だね。……余計な心配もかけたくないし」
「……同感」
「んじゃ、ハイ、握手」
 やはり正面を向いたまま、左手を無造作にホーバーへと差し出す。ホーバーは苦笑して、子供みたいな仲直りの方法を茶化した。
「左手って、決闘の申し込みじゃなかったっけ」
「意味は同じ、だろ?」
 端整な顔を、バザークは悪戯っぽく笑わせる。
 そのとき、ホーバーの目にどこか深い色が過ぎったことを、バザークは気付くことが出来なかった。ホーバーはフンッと笑うと、差し出された掌に自分の掌を叩きつけた。
「──けど」
 だが笑い合ったのもつかの間、ホーバーは不意に笑いをかき消して、バザークを見据えた。
 仲直りした直後に剣呑とするホーバーを、バザークはきょとんと見下ろす。だが彼が言葉を発するより先に、ホーバーが先に問いを紡いでいた。
「さっきの”勿体無い”の意味だけは言え」
 バザークは思わず言葉を詰まらせた。
「俺をけしかけた理由、それに関係してるんだろ」
 嘘を赦さない貫くような蒼い眼差し。
 それを真っ直ぐに受け止め──
 受け止めておきながら、バザークは声をあげて笑った。
「馬鹿には教えてやらない」

「ん?」
 草地に座って花を愛でつつ、さっさと朝食をパクついていた、遠慮のない豪気の女クロルは、背後に賑やかな口論を聞いて、後ろを振り返った。
 見ると、バザークとホーバーが砂浜を蹴って、相手に砂をぶちかけつつ、口論しながらこちらへと歩いてくるところだった。
「ああでなくちゃ、ね」
 クロルはくすりと笑うと、朝食の包みを二人に放り投げた。

「それにしても秘密の花園だなんて。粋だよねぇ」
 草地に胡坐をかいて、花園を見回すクロルに、バザークは大仰な身振りで胸に手を当て目を伏せた。
「だろう、可憐な花の妖精さん? 最初にこの岩山に隠れた砂浜を見つけ出したのは、ファルなんだ。オレとテスが黄金の休暇で一緒で、そしたらテスが、じゃあここに花畑を作ろうって。彼女に自分が育てた花をあげたいんだとか」
「あはは! 夢見がちなテスらしい提案だね」
「それを聞いて、俺も夢を見たいと思ったのさ。花に抱かれた甘く薫る恋の夢をね……」
「ふーん」
「ファルもテスも、大切な誰かのために花を育ててる。言葉では伝えきれない思いを、可憐な花に変え、大切な人へと届けるんだ。臆病者な恋の徒の、秘密の花園、ってわけ」
 バザークは足元に咲く花に手を沿え、そっと茎を手折ると、淡黄の花をクロルへと差し出した。
「オレの花は……愛しいお嬢さん、貴女のために。クロル」
 クロルは笑いを堪えながら、冗談だと思っているのか、それとも本気にした上でなのか、あっさりと花を受け取った。
「詩的だこと」
 ムードぶち壊して、にやりと笑うクロル。予想はしていたが、前者らしい。
 バザークはキランッと顎に手を当て「詩人ですからネ」と返し、心深くに生まれてきた旋律を、ひそかに記憶の譜面に留めた。
 黄金の休暇は、残り三日。
 歌が完成したら、クロルに歌って聞かせる。
 だから今は本気にとって貰えずとも良い。
 心の底からの歌は、きっと花よりも真っ直ぐに、彼女の心に届くだろう。
 ──いや、届かせてみせる。
 ふと視線を走らせると、遠く離れた草地で親友が横たわっているのが目に入った。
 眠っているのだろうか、こちらを邪魔するでもなく、目を閉じている。
 バザークは微かに溜息を落とすと、空気をめいいっぱいに吸い込んで伸びをした。
 甘い花の香りと、潮っぽい海の香りとが、花園を複雑に包み込んでいた。

+++

 夕暮れの淡い茜色が、舵台に降り注ぐ。
 舵輪に身体を預け、紙と羽ペンを手に歌を口ずさんでいたバザークは、ゴロリと甲板の上に横になった。
 視界一面に、壮大な茜色の空が広がる。
 長く伸びた桃色の雲、家路へ急ぐ鳥の黒影、夕方の少しばかり涼しい風が寝そべったバザークの衣服をばたりとはためかせた。
「でーきた」
 ふわりと微笑んで、バザークは満足げに息をつく。
 手にしたままの紙きれには、完成した歌の歌詞が踊っている。

