隙間と覗くひと

 バックロー号の船首には、船員の誰もが「隙間」と呼び称する、奇妙な場所が存在する。船首に建てられた巨大な武器庫の裏壁と、船首先端の柵との間に空いた、狭い空間のことだ。
 別に何があるわけでもない。正真正銘ただの隙間であり、何かの用途があるわけでもない。
 だから、船員たちはこの空間のことを、ただ味気なく「隙間」と呼んでいた。
 だが、名前がつけられているということは、そこに「隙間」としての役割があるということだ。本当に必要のない場所には、そもそも名前をつけたりなどしない。
 隙間へと通じる道はない。入るには、高見台も兼ねている武器庫の屋根へとのぼり、柵を越えて、飛び降りるしかない。
 そしてそれこそが重要だった。
『隙間には注意を向けるべからず』 
 それは心に傷を持つ者たちの、暗黙の了解。
『隙間を覗くべからず』
 船という逃げ場のない閉鎖空間において、そこは唯一の避難場所。
『隙間で起きている出来事には、干渉するべからず』
 たとえそこから嗚咽が聞こえてきたって、

 知らぬふりを決めこむべし。

「船の上じゃ、一人になんてなれない」
 武器庫の影が落ちた隙間から、まだ幼い声が聞こえてくる。
 女は視線を水平線に向けたまま、うんともすんとも反応を返さない。
「だからここは船員みんなの、たったひとつきりの、一人になれる場所なんだよ!」
 少し苛立ったように、声が大きくなる。
「見ちゃいけないし、人の気配がしたら入ってきても駄目。そうしておけば、自分が一人になりたい時に、みんなも放っておいてくれるから……」
 とがめるような口調にも、女は黙々と潮風に髪をたなびかせていた。
「だからそこにいるのは、ルール違反なんだってば!」
 隙間に、膝を抱えて座っていた少年は、赤く腫らした目を頭上へと向けた。
 高見台も兼ねた武器庫の屋根、その周囲を囲った柵の上に、一人の女が腰かけていた。
 風にひるがえるのは、薄汚れた外套。
 焼けた肌を撫でるのは、ゆるく波打った紅蓮の髪。
 数ヶ月ほど前から、バックロー号に客人として乗船している旅人だ。
 ──彼女がそこにいること自体は、別に何の問題でもない。高見台は誰もに解放されているし、客人の彼女だってもちろん自由に登っていい。
 ただ問題なのは、彼女の座る柵の真下が、ちょうど「隙間」であるという点だった。
 隙間にうずくまる少年の右肩より、少し上で揺れる大きな靴裏。長旅のためか、ずいぶんと摩り減ったそれを睨みながら、少年は目尻をぐっと腕でこすった。
「……いちゃいけないんだよ」
 赤い髪の女は、足元から聞こえる小雀の鳴き声など気に止めた様子もなく、海を眺めている。少年は抱えた膝の上に顎を乗せ、溜息ひとつ、同じ光景に目を向けた。
 柵の向こうに広がるのは、果てぬ大海原と、無限の空。
 どこまでも続く蒼天には雲が流れ、それらは全て、渦を巻くように一つの終点へと向かっている。
 渦の中心、それは天の柱だ。
 海から生えた柱は、雲を貫き、天の頂きへと真っ直ぐ伸びている。見上げてみてもその果ては知れず、覗いてみてもその始まりは見えない。古代より存在するという天の柱は、雲を吸いこみながら、きらきらと光り輝いていた。
 それは少年ラギルニットが、大好きな光景だった。
 あの途方もなく壮大な景色を眺めていると、自分の悩みなんて吹き飛んでゆく気がする。雲と一緒に、悩みも吸いこんでくれる気がする。
 けれどその恩恵も、今は薄い。
「天の柱はほんとはすっごーく遠くにあるんだ。ここからもっともっともーっと航海を続けないと行けないぐらい、遠くにあるんだよ。ここからでも、小指の細さぐらいに見えるけど…本当は想像できないぐらい大きいんだって」
 ラギルニットは泣いていたことを誤魔化すように、一人で喋りはじめる。
「でも誰も柱の根っこにたどりついた人はいない。柱の周りはすごく荒れてて、渦が巻いてて、船じゃ近づけないんだ。…ていう噂だけど、渦が巻いているっていうのもただの噂なんだって。だって船は近づけないんだもん。渦じゃなくて滝かも。水しぶきを見た人がきっと渦だって言ってるんだろうけど、でも見てはいないんだ」
 少年の赤い瞳は、遠く柱の根元に思いを馳せるように、細められ、やがて再び涙を溢れさせた。
「行ってみたいなぁ、あそこに。みんなと。みんなと──」
 唇を引き結んで、ラギルニットは膝に顔を埋める。
 途端、こみ上げてきた涙が膝を濡らした。
「──船を下りて、港街の神殿にお願いして、そこで暮らせって言うんだ」
 ふわふわの黄金の髪が、小刻みに震える。
「それでみんなのことは忘れて、幸せになれって、そんなこと言うんだよ?」
 かすれた声で、さっきから耳の奥でわんわんと鳴りつづける台詞を口にする。
 船を下りろ。港街の神殿に行け。
 お願いすれば、きっと食事を何晩か与えてくれる。
 その間に、自分を引き取ってくれる人を探すんだ。
 そして俺たちのことは忘れろ。
 戻ってくるな、ラギルニット。
 幸せに……。
 部屋は明るいのに薄暗くて、集まった船員はみな泣きはらした顔で、繰りかえし繰りかえしそう呟いた。困惑して、ラギルニットは思わずホーバーの姿を探した。いつだって困っているラギルニットを、そっと助けてくれる人の姿を。
 ホーバーは自分からずっと離れた部屋の隅で、膝を抱えて座っていた。ちょうど今の自分みたいに、膝に顔を埋めて。
「幸せになれって言うんだ。みんながいない世界に行って、大好きなみんなのことを忘れろって言っておいて、幸せになれって……そう言うんだよ……っ?」
 胸が痛くて苦しくて、声がかすれて言葉にならない。
 けれど誰に言ってるわけでもないから、かすれてたって平気だ。ここは誰も入ってこない「隙間」だし、ルール違反で足だけ隙間に侵入している上の人は、自分の事なんかまるで気にしてない。だから声になってなくたってかまわない。
 頭上で靴裏が、船の動きに合わせてぶらぶら揺れている。きっと、いつも女が連れている鴉だろう、女の後ろからカツッカツッという、嘴音だか足音だかが聞こえてくる。
 風を孕んだ帆は重たい音を立て、船首から見える海面は、見る間に後方へと流れてゆき──首を乱暴にふって涙を散らすと、ラギルニットはふたたび頭上の女を見上げた。
 赤い髪の女は、相変わらず彼方の水平線を見つめ、無表情に口を引き結んでいた。

