不快な羽音

 僕は、いらない子ですか?

 耳元で、虫の羽音がする。
 耳障りだ。鼓膜を直接、指でなぞられたような、怖気の走る感触。
 不愉快で耳を塞ぐのに、その隙間を縫うように、羽音がまた聞こえてくる。
「やめて」
 フェルカは両耳を小さな掌で塞いだ。
 寝棚の上でぎゅっと身を丸めた途端、船が大きく揺れて壁に頭がぶつかった。その反動で耳から手が離れて、またひときわ、羽音がひどくなる。
「いやだ……っ」
 フェルカは歯を食いしばって、小刻みに震える体をきつく丸めた。まるで自分自身で、自分の体を潰そうとするかのように、きつく、きつく。
 ――何故こんなにうるさいのだろう。
 フェルカは唇を噛みしめる。
 ――振り返ってみると、見えないぐらいに小さな虫なんだ。
 いつもそうだ、鼓膜を震わせる羽音はこんなにも大きいのに、虫自体は驚くほど小さい。
 それがまた不愉快だった。
 ――小さいくせに。僕と同じぐらい小さいくせに。
 ――そんなに大きな声で鳴くな。
 凶暴な感情がこみ上げてきて、フェルカは細めた目の縁に涙を滲ませた。
 何もかもを壊したくなる。揺れ続けるこの寝棚も、軋んだ音をたてる船壁も。
 飛んでいるあの小さな虫の羽をむしりとって、地に這わせてやりたい。
 沸きあがる衝動的な欲求に、フェルカは心の底から恐怖した。今は必死で抑え込んでいる凶暴な気持ちが、いつか塞いだ耳からも溢れ出しそうで、怖くてたまらない。羽虫のような小さなものに、残酷な仕打ちを考える自分が信じられなかった。
 そんなつもりはないのに。そんな酷いこと、考えたくもないのに。
 ただ、湧き上がって来る。

 今よりもずっと幼い、きっとようやく歩き始めて間もない頃のことだ。
 その日は、奇妙な天気だった。
 朝は雲ひとつない晴れ空だったのに、昼を過ぎた頃、突然の雨雲が空を覆い隠した。空気は、雨を予感させる土の匂いを含んだ湿り気を帯びはじめていた。だが、降りだすにはまだ間があるようで、太陽の残光が雨雲に反射し、地上は不思議と明るかった。
 家の庭先にいた。
 木陰の椅子に腰を下ろした母。その背後には父が立っている。
 彼らは、まだ歩き始めたばかりの我が子が、柔らかく刈られた芝生の上をまろびつつ歩くさまを、愛しげに見つめていた。
 赤ん坊が幼い両腕を空に向けて伸ばした。
 心もとない足取りで前進しながら、虚空に両腕を差し出し、無邪気に笑った。
 羽虫がいたのだ。
 雨をいち早く察知した無数の羽虫が、下草から空へと舞い上がり、雨宿りの場所を求めて庭を舞っていた。
 くるり。小さな羽虫を追って、赤ん坊は丸々とした体を回転させた。
 あっけなく転んでも、きゃっきゃと笑って、また立ち上がって、くるり。
 羽虫を追って、くるり。くるり。
 両手を空に広げて。笑顔で、曇り空を見上げて。
 奇妙に明るい庭先で、雨の気配から逃げ惑う羽虫を追って、踊るように、また。
 やがて、空からキラキラしたものが降ってきた。
 雲に反射した陽光を受けて、黄金色にまたたく何かが降ってくる。
 まるで星屑が降ってきたようだ。赤ん坊がくるりと踊るたびに、世界が光輝いてゆく。
 きれいだった。とてもきれいで、幸せだった。
 なのに、悲鳴が聞こえた。
 気の動転した震えた悲鳴、綺麗な庭にはまるで似合わない、母親の狂ったような泣き声。
 赤ん坊だった自分は、きょとんとしただろうか、それともまだ踊っていただろうか。

