KEY of the WILL

「うーん……」
 ラギルニットは突き出した口の上に羽ペンを乗せて、困りはてて唸った。
 昼時の船長室は随分と暑かった。船尾側にある大きな窓から、遮るものの何もない海の陽射しが入り込むのだ。最も、航海の大半は常夏の大陸タネキアの海域なため、船員にとってはこの程度の暑さなど慣れっこなのだが。
 ラギルニットは頬杖をつきながら、足をぷらぷらと宙で泳がせる。
 窓下にどっしりと置かれた、彼のような子供から見ると随分と大きな作戦机。それに添えられた豪奢な造りの椅子──通称『船長の椅子』に、彼はちょこんと座っていた。何故かといえば、船長だからである。
 船長室は他の船室に比べると、いくらか広い。壁際には綺麗な細工のある棚が幾つも置かれ、本やら書類やらが適当に放り込まれている。この辺のものを片付けるのは基本的に副船長の仕事だが、副船長は見た目を裏切り案外ずぼらなので、これらの棚が整っているところは見たことがなかった。
 巨大な世界地図と海図が貼られた壁の下にある棚に、ラギルニットはちらりと真紅の瞳を向ける。
 一見何の変哲もない棚だ。大人の腰ほどの高さがあり、六段に区切られて本や航海に必要な道具が並べられている。棚の中央、三段目と四段目に跨って、開き戸の付いた小さな物入れがある。
 その物入れが異彩を放っていた。
 開き戸にいくつもかけられた、頑強な鍵。
 戸板の表面に深く彫られた、奇怪な模様──それは蔓に絡めとられた十字架を図案化したものに見える。
「……参考にしちゃだめ?」
 ラギルニットのどこかおねだり気味の声音に、寝棚の一段目に寝転がって、本を読んでいたホーバーが顔を上げた。
「ダメ」
「ケーチ!」
 あっさり返ってきた予想通りの答えに、ラギルニットは頬をぷくりと膨らませた。
 ホーバーはラギルニットの拗ねた様子など目にも留めず、分厚い赤皮の表紙をした本に視線を戻した。ゲルドニー=コーラス著『イリューザ探検記』、ここ数年世間を騒がせている本だ、今相当良いところなのである。
 ラギルニットは唇かみかみ、頬っぺたぷくぷく、いかにも不機嫌ですという顔をしばらくしていたが、ホーバーがまったく反応を示さないので、諦めて再び足をぷらぷらさせ始めた。
「うー、そっかぁ。イリューザ大陸なんて面白そうかなぁ……」
「……やめろラギル。俺はこんな物騒な地で迷子になるのは御免だぞ」
 ホーバーがイリューザ大陸という単語に敏感に反応して、ラギルニットを苦い顔で振り返った。ラギルニットはにんまりと笑って椅子から飛び下り、とたとたと部屋を横切ると、ホーバーの隣に飛び込んで寝転がった。
「なになに!? ぶっそーなの!?」
 すぐさまお気に入りの枕を腕の中に抱えて、ラギルニットはずるずると匍匐前進をして、ホーバーの肩に自分の肩をくっつけた。
「話して! イリューザ大陸の話して! どういう風にぶっそうなの?」
 ウキウキと脇から本を覗き込むラギルニット。
「……それはな」
 ホーバーがパタンッと本を閉じた。
「こんな風にだぁぁぁ───っっ」
「きゃ──────っっ」
 唐突に圧し掛かってきたホーバーが脇の下をくすぐってきたので、ラギルニットは身を捩って笑い転げた。
「脱線しないで、書けー!」
 耳元で思い切り叫ばれて、ラギルニットは爆笑しながらホーバーの魔の手から逃れ、わたわたと船長の椅子に駆け戻って座りなおした。
「あぁ、おかしかったぁ! ホーバー世界一のくすぐり師になれるよー!」
「結構です」
「うははははっ! おっかしいのホーバーってば!」
 ラギルニットはケタケタと笑いながら、再び羽ペンを手にとった。先ほどペン先に付けたインクはすっかり乾き、液体に独特の光沢は失われていた。
「……うーん」
 ぷらぷらぷらぷら。
 良く焼けた両手十本の小さな指が、頬杖で支えた頬をピアノでも弾くように叩いてゆく。
「本人に訊きにいくならいいよ」
 心底困り果てた様子のラギルニットを見かね、ホーバーが視線はイリューザ大陸の不可思議な世界に落としたまま、さりげなく助言をした。
 ラギルニットがパッと愛らしい顔を上げる。
「いいの!?」
「無理には訊くなよ。訊いてみて、教えてくれるようなら、参考にしてごらん」
「うん!」
 無愛想だが優しい声音に心を浮かせ、ラギルニットは椅子から飛び下りた。