 ラギルニットがバックロー号に乗船したのは、つい一週間前のことだ。
 それまでは無人島で暮らし、海からやってくる仲間に交代で育てられていたのだが、ある日突然、見知らぬ男がやって来て、「水夫になれ」と言った。
 後でわかったことだが、それはバクスクラッシャーの船長ハーロンだった。
 無人島での大自然に囲まれた生活も大好きだったけれど、ラギルニットはたまにしか会えないみんなと、ずっと一緒にいられるようになるのが嬉しくて、喜んで小船に乗りこんだ。
 お気に入りの服や望遠鏡や、大切なものは全部持った。小さい時から過ごしてきた小屋にさよならを言った。砂粒の一つ一つを、風のざわめきの一声一声を、全てを心に刻んで、意気揚々と小船に乗りこんだ。
 ゆらゆら揺れて、ゆっくり進む小船の上。逸る心を抑えられず、ラギルニットはくすくすと笑い声をこぼす。
 自分を交代で育ててくれる彼らが、普通の船乗りではなくて、海賊であることは知っていた。けれど彼らが船の上ではどんな生活をしているのか、全く知らなかった。話を聞こうとすると、いつも言葉を濁して、彼らは曖昧に笑うだけだったから。
 小船はやがて、水面のあちこちから岩礁が突き出した海域まで出た。
 ゴツゴツした無数の岩山の間に現れたのは、四艘もの帆船だ。
 一つは、巨大帆船バックロー号。
 その両脇に停まっているのは、少し小さな二隻の帆船。
 そしてその正面に、ぼろぼろに壊れた一隻の大型貨物帆船。
『船、壊れてるの?』
 きょとんとするラギルニットに、ハーロンは答えない。
 彼は半壊した帆船の真下まで来ると、船壁から下がっていた梯子を上らせ、少年を甲板に連れて行った。
 高鳴っていた心臓は、そこで止まった。
 そして急激に、重く、重く、脈打ちはじめる。
 甲板は、ぬめりを帯びた黒い血で鈍く輝いていた。
 足を持ち上げてみると、靴裏から、血が糸を引いた。
 赤い甲板には、折り重なるように転がる、無数の死体。
 そして見知らぬ男たちと、見慣れた、仲間たち。
 仲間たちは、血まみれの死体を担いでいた。
 彼らはラギルニットに気づいて──時を止めた。
 長い長い沈黙の後、つんざくような悲鳴が、ラギルニットの肩を震わせた。
 驚いて見回すと、甲板のずっと向こうで立ち尽くした女船員の姿が目に入った。いつも明るい笑顔をくれていた彼女は、目を剥いてラギルを凝視し、言葉にならない悲鳴を上げつづけた。
 何故?何故ここにいるの!?誰があの子をここへ連れてきたの!?そう絶叫して、激しく髪を振り乱し、血の甲板にばしゃりと膝を落とす。まるでつられたように、他の船員たちもまた、次々とその場にへたりこんだ。ある者は狂ったような悲鳴をあげ、ある者は憎しみと呪いの言葉とともに甲板へ拳をくれ、そしてある者は呆然と言葉を失う。
 身を凍らせるような絶望に満ちた光景に、ラギルニットは、ただ凍りつくことしかできなかった。
『ラギル……?』
 すぐ側で声がした。振りかえると、無人島でいつだって穏やかにラギルを見守っていてくれたホーバーが、真っ青な顔で愕然と立ち尽くしていた。
『ハーロン、何故』
 光のない目を自分の傍らに立つ船長に向け、ホーバーはぽつりと言葉を落とした。
 ハーロン船長は、泣き崩れる船員たちの間で笑う男たちを見回すと、表情のない顔で呟いた。
『昨日、水夫が一人死んだ。補充の必要があったからそうした。いつかそうする可能性を、考えてはいなかったのか?』
 笑っていた男たちは、手近で泣き伏す船員を蹴飛ばすと、あちこちに転がる死体を指差して、さっさと片付けろと命令した。
 その時、初めてラギルニットはバクスクラッシャーの裏に隠されたものを知ったのだ。