 足元には、無数の羽虫の死骸が落ちていた。

 精霊の血を引く者は、侮蔑され、忌み嫌われる。
 開けていた無限の可能性を持つ未来は、固く門扉を閉ざした。
 扉を前に、闇の中でたたずむ小さな子供には、誰も救いの手を差し伸べない。
 ただ、気色悪そうに目を細めて、背中に鋭い刃のような言葉をぶつける。
 忌々しい精霊の仔。何故あんなモノが生まれてきたのか、と。
 身体から溢れる力を制御できずに、笑いながら羽虫を殺してみせた。降ってくる虫の死骸を身に受けて、幸せそうに踊ってみせた。
 そんな子供が、やがて親にすら見捨てられたのは、当然だったのだろうか。

 フェルカは胎児のように身を丸めて、小さく呻き声を上げる。
 赤ん坊の頃に精霊の力を現わしたフェルカは、母方の叔父に引き取られた。正確に言えば、酒に溺れ、はした金すら欲しかった叔父が、多額の金銭と引き換えにフェルカの保護者を買って出たのだ。叔父は「お前は精霊の仔だ、死んでも良いものを助けられた。せいぜい感謝しろ」とフェルカを詰った。道に立たせて物乞いをさせ、家の労働を全て任せて、それでいてまるで最初からフェルカなど存在しないかのように振舞った。
 他大陸の国と戦争が始まると、バクス帝国の海軍が有する公的海賊船に引きずりこまれて、「お前のような成りそこないは、目につかぬところで、戦火に飲まれて死ね」と言われた。
 そうなのかもしれない。
 自分など、さっさと死んでしまえばいいのかもしれない。
 羽音がうるさい。フェルカは耳を押し潰した。羽虫がうるさい。何故殺したのかと喚いているようだ。気が狂う。凶暴な感情があふれ出し、今また羽虫を殺そうと腕を伸ばしそうになる。
 体の中に別の生き物が巣食らっているんだ。
 それはいつかきっと、皮膚を食い破って外に飛び出してくる。
 そうなる前に、きっと死んだ方がいい。
 戦火に飲まれ、誰にも気づかれることなく死ねばいい。
 羽を毟られ、地に落とされて、誰かに握り潰されてしまえばいい。
 うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさい。

 死んでしまえ!!

 不意に、汗ばんだ額に何か冷たいものが触れた。
 フェルカはハッと目を見開いた。
 強烈すぎる感情の波に中てられて、視界が白く濁っている。
 必死に目を凝らすと、夜の静寂に包まれた船室、自分の寝そべる寝棚の脇に、年長の船員が立っていた。
 彼はフェルカの額に触れたまま、呆然としている幼い顔を、少し困ったように見下ろしていた。
「……あついな」
 言葉を探すようにして、そんなことを言った。額が熱いと言ったのか、部屋が暑いと言ったのか、それともどちらともだったのか。
 フェルカは、爆発するのではないかと思うほどの速さで脈打つ心臓をひどく意識しながら、額に触れる指の冷たさが、冷静さを呼び戻してゆくような感覚を覚える。
「甲板の方が涼しい……」
 やはり先ほどの言葉は「暑い」の意味で言ったらしい。きっと、寝苦しいなら上に行けとそう言いたいのだ。そんなことをどこか遠くの方で空ろに思う。
 まだ頭が働かない。記憶がはっきりとしない。彼とは同じ部屋の割り当てだっただろうか。もしかしたら、うなされていたかもしれない。うるさかったのかもしれない。それで諌めに来たのかもしれない。
 ――何か、言ってはならないことを、言ってしまっただろうか。
 そう思い当たった瞬間、自己嫌悪と罪悪感が身を突き刺した。
 動揺に気づかれまいと歯を食いしばり、強張る体を身を丸めて隠す。
 それでも額に触れる冷たい手が思いがけず優しくて、涙が溢れそうになった。
「ごめんな、さい……」
 口をついて出た謝罪の言葉に、フェルカのどこかが「馬鹿らしい」と笑っている。
「ごめんなさい……っ」
 誰に対しての謝罪なのだろう。
 いつもずっと謝り続けてきた。
 両親に対してなのか。煩わせている目の前の船員に対してなのか。
 それとも、殺してしまった羽虫に対してなのか。

 馬鹿馬鹿しい。
 どうせ赦されない。

 生まれたことが罪ならば、どう償えばいいのですか?