 五十人の船員がうろついてる時は、五日も会わない人間がいるほどの船内なのに、人気がなくなった途端、出会う確率が高くなるのは不思議だ。船内の広さはむしろ増しているというのに。
 夕陽の差し込む、茜色の食堂。
 厨房に一番近いテーブルの上に腰を下ろして、ぬるい水を片手に、紙束を捲っていたホーバーは、ふと視界の隅に人影がよぎるのに気が付いて、顔を上げた。
「お晩でーす」
「……お晩です」
 軽いノリで手を振って、クロルが食堂を斜めに横切って、こちらへと近づいてくる。
 無意識のうちに、ホーバーは目を逸らして、紙束に視線を落とした。
 クロルはホーバーの脇を通り過ぎると、そのまま厨房に入っていった。背中越しに、樽から水をコップに注ぐ音が聞こえてくる。どうやら水を飲みに来たらしい。
 そう思った途端、短く硝子の割れる音がした。驚いて振り返ると、厨房のカウンターの向こうで、クロルが「あちゃあ」と額に手を当てていた。
「大丈夫か?」
「いや、ごめん、手が滑って……コップ落としちまった」
 ホーバーは軽く身を乗り出し、カウンター向こうでしゃがみこむクロルに声を投げた。
「何やってんだか。いいよ、ほっとけ。後でバザークにでも片させとけ」
「……バザーク?」
 ホーバーの冗談まじりの制止を受けて、カウンターの陰になって姿の見えないクロルから、どこかぼんやりとした声が返ってくる。
「そう、だね。奴に任せるとするかね」
 奇妙な間を置いてから、クロルは床から立ち上がった。
 我知らず眉を寄せる自分に気がついて、ホーバーは溜息まじりに前髪を掻き回した。
「あ、この水、おくれ」
「え? ……ああ、どーぞ」
 厨房から戻ってきたクロルが、右脇に置いておいたコップを掴んで、ホーバーの側の椅子を引いた。座るなりテーブルにのべぇっと顎を乗せ、朝に近い深夜の酔っ払いみたいに、水をちびちびと飲み始める。
「夕方だってのに、暑いねぇ。ゆだっちまうよ。ホーバーは仕事かい?」
「ああ、ルイスが提案した例のやつを」
 ホーバーは問いに答えながら、肩越しにクロルを振り返って──唐突に言葉を詰まらせる。テーブルから身を起こしたクロルの顔が、振り返ったすぐ先、自分の背中のすぐ側ににあったのだ。
「……紙にまとめてもらったからそれを見てるところ」
 ホーバーは口早に最後まで言い切って、再び紙束に視線を落とした。
 だが文字を追っているつもりなのに、意識はまるで文字を認識していない。少しも内容が頭に入ってきていないことを自覚した途端、ホーバーはどうしようもなく動揺した。
 ──バザークのせいだ。
 普段は平気で側にいるくせ、意識をするとどうしてここまで、気恥ずかしいような、居心地悪いような気持ちになるのだろう。視線のせいか、クロルそのものが側にいるせいなのか、やけに背中に意識がいく。ただ隣にクロルがいるというだけで、わけもなく耳が熱くなる。
「……なんかやけに可愛くないかい? ホーバー」
 赤いのを誤魔化すため、さりげなく耳をうにうに指で揉み解していたら、クロルが唐突にそんなことを言い出した。
 可愛い。可愛い。可愛い?
「──は!?」
 三度心中で反芻して、ホーバーはすっとんきょうな声を上げて、クロルを振り返った。
「いやさ、ここ数日、なんか挙動が可愛いんだよねぇ。どうしたんだい? 憎まれっ子のあんたが」
「……お前、目、腐ってるだろ」
 心底、あきれ果てた様子で呟くホーバーににやりと笑って、クロルは耳を指でうにうにしたり、前髪をかき回したり、額を押さえたりと、ホーバーの物真似らしきものを始めた。
「そ、そんなことしてない!」
 焦るホーバーに、クロルはうひひひっと笑った。
「やってるって! とくに前髪かき回すの、癖だよね。困った時に良くやってるよ」
「そ──」
 そうだったろうか。
 眉根に皺を作って思い出そうとするが、勿論思い出せない。
「……クロルは、怒ってる時、腕を組むな。あと、照れてる時も組んでる」
「え? そうかい!? 良く知ってるね!」
「そりゃこっちの台詞……」
 クロルは驚きの顔を気恥ずかしげに笑せると、「そっかぁ、長い付き合いになるしねぇ」と椅子に背をもたれて、腕を組んだ。
「……何、怒ってんの」
「照れてんだよ!」