「え? どこにしたかって?」
 ルイスは舵輪に手を掛けたまま、足元で頭を仰け反らせるラギルニット船長に首を傾げた。北方の雪風を思わせる銀色の髪が、動作に合わせてふわりと揺れる。
「決まらなくて困ってるんだ。参考にきかせて」
 舵台から見下ろせる、甲板上の帆手たちの動きを見ながら、ルイスはわずかに舵輪を傾ける。しばらく彼は「うーん」と悩み──正確には悩んでいるふりをし、やがてちらりと横目でラギルニットを見下ろした。
「誰にも言わないって、約束できる?」
「もちろんだよ!」
「……ほんとかなー」
「ほんとだよー! おれ嘘つくとき、まばたきの回数がふえるんだって! 今ふえてないよ」
 ルイスはぷっと吹き出して、楽しげに幾度かうなずいた。
「そ? じゃ、信頼して教えてやる。……ダヴィスカー大洋のど真ん中さ。あそこには友人がいるからね。酒二瓶も一緒にと書いといた」

「ああ、あの下らない話か」
 バックロー号の二層目の廊下を闊歩していたレナは、その早足を止めることなくラギルニットの問いかけに鼻を鳴らした。相当速い足取りだが、身軽なラギルニットはしっかりと彼女の横をキープする。
「レナには、あれってくだらない?」
 元海軍であるレナは、何かと海賊バクスクラッシャーのやり方を否定する。レナ自身が例え「これは良い案だ」と思っても、それを考えたのがバクスクラッシャーの人間である限り、何が何でも否定しようとする。──今の発言もいつもの反発なだけなのだが、ラギルニットは言葉通りに受け取り、素直にそう聞き返した。
「……いや、その」
 レナは額の上だけ赤く染まっている黒髪を手で掻き回し、ラギルニットの素直さと自分の意地から来る非素直さを比べて、焼けた頬をわずかに赤らめた。ぴたっと足を止めて、小さなラギルニットにぼそっと耳打ちをする。
「バクス帝国だ。あそこは曲がりなりにも私の故郷だからな」

「ふふふふふふ……愚民ばかりの世の中で、ただ一人の希望の光ラギルニットではないか……」
 不意に声がして、前方の暗がりから、ピンクの色眼鏡をちょこんと鼻に乗せた、狂科学者バージョンのメルが何か大きな筒を担いで歩いてきた。
「あ、メル。あのさ訊きたいんだけどね」
 腰を屈めてくれたメルにこそっと耳打ちすると、メルは顎にピンクに爪を塗った指を当て、ふむ、とどこか遠くを見た。
「教えてやりたいところだが、私は特にあれには思い入れがない。小生のそのようなどうでもよいものなど参考にしても、ためになるまいから、教えぬことにしよう……」