 あの悪夢のような赤い光景から、意識は再び頭上の女に引き戻される。
 彼女の赤い髪から、あの血塗れた甲板を思い出してしまったようだ。
 熱帯のタネキア大陸から航路を北に向けているためだろう、少し潮風がひんやりとしてきて、涙に濡れた膝が冷たく感じられた。
「同じ赤でも、姉ちゃんの髪の色の方が、ずっとずっときれい」
 ラギルニットがここに来る以前より、バックロー号に居候しているという謎の客人は、そこで初めて視線をラギルニットに落とした。小石の詰まった靴裏の向こうで、無表情な彼女の眼差しが静かに細められる。
「炎、みたいだよね」
 振りかえってくれたことが嬉しくて、ラギルニットは強張っていた顔を努力して笑わせた。炎と称した彼女の髪よりも、少しばかり明るい色をした少年の赤い瞳に、客人の日に焼け、埃に汚れた顔が映る。
 その無表情さは少しも変わりはしなかったけれど、不思議と何かを語りかけられている気がして、ラギルニットはうなずいた。
「うん、おれと同じ色」
 あの日の甲板と、同じ色。
 あの日のみんなと、同じ色。
 けれどそれよりも、ずっと綺麗な──血なんかよりも炎に似ていて、ラギルニットの心は不思議と熱を持ったように温かくなっていった。
「みんな、炎で燃やしつくせたらいいのに」
 彼らの背負う血色の呵責など、自分の炎で無に返せてしまえばいいのに。
 
 船を下りろ。
 戻ってくるな。
 自分たちを忘れて、そして幸せに…。

 女の眼差しを見つめながら、ラギルニットは魅入られたように目を細めた。
「…………」
 カツッカツッと、彼女の腰かけた柵の向こうから、相変わらず鴉の音が聞こえてくる。
 女は振りかえらない。
 ラギルも視線を移さない。
 渋緑の眼差しが、少年の赤い瞳と、静かに交わり──

 カツ、カツン……ッ。

「──?」
 不意に視界に黒いものが飛びこんできた。
 止まっていたような意識が現実に戻り、少年は驚いてそちらに目を向けた。
 柵の合間から黒い嘴が、次に琥珀色の目をした鴉の顔が現れた。
「……こんにちは」
 声をかけると、鴉はラギルを目で捉え、ぺこっと首を垂れた。挨拶を返してくれたんだと思って、ラギルは小さく手を振る。しかし鴉は、「違う!」とばかりに首を振ると、ギガーッと一声鳴いて、口にくわえていた何かを隙間に落とした。
 カツンッと音をたてて、すぐ足元に落ちる。
 日差しを浴びて、それはチカリと赤紫色の輝きを放った。
「……?」
 拾ってみると、それは小さな小さな丸い石だった。
 丁寧に磨かれていて、触れると滑らかな感触が心地よい。掲げて日に透かすと、透明な赤紫色の向こうに、金色の針が細く伸びているのが見えた。
 ピアスだ。
「……これ」
 見覚えのあるものだった。
 そうだ、無人島に来る仲間たちが、いつも耳に輝かせていたあのピアスだ。
 親指と人差し指の間に挟んだ玉を、不思議そうにもてあそぶ。どうしてこれがここにあるのだろう。何故鴉がくわえていたのだろう。
 ラギルニットは顔を持ちあげた。
 靴裏の向こうには、相変わらずこちらを見下ろす、無表情な女の顔。
 ラギルは幾度か瞬きし、顔をめぐらせ、大海原の向こうに見える天の柱を見つめた。