+++

 ホーバーは夜半を過ぎても明かりの点っている船長室の扉を開いた。
「おう、どうした? いや、その前に、扉開けるときはまず叩けよお前」
 作戦机に靴を履いたままの両脚を投げ出し、行儀悪く椅子に腰かけたジルサン船長が少年を出迎える。傍らのソファには、今朝方、他船から客人として招いた若い精霊術師が、いつも笑っているような細目に本物の笑みを宿して座っていた。
「すみません」
 簡略的に謝罪すると、ジルサン船長がいきなりぎょっとした表情になった。
「……?」
「なんだそれ」
「は?」
「痛くないのか、腕?」
 船長と精霊術師、二人分の視線を浴びて、ホーバーは首を傾げる。腕と言われたので両腕を掲げ、裏側を見てみると、そこには大小さまざまな裂傷が走っていた。
「おいおい、まだ開戦前だってのに、そんな傷だらけでどうするんだ。後で診てもらえよ」
「船医の当直、誰ですか?」
「カヴァス爺さん」
「……次の当直まで待つ」
 嬉しげに、医療ミスによる負傷者続出中の船医の名を挙げるジルサン船長に乾いた声で返答し、ホーバーはしみじみと両腕の傷を眺めた。
 すごいな、そう言おうとした瞬間、精霊術師がその台詞を奪った。
「凄いね。それが例の子供の力かい?」
 相変わらず目を細く微笑えませたまま、術師が問うてくる。
 ホーバーは曖昧にうなずいた。
「船室に入る前にはなかったから、多分……」
「力を制御しきれていないんだ。力に誘われてやって来た精霊たちが、体の中で、外で、好き勝手に暴れている。さぞ苦しんでいることだろうね」
 午後の紅茶でも愉しむかのような涼しい口調でそんなことを言う。ホーバーは顔をしかめながらも、やはりうなずいた。
 ジルサン船長が先を引き継いだ。
「精霊術は専門外なんだが、暴走する力を制御する方法はないのか?」
「もちろんあるさ。だがその子供の場合は、あまり意味がない気がするね」
「意味がない?」
「力が暴走するのは、制御する術を知らないからだ。要するに、精霊術を身につければ、暴走はしなくなる。だがその子は、技術の問題ではない気がするね。心理的に何か不安定なものを抱えているように感じる。心が不安定になっているために、力が暴発している、そのことでさらに精神を乱され、発狂しかけているという感じだ。さっきジルサン船長に話を聞いた限りでは、彼の力は大したものではない。多少不可解な部分もあるが……それでも、もしも、例えば僕があのように力を暴走させれば、君は裂傷だけではすまなかったはずだよ」
「……」
「要するに、技術を身につけるより、心理的な不安を解消する方が手っ取り早い、ということだ」
 随分と抽象的な解決方法だった。ジルサン船長は複雑な溜息をつくと、それを打ち消すようにホーバーに軽い口調で声をかけた。
「じゃあ、それはホーバー、任せた」
 あまりに軽い口調だったので、ホーバーは思わずうなずきかける。一瞬後、少年には珍しく困惑と動揺を顔に表した。
「な、何で!」
「お前、案外ガキに好かれる性質らしいからな」
「どこが!」
「イガグリとか、すっかりお前に懐いちゃって、俺さびしいわぁ」
「……毎日、近づいてもいないのに逃げてくんだけど、あいつ」
 イガグリとは、フェルカが来る前までは船内最年少だった水夫のテスのことである。いったい何をしたというのか、目が合うたび「きゃー!」だの「出たー!」だの何だの悲鳴を上げて逃げてゆくのだ。鼻頭に皺を作って呻くホーバーに、ジルサン船長は実に楽しそうな笑顔で手をひらひらと振った。