(は、入りにく!)
 クロルを探して、船内をうろついていたバザークは、食堂で笑い合っている二人を見つけ、ガビンッとせっかくの美形顔を歪ませた。
 丸窓から西日が差し込み、赤みを帯びた黄金にふわりと包まれた食堂。物影や、テーブルと椅子にそれぞれ座る二人の影が、床にゆらりと伸びて綺麗な陰影をつけている。囁きあうように低い声で、くすくすと笑い合う声は穏やかで──ものすごく良い雰囲気だった。
 バザークは目を伏せ、溜息を落とすと、食堂の入口の脇に背を預けた。
 花園での朝食もあって、煮詰まっていた最後の旋律がようやく生まれ、曲もどうにか完成した。というのに、一気に高揚していた気持ちが落ち込んでしまった。
 脱力感から、そのままずるずる座ってしまいそうになるのを堪え、彼は天井を見上げる。
『わざわざ人を煽っておいて、邪魔したら怒って……じゃあ何で煽ったのかと思えば、邪魔じゃなくて、攻めてほしいなんて……変だろ』
 不意に数時間前の親友の言葉が蘇ってきた。
 バザークは開いたままだった口をカチリと閉ざして、二人の笑い声を耳から追い出した。
 フェアじゃないと思った。それは本当だ。
 ──知らなかったのだ。まさか親友もクロルのことを見ていただなんて。
 知ってしまったら、もうどうしようもなかった。クロルを大事に思う気持ちと同時に、親友に対しての負い目が抑えようもなく芽生えた。
 時折、ふと誰も気付かぬほんの一瞬に、クロルを見つめるホーバーの蒼い瞳は、痛々しいほど真っ直ぐで、切なくなるほどに優しい。あの目があれほど実直でなければ、バザークとてわざわざお節介にも、相手を焚き付けるような真似はしなかった。
『余計なお世話だ。好きで動いてないだけだ』
 ホーバーは動くことを望んでいない。焚き付けるなど、お節介であるばかりか、相手にとっては迷惑甚だしい無用な気遣いでしかない。──分かっている。本当は彼の気持ちを尊重したかったのではない。ただ彼が動かないと、自分が罪悪感にがんじがらめになり、自由に動けないと思ったのだ。
 そんな自己満足なフェアだ。
 ――けれど、それは表向きの理由でしかないのかもしれない。
 たとえ同じ瞳を持っていたとしても、もしそれがホーバー以外の誰かだったなら、自分はわざわざ相手を焚きつけたりなどしたろうか。
『……勿体無い』
 きっと彼の親友は知らないだろう。
 自分がホーバーのことを、羨ましく思っているだなんて。
「はぁ」
 口を閉じた状態で天井を見ているのが結構しんどくて、顔を元に戻す。
 そしてそのまま元来た道へと戻りかけたバザークだったが、しばらくその場で躊躇の足踏みをした後、
「よし」
 歯を食いしばって、くるりと身体を反転させた。

 耳に心地よい、明朗な声が食堂に響き渡った。
 ホーバーは声の方を振りかえろうとして──ふと目を見張った。
 声に惹かれるように、入口へと顔を向けたクロル。夕暮れ時の薄暗がりで定かではない、だが少なくとも西日のせいではない。
 バザークを振り返ったクロルの頬が、わずかに紅潮して見えた。
「……うっしっし、丁度良いところに来たね? ゴミ拾いが待ってるよん、掃除夫さん」
「貴女の為なら、可憐な花を摘むように、ゴミとて拾って差し上げますよ、お嬢さん」
「ゴミとて、というか、ゴミを拾っておくれ」
 賑やかで楽しげな笑い声。打てば響くような言葉のやり取り。
 ホーバーはクロルの嬉しそうな笑顔から目を逸らすと、初めにそうしていたように、紙束に視線を落とした。
 微かに、諦めとも安堵ともつかぬ微笑を浮かべて。

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