じゃじゃ竜馴らし

 ファルファロス=ロンツェは、ファーという愛称で呼ばれる十八歳の少年だ。明るく素朴な性格は船内の誰もに好かれ、危険にも敢然と立ち向かう勇敢さはあのセインすら一目を置いている。十八という年齢も手伝って、船内の子供らからは頼れる兄貴分として、年長の船員からは将来有望な弟分として目を掛けられている。
 そのことが、方角見キャムにはちょっとばかり癪だった。

「今日、また料理長に褒められたんだってね?」
 帆柱に背を預け、上空の帆が落とす影の下で涼んでいたキャムは、「また」の部分を強調して言った。傍らで相棒の飛竜の背を撫でながら、ファーは気恥ずかしげに笑う。
「うん。腕をあげたなって言われたよ」
 ファーは料理番見習いだ。料理長マートンの元で日夜腕に磨きをかけている。狭い厨房に、足りない器具、調理しがいのない食材、見習いになりたての頃はずいぶんと苦労したようだが、最近では料理長より美味しい料理を作ることがある。なかなか見習いを脱することが出来ないのは、実は料理長のひがみではないかと大半の船員が思っているぐらいだ。
「昨日はあのマートンさんがさ、包丁を洗えって言ってくれたんだ! 嬉しかったな」
 横顔を盗み見ると、不可思議な紋様が描かれた浅黒い肌は興奮に上気していた。料理長は味はもちろんのことだが料理器具にも徹底的なこだわりがあるらしく、自分の包丁などは絶対に他の料理番には洗わせないらしい。
 キャムはむっと唇を尖らせた。
「ふぅーん……」
 そっけない反応にさすがに険を感じたのか、ファーはお喋りをやめた。主人の心地良い声が聞こえなくなったせいか、飛竜までが訝しげに首をもたげる。
 キャムの年齢は十七歳だ。歳が近いこともあって、キャムとファーはいつもこうして甲板に座っては他愛もない話をしている。
 キャムにとってそれは楽しい時間のはずだった。ほんの数日前までは。
 近頃ファーがめきめきと料理の腕を上げ、料理番だけでなく他の船員までもが手放しで彼を褒めそやしていた。最初のうちはキャムも凄い凄いと手を叩いていたのだが、ふと気づいたら、皆に囲まれ照れ臭そうにしているファーを遠くから見つめている自分がいた。
 たった一歳の差なのに。自分は未だにろくな仕事も任せてもらえないのに。
 つい最近まで自分たち年下の船員と遊んでいたファーが、今ではシャークやホーバー、クロル姐に混じって、酒を交わしながらカードゲームをしている。アレスやグレイに頼りにしてるぞと肩を叩かれ、少し緊張した顔で任せてくださいと胸を叩いている。
 何が気に食わないのかと問われれば困るが、ともかく――何もかもが癪だった。
「それで、今日は何して遊ぶ?」
 どうせいつもの気まぐれとでも思ったのだろう、ファーは不機嫌顔のキャムには何も言わず、さっさと話題を変えて飛竜の喉下を指で掻いてやった。
 ファーの経歴は少し変わっている。船内には出身地も言語も様々な船員がいるが、幻想大陸の出身者は彼の他には船大工のウグドぐらいなものだろう。
 東の果てにあるイリューザ大陸は時に幻想大陸と称される。古代の原生林と生態系、伝説と古代魔術とが未だに跋扈する神秘の大地で、現代に至っても海岸線すらはっきりとしないことから幻のような大陸、幻想大陸と呼ばれている。
 ファーはそこで竜使いの一族として暮らしていた。詳しいことは知らないが、いろいろ事情があって大陸を離れることになり、その時一緒に相棒の飛竜――猫のように喉を慣らしているこの竜も連れてきたのだという。
 空を飛べるのは精霊や妖精ぐらいなものと思っていた。だがこの子に跨ればキャムでも自由に空中の散歩を楽しめるのだ。キャムはすっかり飛竜にはまってしまい、最近では水上スキーだのアクロバット飛行だの、さまざまな遊びを開発しては遊んでいた。
「うんと……どうしよっかな」
 今日は気乗りしなかったのだが、飛竜と遊べるという誘惑は大きく、キャムはごにょごにょする。
「あ、この間のアクロバット飛行は? ほら、キャムがすごい気にいっちゃったやつ。海面すれすれを飛びながら、翼で風起こして、水面にたくさんの渦を作ってさ」
「……私が一人で飛ぶっていうのは?」
 楽しげにするファーにそんなことを言い出したのは、心のどこかでファーを突き放したいという思いがあったからだと思う。
 ファーは目を丸くするとあっけらかんと首を振った。
「それは無理だよ。キャムにはこの子は乗りこなせない」
 キャムは刹那的にムカッとした。
 当然のように「キャムには無理」と言われ、自分でも驚くほどの苛立ちに囚われたのだ。
「だって、この子――」
「そうよね、ファーは特別だもん」
「――え?」
「料理もマートンに認められるぐらい上手で、みんなにも目を掛けられてて、冒険家みんなが憧れてる幻想大陸の出身で、しかも竜にまで乗れちゃうなんて最強よね!」
「なに怒ってんの?」
「っ怒ってなんかない!」
 鋭く図星を指されてキャムは勢いよく立ち上がった。
「こんなちっさい竜なんて一人で乗れるんだから!」
 怒涛の怒りっぷりにファーはぽかんとした。その隙に少年の前を乱暴な足取りで横切り、キャムは身を横たえていた竜の背に強引に跨った。
「っちょ――キャム!」
 竜が機嫌の悪い唸り声を上げ、長首をもたげてキャムを振りかえる。
「ほら、飛びなさいよ! 散歩の時間よ!」
 驚きに声を上げるファーを無視して、キャムは両足の踵で思い切り竜の腹を突いてやった。
 その瞬間、竜が怒りに猛り吼えた。
 身体の脇で畳んでいた両翼を勢いよく広げ、重たげな音をたてて羽ばたく。甲板に強烈な風が巻き起こり、ファーが足を取られて転倒した。キャムは思わず「あ」と声を上げるが、直後、竜が両翼に風を捕らえて大きく舞い上がった。
「キャム……!!」
 竜の首に腕を絡めながら肩越しに振りかえると、あっという間に遠ざかってゆくバックロー号の甲板で、転げたままのファーが悲鳴のような声を上げていた。

