君に贈るキス

 暴徒と化した帝国海軍は、肩に刻印を施された人間を物陰から引きずり出しては、無慈悲に首を刎ね、あるいは業火の中へと蹴りいれ、焼き殺した。
 炎に撒かれた帝都を公的海賊たちが逃げまどう。悲鳴と断末魔が入り乱れ、哄笑が覆い被さるその夜は、まさに地獄絵図と呼ぶに相応しかった。
「クロル、あんたは物置に隠れてなさいっ」
 泣き叫ぶ末妹の口を塞ぎ、母は呆然と立ち尽くすクロルを必死に追い立てた。
「あんたはとっくに公的海賊を脱退してる。無関係だ。けど肩にはまだ刻印がある、見逃してもらえるとは限らない……っ早く隠れなさい!」
 宿の一階にある大衆食堂。灯火を消したはずなのに、窓から差し込む紅蓮の光が、煌々と食堂内を照らし尽くしている。末妹を抱えたまま、窓の外を凝視する母の目は険しく、それでいて果敢だった。もしも帝国軍が扉を破って入ってくることがあれば、身を盾にしてでもクロルを守る気なのだろう、眼差しには一点の怯えもない。
 ああ、と悟った。
 いっそ穏やかなほどの心で。
 ――自分はもう、ここにはいられない。
 クロルは刻印の穿たれた右肩を鷲づかみ、固く目を伏せた。
「……母さん」
 小さく呟いた声は、外から聞こえる狂乱とは正反対に落ち着いていた。
 この夜には異質なほど清廉な声。
 窓に身を寄せ、外を睨んでいた母親は、はっとクロルを見つめた。
 その時にはもう、クロルは扉の取っ手を握りしめていた。
 咄嗟に手を伸ばしかけた母を制するように、クロルはそれまでの短い人生でとびきりの笑顔を作った。これが最後となるのなら、せめて母には娘の最高の笑顔を残しておきたくて。無理やりでも何でもなく、心の底からの笑顔を作って、口を開く。
「さようなら」
 同時に扉を開け放ち、燃え盛る狂都に飛びだした。
 追いすがる母親の悲痛な叫びは、感傷に浸る間もなく誰かの断末魔に掻き消され、クロルは死に物狂いで生まれ育った家から走り去った。
 五秒ももたなかった。
 あんなに冷静に決別したのに、自分でも意外なほど、心が脆く崩れた。
 もっと自分は強い人間だと思ったのに。
 外気よりも熱い涙が顎から伝い落ちる。走るのに邪魔なほど、視界が白く滲んだ。
 クロルは炎の中を駆けながら、堪え切れずに慟哭した。
「……っ」
 不意によろめく足が、自らの足に絡まった。
 視界が傾き、無抵抗のまま倒れる自分を意識して、
 ――誰かが手首を引っ掴み、強引にクロルを引きずり立てた。
「……来い!」
 涙に濡れた目が、驚愕に見開かれた。
 無理やり腕を引っ張られ、つんのめるようにまた前へと駆け出す。
 呆然と見つめた先には、炎の色を弾いて輝く、青碧色の髪。
「ホー、バー……?」
 呆けた声なんてまるで無視して、少年は二度とは振り返らずに、クロルの腕を掴んで走り続けた。前へ、前へと、痛いほどに手首を掴んで。
 驚きすぎて涙が引っこんだ。意外すぎて恐怖すら消え去る。
 後はただ、目の前に揺れる鮮やかな色彩に魅せられて――、

 家族との永遠の別れを察したように、いや、それ以上の力強さで、クロルは悟った。
 自分は遥か遠い未来まで、この男と走り続ける。
 この灼熱の夜を二人で走り抜けたように、これから先も、共に、どこまでも駆けてゆくのだと。
 そう、察した。

「…………」
 クロルはぼんやりと薄目を開けて、眩しい直射日光を無意識に掲げた腕で遮った。
「んん……っ」
 腕を目元まで下ろして、寝起きの呻き声を上げる。
 まだ眠りを欲している上体を無理やり起こして、クロルは改めて伸びをした。ついでに甲板なんて硬い床で寝たせいで、ばきばきに固まった肩を回してほぐす。
「カーッ、良く寝た!」
「……親父か、お前は」
 近くで声がして、クロルは笑い含みに背後の船べりを振りかえった。
「釣れたかい?」
「全然。一匹も。そのわりに、餌ばっかり消えてゆくのは何でだ」
「下手だねえ。ホーバーの弱点見たりだよ」
 船べりに胡坐を掻いて、つまらなそうに釣竿を船外に垂らしていたホーバーは、渋い顔で溜め息をついた。
 クロルは寝癖のついた黒髪を手で掻きまわしながら、憮然とした彼の横顔を見つめた。
 何か、夢を見ていた気がした。
 どこか懐かしいような、遠い昔の夢を。
 あまり覚えていない。ただ、決して楽しい夢ではなかったと思う。目覚めた今も少し胸が痛いほどに。
 けれどホーバーの振り向かない横顔に、風に揺れる青碧色の髪に、不思議なほどの安堵感を覚えて、クロルは我知らず微笑んだ。
「何だよ、気色悪い」
 声に出して笑っていたらしい、ホーバーが不気味そうに顔を顰める。
 クロルは歯を剥き出しにして笑うと、甲板を匍匐前進し、辿りついたホーバーの背中に思い切り抱きついた。
「……………は?」
 唐突すぎる抱擁に、ホーバーが凍りつく。
 クロルはお色気むんむんな微笑を浮かべ、「うふん」と鼻に抜けた吐息を耳に吹きかけ、前に回した手でホーバーの胸元をいやらしく撫で回した。
 ぞわぞわっと身を震わせて、ホーバーが恐怖に引きつった声を上げる。
「……セ、セクハラッ!」
「ホーバー、あたしゃねえ、今、何か良い夢を見てたよ……。あんたがこう強引に……あたしをこう……無理やりに……ねぇ?」
「は、はぁ!?」
 夢の内容をさっぱり覚えていないのでそういう台詞になるわけだが、端から聞いていると妙に悩ましげな内容に聞こえてしまうのは、果たして偶然か必然か。
 動揺しまくるホーバーの顔色を思う存分堪能し、クロルはついに吹き出した。
「っあんたってほんっと、からかうと面白いんだから!」
 爆笑しながら首を両腕で締めつけて、クロルはカラカラと豪快に笑った。
「ぐ、ぐるじ……っ」
「覚悟しな、あたしゃ、あんたを一生手放さないよ! あんたが先にあたしを強引に……こう……無理やりに……っなんだから、責任取りな!」
「……っ、その意味わかんないのやめろ……ぐぇ!」
「うけけけけけけ!」
 クロルはエロ目で邪悪に笑い、ホーバーが本気で呼吸困難になっている隙に、彼の首根に吸い付くような口付けを贈った。
「い……った、ちょ――っ」
「愛してるよ、ホーバー!」
「~~~サイアク……ッ」
「あーっはっはっはっは!」
 盛大についたキスマークを満足げに見下ろし、クロルはとびきりの笑顔をホーバー向けた。
 いつかの昔、短い人生で一番と誇れた笑顔より、後の未来で勝ち得たさらなる笑顔を。
 今も共に歩む、大切な相棒に。

おわり

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