 小さな掌が、不意にぎゅっと、ピアスを握りしめた。

「……いつも、いいなって思ってたんだ」
 彼らの耳に付けられた同じピアスは、固い絆の証みたいで。
「欲しいって思ってた」
 けれど彼らは決してくれなかった。今なら尚更くれないだろう。
 彼らの思いは分かってる。彼らはラギルニットに幸せになって欲しいと願っている。そして彼らといる限り、その幸せはラギルニットの手をすり抜けてゆくだろうと、そう思っている。
 だから決してくれないのだ。ラギルが欲しくて欲しくてたまらなかった、固い絆の証を。
 自由を戒める、このピアスを。
「ねぇ、これ、カラスさんが、いま、落っことしたんだよね?」
 ラギルニットは拳を握ったまま、天の柱から客人へと視線を戻した。客人は相変わらず無言だったが、かわりに鴉がガァッと鳴いた。
 ラギルは頬を紅潮させ、口早に言葉をつむぐ。
「ねぇ、さっき言ったこと覚えてる?おれが隙間の話をしたの、覚えてる?」
 客人は答えない。鴉は飽きたらしく、再び柵の向こうに戻ってカツカツと音を立てはじめる。
 ラギルニットは赤く腫れた目をにんっと笑わせると、さっきの「隙間の話」を思い切り短縮して繰りかえした。
「隙間で起きることには、一切口出すべからず!」
 一声叫ぶなり、ラギルニットは自分の左耳をぐいっと引っ張ると、耳たぶにあのピアスをプスッと突き刺した。
「……っくっはぁ!」
 痛みに一瞬凍りついたラギルニットだったが、それでも強引にピアスを埋めこむと、ようやくその手を離した。
 そして遥か遠い海にそびえる天の柱めがけて、ウガァッと怪獣のように吼える。
「姉ちゃんとカラスはルール違反でそこにいるんだから、これ、内緒だからね!」
 バッと靴裏の向こうの顔を見上げて、ラギルニットは満面に輝く笑顔を太陽に照らし、大きく声を張りあげた。
「みんなにも、誰にも、おれがここで決めたこと、口出しさせないんだから!」
 決意に満ちた笑顔を見下ろし、隙間の覗き人は、やはり無言のまま海原へと視線を戻す。
 まるで隙間のことなど、何も見ていなかったような顔で。
 あの日の血色が、風になびく。
 浄化の炎が、大気を焦がす。

 ラギルニットの耳たぶに、赤紫色が輝いた。

+++

 数分後、背後の甲板に小さな足音が走ってゆくのが聞こえた。
 ──おれはこの船の水夫になるぞー!
 直後、聞こえてくるのは、そんな叫び声。
 そのさらに一瞬後、「だめだぁあ!」という怒声と、「だめ! 隙間で決めたことだから、口出し禁物―!」という声が聞こえてきて、それとほぼ同時に、すぐ真後ろで小さな呟きが零れた。
「ヘリクツだ」
 女はゆっくりと、足元を振りかえる。
 隙間からはちょうど、女の外套が邪魔になって見えなかった位置に、ホーバーが座っていた。
 後ろ手についた指の間に、嘴を突き刺して遊んでいる鴉を追っ払いながら──時どき失敗して指をつつくのだ――、彼はぼんやりと甲板を見つめている。
 女は、そんな青年の右耳へと目をやった。
 その耳たぶにあるのは、いつものピアスでなく、小さな窪みだけ。
 甲板では相変わらず、船員たちに囲まれながらも、少年が必死の主張を続けている。言っている言葉は、「口出し禁止」の一点張りだったが。
 ホーバーはかすかに笑い、笑いながら悔いるように顔を歪める。しかしそれもつかの間、すぐにいつもの顔に戻ると、彼は客人を振りかえった。
 獲物を逃して不機嫌そうな鴉に、赤毛をぐいぐい引っ張られながら、無表情に彼を見つめる客人。その顔が、まるで「口出ししてよかったのか」と言いたげだったので、ホーバーは少し考えてから、ふと笑った。
「オンボロの船だから」
 隙間風が吹くんだ、と答え、彼は階段へと向かって歩きだす。
 女はゆっくりと蒼い空を見上げ、眩しさに目を細めた。

 その後、隙間には、ラギルニットの乗船決意を嘆く船員たちが詰めかけ、順番待ちの列が出来ることになるのだが、それは少年の固い決意に打つ手がなくなるまでの話。
 そして赤い髪をなびかせた奇妙な客人の手助けのもと、ラギルニットが船員の解放を求め、ハーロン船長に反旗を翻すのは、さらに、その後の話である。

おわり

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