「ちょ、ちょっと……!」
 飛竜は巨大な翼を幾度も震わせながら、凄まじい速度で上空へと昇っていった。
「い、いい、言うこと――聞きなさいよー!」
 死ぬ物狂いで長い首にしがみつくが、竜はそんなキャムを振り落とそうと体を無茶苦茶に揺さぶってくる。キャムは悲鳴を上げた。
 低空で漂っていた薄雲を突き抜けると太陽の白光が視界いっぱいに弾けた。あまりの眩しさに顔をそらした途端、キャムは卒倒しそうになった。
 冗談みたいに海が遠かった。はるか眼下に広がる真っ青な海、水平線の彼方にはフェクヘーラ大陸の片鱗。そして大陸のさらに向こうからは、空に向かって真っ直ぐに伸びる光の柱――天の柱だ。普段は直立に見えるその姿が斜めに傾いでいる。いや、自分が傾いているのだ。
 今落ちたら、死ぬ。
「フ……ファー……」
 裏返った声が口から零れる。
 しかしその直後、さらに信じられないことが起こる。
 竜が、消えた。
「……へ」
 それまで必死でしがみついていたはずの首が突如として消えてなくなり、腕はスカッと虚空を掻いた。勢いあまって身体が前のめりになった瞬間、キャムは更に驚愕する。首どころではない、確かに跨っていたはずの竜そのものが消えてなくなっていたのだ。
 凶暴な顔も見事な翼も、太い足も波打つ尻尾も何もない。最初から全てが幻であったように飛竜はどこにもいない。
 そしてその事実をきちんと認識するより先に、キャムの体は落下を開始していた。
 悲鳴を上げる。いや、悲鳴を上げているのかどうかすら認識できない。風を切る轟音がうるさすぎて逆に静かな気がする。嘘みたいに体を受け止める物が何もなく、重い頭が真っ先に落ちてゆく。海面は遠すぎて、自分が落ちているのか静止しているのかすら良く分からなかった。ただめちゃくちゃなパニックが思考能力を根こそぎ奪い去ってゆく。
 その時、キャムは真っ白になる意識の奥底で、甲板に立つファーの姿を見た気がした。
 極度の精神状態が見せた幻かもしれない。ファーは両足で甲板をしっかりと踏みしめ、長い腕を胸の前に伸ばして交差させ、祈りを捧げるように目を伏せている。浅黒い肌に彫られた刺青が赤い光を放っていた。葉脈に似た紋様は肌の下を這うようにして、見る間に全身に広がってゆく。
 足元から風が湧き上がり、少年の黒髪を激しくなびかせる。

 レアロゥダ……!!
  おれを乗せて 舞え……!!