「まあ、同じ精霊さんなんだから、同病相憐れんで頂戴よ」
「はは。髪が青いってだけで、精霊術の一つも使えなくても、同じ精霊の血を引いていることには違いないからね」
 精霊術師までが声を上げて笑った。
 確かにホーバーはフェルカと同様、精霊の血を身に宿した者だ。フェルカと異なるのは、ホーバーには何の力もないという点だ。精霊の血は、人間離れした鮮やかな海色の髪にだけ現れた。フェルカはその逆だ。身体的には普通の子供と変わらないが、万物に宿る精霊たちを使役する力を持っている。
「将来を考えれば、未来があるのはフェルカのほうだけどな」
「とはいえ、あの程度の力ではたかが知れているけどね」
 散々な言い様だが、それもまた事実なので反論できない。精霊の血を宿した者が、バクス帝国で認められるには、軍に所属し、精霊術師として力を役立てる以外に道はない。目の前の精霊術師は今でこそ穏やかに笑っているが、その笑顔からは伺いもしれない凄惨な道を歩んできたことは確かだ。そして彼は地位を得た。己が生まれながらに持ち、鍛え続けた精霊の力をもってして。
 自分には、その道すらない。
 ホーバーはもう一度、腕に走る裂傷を見つめた。
 まるであの子供そのものみたいな傷だった。
 細くて、痛みすらほとんど感じさせない、存在感のない傷。
 それなのに、血だけは悲鳴を上げるように溢れてくる。
 何ができるというのだろうか。
 自分も消えない苦しみの中にいるのに。
 フェルカが声を殺して謝るたび、自分の存在も一緒に否定される気がして、苛立つのに。
「同病相憐れむって、不可能な言葉だと思う」
 ホーバーのぽつりと吐いた言葉に、具体的な方策について話し合っていた船長と精霊術師が顔を上げた。ホーバーは腕の傷を見つめたまま、起伏のない声で続ける。
「同じ病を持っていたって、痛みが同じなんてありえない。どちらかがより痛くて、どちらかがより苦しい。……結局、自分と相手と、どちらが優位か比べて、薄暗く喜ぶだけだ」
 苦い物を噛み潰したように眉根を寄せるホーバーを面白げに見つめ、ジルサン船長は、それでも表情と噛み合わぬ真摯な声を少年に向けた。
「で、今はどっちが優位に立っているんだ?」
「………」
「助けてやれよ。多少でも余裕のある奴が。お前にはあいつの痛みが分かるんだろう?」
 頼まれもしないのに、うなされるフェルカの様子を見に行ったくせに。ジルサン船長はそうからかって笑い、手元のワイングラスを乱暴に掴むと、精霊術師のグラスに打ちつけた。
「麗しき精霊殿に」
「傲慢な人間様に」
 ふざけているのか、それともバクス帝国への痛烈な批判なのか、ホーバーは判断がつかずに溜息をつき、逃げるように船長室を後にした。
 甲板に出ると、湿り気を帯びた熱風が、汗ばんだ肌を気色悪く撫でていった。
 揺れる船べりに立ち、船灯の明かりが映りこんだ黒い海面を見つめる。
 耳元を不快な羽音がかすめていった。
 顔をしかめ、彼は無意識に耳元で拳を握る。
 潰してしまったろうかと手を広げてみると、そこに羽虫はいなかった。どうやら拳が閉じるよりも前に逃げていたらしい。
 ホーバーは空っぽの掌を見つめ、その手で歪む顔を覆い隠した。
 指の間から夜空を見上げると、雨でも降るのか、先ほどまで星の瞬いていた空には、雨雲が漂いはじめていた。
おわり

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