「あれっスか!」
 トンテンカンカン!
 先日、船内の某狂科学者が実験途中に開けてしまった廊下の壁の穴を、釘とトンカチと板とで修理しながら、シャークが声を張り上げる。釘を打つ腕の動きに合わせて、鼻の上に乗せた丸眼鏡が飛び跳ねる様子が面白い。
 一緒になってぴょんぴょんと飛び跳ねていたラギルニットは、こっくりとうなずいた。
 シャークは釘を板の中に埋め終えると、ふぅと一息ついて、腰を伸ばした。
 そしてラギルニットを振り返り、ニッと歯を見せて笑う。
「じゃんけんで勝ったら、教えてあげるっス」
「えええ!」
 ラギルニットは目を丸くしながらも、すぐに乗り気になり、力を込めて拳を背後に作った。シャークが何のつもりか、片足を掲げて両手を鳥の翼のように広げた。
『じゃーんけーんっ』
 ぽんっ!
「うわぁあ!」
「うしししし!」
 ラギルは大きく広げた小さな掌で、悔しそうに頭を抱えた。シャークは目を糸のように細め、出したチョキでピースをした。
「実はなかなかロマンチックなんスよ~! 恥ずかしくってそうそう言えないっス!」
 シャークはラギルニットの頭をぽんぽんと叩きながら、顔を赤くして、ぽりぽりと薄茶の短髪を掻いた。
 その薄茶の目の中には、憧憬の色が宿っていた。

「誰が教えるか死ねバカ雀の脳味噌が! 少なくともてめぇの近くじゃねぇのは確実だ!」
 セインは煙草の煙とともに吐き捨てて、ラギルニットを一蹴した。

「あっらーん、ラギル船長ったら、もうあれ書いてるのねぇ!」
 ドレッドな黒髪を頭のてっぺんで結んだ──まるで歩くパイナップルのようなローズおじさんは、ラギルニットの質問を聞くなり、いつものおかま言葉ではしゃいだ。
「うん、困ってるんだぁ。みんなのやつ、参考にさせてもらおうと思って……」
 少々太めの体格を揺らしながら、ローズは大げさな動作で「うーむ」と考え込む。
「あたしも迷った、よっく覚えてる。でも参考にゃならんと思うわよん?」
 それでもいいとラギルニットが首を振ると、ローズはその場を行ったり来たりして考え込み、やがてさっと青ざめ、絶句した。
「あらやだ。……何て書いたっけ」
 ローズは忘れっぽい男だった。

「……え?」
「あ?」
 レティクとワッセルはラギルニットの問いに一瞬きょとんとし、互いの顔を見合わせた。数秒経ってから、ワッセルが「ああ!」と上に向けた左掌に右拳を打ち付ける。
「そうか、ラギルもあれ書くのか」
「……ああ、あれ」
 ワッセルの完全に指示語の思い当たりを聞くなり、何故かレティクも理解した。さすがは幼なじみかつ親友、調味料のたくさん並んだテーブルを指さし、「あれとって」で「塩ですね」と分かるのだろう。
 二人はお互い眼帯をつけた目の方に首を傾げ、ふと互いの顔を見合い、険悪に目を細めた。
『こいつの前では教えない』
 声が重なった。二人はギンッとにらみ合い、「何と言った?」「別に何も」と顔を付き合わせる。
 ラギルニットは鳥肌の立ちそうな空気の中を、そそくさと逃げ出した。


 ふぅ……。
 ラギルニットは歩きながら溜め息を落とす。出会う仲間一人一人に尋ねてみたが、質問に答えてくれる人数がそもそも少なく、答えてくれた人の回答もラギルニットにはあまり参考にならなかった。
 ピンと来ない。もっとこう、何というか、漠然と何かがあるのだが、それが言葉にならない。──あと少しで何か思いつきそうなのに……。
「困ったなぁ」
 ラギルニットは頭の後ろで手を組んで、もう一度溜め息をついた。
 その時だった。
「ラギル殿~!」
 廊下の隅からラギルニットを発見した視力大草原人のウグドが、修行僧のような苦渋に満ちた顔でダダダーッと猛スピードで駆けて来た。
「あ。ウグドだぁ!」
 にぱっと笑うラギルニットを、ウグドは大きく手を広げてグワァバ~ッと抱きしめた。
「相変わらず、可愛いですなぁ! 何て罪なのでありましょうか、この愛らしさ!」
 スーリスリスリスリ!
 ラギルに頬擦りするために、毎日毎時間欠かさずに髭剃りをするウグドの頬を、豪胆にも嬉しそうにスリスリし返して、ラギルニットは「あ、そうだ、ウグドにも」と彼の耳元に口を近づけた。
「ねぇねぇウグド、ウグドはさ……」
 コソコソコソリ。
「……は、どこにした?」
 誰もいない廊下ではあるが、その両脇に並ぶ船室の扉の向こうには、休憩中の船員たちがわんさかと控えている。耳打ちするのは、単なる気分のためでもない。
 ウグドは耳打ちされた内容を「う~ぬ」と唸りながら吟味し、しばらく無表情にラギルの顔の前あたりの虚空を見つめた後、
 ぽ。
 頬を赤らめた。
「……ラギル殿、迷惑でなければ、一緒に…どうですかな?」
 赤い頬のまま、真顔でじりじりと迫ってくるウグドを本能的に避けながら、ラギルニットはハッとして天井を見やった。
「……そっかぁ! 分かった!」