 鋭い声がキャムの耳に飛びこんできた。
 まだ少しだけ幼くて、けれどもうすっかり勇敢な若者の声。
 ファーの足元から吹き出した暴風は少年を軸にとぐろを巻くと、次第に竜の姿へと変化していった。ファーは目を鋭く細めて甲板を蹴ると、今や完全に実体化した飛竜の背に飛び乗った。

 キャム……!

 キャムはハッと我に返る。脳裏を過ぎった幻はもはやどこにもない。海面が凄まじい勢いで近づいてくる。大陸の片鱗はもうどこにも見えない。と、はるか眼下に豆粒ほどのバックロー号が見えた――そう思った瞬間、船から舞い上がる美しい竜の姿をキャムは見た。両翼を勇猛に羽ばたかせ、飛竜が風を切る速度で上昇してくる。
 竜にはファーが跨っていた。
「キャム!」
 ファーは吼えて、長い腕を真っ直ぐに伸ばした。
 ほっとした。もう大丈夫だと思った。
 泣きたいぐらいの安堵感が襲ってくる。
 キャムは強い衝撃が全身にかかるのを感じながら、やがて意識を手放した。

+++

「………」
 医務室の狭い寝台の上で、薄がけに包まり膝を抱えていたキャムはむすっと唇を尖らせた。
 隣の寝台では腕を袈裟懸けの包帯で固定したファーがカンカンになって怒っている。もう一時間近くは怒鳴っているが、その怒りが収まる様子はない。
「ほんとに馬鹿! キャムはいつも我がままなんだよ! あのまま落ちてたらどうなってたか分かってるのか!?」
「だって……知らなかったんだもん」
 キャムは耳の穴に指を突っ込んで、ぼそっと呟く。
「あの竜が幻だったなんて……」
 飛竜に乗ったファーが気絶したキャムを回収して船に戻ったのは二時間前のことである。ファーはキャムが目を覚ますと、何故竜が消えたのかを怒りながら説明してくれた。
 いつもファーの側にいるあの竜は生身の竜ではないのだ。イリューザ大陸の竜使いは幻術によって幻の竜を創り出し、操るのだと言う。幻竜は自分を創り出した術士の側を離れすぎると消えてなくなってしまうらしい。だからファーは最初にキャム一人では無理だと言ったのだ。
「早とちり!! 説明しようとしたのに!」
 キャムはまだ怒鳴っているファーの腕にちらりと目をやり、しゅんとした。少年の右腕はキャムを抱きとめた衝撃で骨がぽっきりと折れてしまったのだ。
「……ごめん」
 キャムは起きてから言うか言うまいか迷い続けた言葉を、ついに口にした。
 そして更に躊躇した後、
「あ、ありがと……」
 と呟いた。
 脳裏には、落下している時に見たファーの勇ましい姿が浮かんでいた。初めて見る竜使いとしてのファー。自分に向かって必死に手を伸ばした少年の大人びた顔。
 料理番見習いとして船員たちに目を掛けられるファーを応援することは、今のキャムにはやはり出来ない。けれど、竜を召喚する彼の姿には心からすごいと思うことができた。
(負けないんだから)
 キャムは膝をぐっと抱えた。そして宣戦布告のつもりで、自分より先に大人の階段を上りはじめた友人に、数日ぶりの笑顔を向けようとした。
 が、それよりも先にファーは目を丸くすると、ぶるりとおぞましげに身を震わせた。
「やめてくれよ、キャムがありがとうなんて。嵐になるじゃないか」
 キャムは目をギラリとさせた。

「人が大人になってお礼を言ったのに……!!」
「大人ぁ!? 大人はそもそもあんな無茶苦茶なことしないよ!」
「何よそれ自分がひとり大人になったつもりで! 猫可愛がりされてるだけじゃないの!」
「……あ、分かった。キャム何でイラついてるのか。おれがマートンさんに褒められて、悔しいんだ! 置いてけぼりになる気がしたんだろー!」
「ち――違……!!」

「キャムのガキ!」
「ファーのバーカ!」

 寝台の足元では例の幻竜が身を丸めて座っている。竜は鬱陶しげに閉じていた片目をぱちりと開くと、「どっちもまだまだ喧しいクソガキだ」と言わんばかりに前脚の間に顔を埋めるのだった。

おわり

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