ゲロな冒険談

 シャークは目の前に詰まれた書類の束を眺め、むむむ…と唸った。
 書類のさらに向こうには、溜め息寸前の苦い顔をしたホーバー。
「……これ、ぜんぶっスか」
「……これ、全部だよ」
 一言、二言と交わしてまた、二人はガクリと肩を落とす。
 この書類が何なのかを説明するのは、簡単である。
 ただの紙。そう、書かれた内容を無視していいならば、何の変哲もないただの紙だ。
 ただあるべき「サイン」が描かれていない、それだけの紙である。
 シャークは無言で、羽ペンを手に取った。
 ホーバーもまた、インク壷を手もとに引き寄せ、ペン先を黒い液体の中につける。
 カリカリ。カリカリカリ。ざらりとした紙面を、鋭いペン先が削る、鈍く重たい音が響きわたる。
「……これ、大量印刷とかできないんスかね」
 シャークは、ホーバーの目の下に浮いた隈を見上げながら、呟いた。
「……できても、金がない」
 ホーバーは、シャークの目の下に浮いた隈を見上げながら、答えた。
「……何でうちって、こんな貧乏なのでスか」
「……酒乱が多いせいじゃないか」
「……だったら、この書類のサインの束、その酒乱たちが書くべきじゃないスか」
「……そうだろうけど、お前も、俺も、その酒乱のうちの一人だろ」
「…………、」
「……今気づいたって顔するなよ、ワク」
「……ザルのクロルがいないのが、不満っス」
「……あいつは、昨日のゲロ掃除だ。こっちのがまだマシ」
「……甲板、皆さまの胃の内容物が丸見えだったっスね」
「……大したもん食ってないのに、何でゲロはあんなに大量なんだろうな」
「……胃液っス。常人をはるかに越えた量の胃液が、ゲロを二割三割増しにしてるんス…」
「……そろそろゲロの話、やめない? 吐き気がしてきた」
「……うぷス」
 再び二人は、無言でサインを書き続ける。
 彼らがサインに従事する紙束は、この一週間、夜と問わず昼と問わず、あるいは朝であろうと、延々と飲み続けた酒代、食べ続けた食事代の返済を約束する、いわば誓約書である。手持ちの金では到底足りず、アッシュクラース連邦の銀行に預けてある預金から払うことを、娯楽都市ヒルカムポスのありとあらゆる飲食店に約束するものだ。
「……何もここまで飲み食いしなくてもよかったっスよねぇ」
 高級肉店グアナヴァの店、代金54万エルカ。
 七日前は、こんな旨い肉を食えるなら、もう一度あの死の海に出て、海賊たちとドンパチやってもいいっスー!! と叫んだが、今は何故あんな高い肉でなければならなかったのか、安い肉でもよかったじゃないスか、何この立派な約款、貧乏海賊のくせに紙の縁に風流な蔦が描かれ、微妙に金粉まで篩われた紙にサインを書くなんてありえないス、貧乏肉でいいっス、ハエのたかった肉で充分っス、おおお、身に相応しからぬ高級肉たちよ、今すぐ五臓六腑から這い出て、再び肉となって肉屋に並び、何事もなかったように販売され、オレたちの借金が帳消しになることを望むっス。
「……まぁ、今回は仕方ないだろ。奇跡を祝うには、これでも足りないぐらいだ」
 高級酒店ヴィヴィアン・ラヴェル。代金423万エルカ。
 昨夜は、こんな高級酒を飲めるぐらいなら、もう一度あの死の海に出て、背後に迫る海軍を後ろに見ながら、海獣シーダピューラと死戦を繰り広げるぐらい何てことはないと感じたが、何もこんな高級酒じゃなくたって、いつもの樽にいっぱい詰まった麦酒でよかったじゃないか、通風なんかちっとも怖くないぞ、ラギルが二日酔いで横たわる自分をまたいだ時にその風圧にすら体全身が悲鳴を上げようとちっとも怖くないぞ、木のジョッキに泡がこぼれるぐらい容れて、酔ってもないのに酔ったふりで乾杯乾杯繰りかえすほうがよほどよかったのに何故、意味もなく高級酒。
 カリカリカリカリカリカリ。
「……まぁ、よく生きて帰ってきたもんスよね。本当にオレ、死んだと思ったっス」
「……実際、奇跡だよな。俺もあれで人生終わったと思ったもんな」
 二人は同時に重々しいため息をついて、乾いたペン先にインクをつけた。
 彼ら、海賊バクスクラッシャーが「死の海」と呼ばれる未開の海へと航海に出たのは、半年前のことである。当時、死の海の奥地にある未知の島に、伝説の海賊ギャラップハーティの財宝が眠っているという情報が、世界の港町という港町、裏社会の情報屋という情報屋の間で、まことしやかに流れたのだ。