「おかえり」
 船長室に戻ったラギルニットを、相変わらず寝棚で本を読んでいるホーバーが出迎える。ふと顔を上げた彼は、ラギルニットの顔に楽しげな表情が浮かんでいるのを見てとり、穏やかに微笑した。
「良い案が浮かんだみたいだな」
 ラギルニットはにっこりと満面の笑顔を浮かべて、こっくしとしっかり頷いた。
 そしてそのまま船長室の扉を閉めて、とことこと部屋を横切って、寝棚の脇、ホーバーの顔の脇にしゃがみこんだ。
「ん?」
 北海の海を思わせる蒼い瞳を、赤い表紙の幻想世界に向けたまま、ホーバーは頬杖の上で小さく首を傾げた。ラギルニットはそれを真似るように首を傾げる。
「ホーバーは?」
 ホーバーが長い指先で頁を繰る。
「何が?」
「どこにしたの?」
 ホーバーは横目でラギルニットを見つめる。
「ラギルは?」
 ラギルニットはしばらくきょとんとして、やがて何か理解したように小さく笑い声を零した。
「そっか」
 小さな人差し指を口元に充てる。
「だね?」
 ホーバーは目を細めて、ラギルニットの真似をして頷いた。
「時が来るまで、分かる必要のないことだ」
「うん」
 二人はくすくすと笑い合った。

「さあて! おれも早く書いちゃおーっと」

 ラギルニットは船長の椅子に腰掛け、羽ペンを手にとりインクに浸した。そしてお手本を見ながら、潮で黄ばんだ紙に自分の中では一番うまい字を連ねていった。
 ホーバーは本を静かに閉じ、枕もとにそっと置く。用意しておいた三本の太い鍵を懐から取り出し、寝棚から立ち上がった。
 ラギルニットは書き終えた紙を丁寧に四つ折りし、簡素な封筒に入れ、赤い蝋と髑髏の刻印で厳重に封をした。
 蔦に絡め取られた十字の扉、幾つもかけられた錠に、ホーバーは鍵をさしこむ。
 歪んだ音をたてて開かれた、滅多に光を浴びないその扉の中には、幾枚もの封筒が重ねられていた。
 ホーバーが振り返り、ラギルニットに手を差し出す。
 ラギルニットは封筒を、手渡した。

 蔦絡め取る十字の扉が閉ざされる。
 三つの錠に三つの鍵がさしこまれる。


『これ、我の決意の証なり。
 海賊たる決意、バクスクラッシャーの船員たる決意、汝らの仲間たる決意。
 時が来たならば、同じ誓約を交わせし汝らは、命に代えてもこれを守るべし。

 我の望む永久の眠りの地は……、

 おれの死体は燃やして灰にして、みんなの人数分だけ分けてください。
 そして受け取ったそれは、みんなそれぞれの好きにしてね!

 残されし者、必ずこれ守るべし。
 たとえそれがいかなる場所であろうと、命に代えても必ず叶えるべし。
 これは誓約。
 互いの遺言を守ること、それは即ち命を賭けた、絆なり。』


 五十一人目の誓いは、今、秘密と沈黙と護りの鍵によって封じられた。
 その扉は、彼らが永久の眠りにつくその時に、
 ただ一度だけ、開かれるのである。

──ガチャ……。


おわり

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