 そこまで劇的に広がる情報を、普通の海賊や海軍たちは信用しない。だがこの時ばかりは違った。海賊ギャラップハーティは伝説の海賊の一人と言われ、その宝は国が一つや二つ、平気で買えるほどの価値があるとされている。小説になるほどの破天荒な人物像から、実在すら疑われていた海賊であったが、重要なのは、フェクヘーラ大陸のシュワイサー国や、アッシュクラース連邦の名だたる財閥、ケナテラ大陸の諸国が、次々と捜索隊を組んで、死の海へと乗り出したことである。
 財閥はともかく、国家が動くには、そこに財宝があるという確たる証拠が必要なはずだ。それが、複数の国が同時に動いたという。世の海賊たちは、どうやら出回っている情報が本物であると知って、その夜、一人残さず黄金の夢を見たことだろう。
 かくして世界各地の国家、財閥、海賊が、死の海を目指して航海に出たのであった。
 ――死の海に、海賊ギャラップハーティの財宝があったかは、ここでは問題ではない。問題なのは、海賊の動きをいち早く察知した各国の海軍が、ここぞとばかりに海賊討伐隊を組んで、死の海に襲撃をしかけたことである。
 死の海は、財宝探しの船と、財宝あるいは財宝探しの船そのものの襲撃を企む海賊たち、海賊を捕縛せんとする海軍、そして尋常でない騒ぎに目を覚ました海の怪物たちが跋扈する、正真正銘の「死の海」と化した。
 ここまで書けば、細かい出来事など書く必要もない。ぶっちゃけ毎日、百回ぐらいは死ぬと思った。ろくな食事を取る暇もなく、武器はあっという間に底を尽き、騙し合いと裏切りと、駆け引きと賭け事と。ない知恵を絞っては、ろくな結果を生みもしない作戦を実行し、やっぱりろくな結果にならなくて、仲間同士で大乱闘になり。最終的には、捜索隊と海賊、海軍、海獣、ついでに亡霊船や魔物の類までが登場しての、超頂上戦が繰り広げられた。
 生きて帰れたのは奇跡である。
 さりげなく、ちょっとばかしの財宝も手に入った。
 そして、裕福になりたくて財宝探しに出たはずだったが、生きて帰ってこられた嬉しさのあまり、それなりにあったはずの財宝を一週間で使い切ってしまったどころか、こつこつ溜めた預金まで切り崩すはめになった結果が、今のこの紙束なのである。
「すごかったっスよね」
「……何が。ゲロが」
「違うっスよ、財宝の山っスよ。全部ほしかったっス」
「時間なかったからな」
「海賊ギャラップハーティって、財宝を集めて、何したかったんスかね」
「……貯金が趣味だったんじゃないの」
「バクスクラッシャーは無理っスね。あるだけ使っちゃうっス」
「見習うべきだな、ギャラップハーティ」
「ローンは計画的に、ギャラップハーティ」
「……何だそれ」
「……さぁ。ゲロなジョークっス」
 ホーバーの笑いのツボが、そこでいきなりスイッチ入った。
 ゲロなジョーク…と呟きながら、クツクツと笑って、震えた手でサインを書き続ける。
「何スか、その震えたゲロ字は」
「……ゲロ字……くくくっ」
 一週間の宴会騒ぎで疲弊しきったシャークは、その他いろいろと、ゲロでジョークをかまそうとしたが、さっぱり思い浮かばず、そのまま沈黙した。それでホーバーの笑いもあっさりと収まり、二人はまたカリカリと無言でサインを書きまくった。
「……何ていうか、壮大だったわりに、ほんっとゲロな冒険談スねぇ」
「……まったくな。ゲロな冒険談に、ゲロ奇跡だよ」
 カリカリカリカリ。
「……なぁ、本当、いい加減、ゲロな話題はやめないか」
「……何でっスかね、ゲロ以外の話題が全く出てこないっス」
「……探せ。無理に探せ、ゲロ以外の話を」
「……う、ううん、ううん。あ、おととい食べたトロトロのスープ、すごいうまかったっスね」
「……今おまえ、ゲロから連想しただろ、そのスープ」
「……似てたっスよね」
 ホーバーは怒りにパキッと羽ペンを折ると、書き終えた紙束をシャークの額に叩きつけた。

「本気で旨かったのに、二度と食べられないだろうがー!」
「だって似てたんスもん、ゲロにー!」
「ゲロゲロ言うなー!!」
「ホーバーが一番言ってるゲロっスー!!」
「言ってねぇゲロー!!」

 紙束が舞う。羽ペンが壁に突き刺さる。インク壷がひっくりかえる。
 やろうと思えば、ものすごく面白い冒険談を語ることもできるのに、三度の英雄談より、ゲロな話の方がしっくりくる、貧乏海賊バクスクラッシャー。
 そんな二人の、ゲロな冒険談。

おわり

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