世界でもっとも美しい貴女

 海賊バクスクラッシャーの船員は、おおむね海の神を信仰している。
 信仰の程度は様々だ。スケベの船管理長スタフィールドは、毎朝毎晩経文を唱えている。かと思えば副船長ホーバーのように、時折ふっと思い出したように祈りを捧げる船員もいる。
 海の女神カラ・ミンス。
 緩やかに波打つ青い髪と、刻々と色を変える青い肌。慈愛に満ちた瞳はまるで水泡のよう。壁画やタペストリー、経典などに描かれるカラの姿は神秘的なまでに美しい。獅子の姿をした神獣シェルリーヴを連れ、カラは海を往く者に「航海の安全」を確約する。その一方で、「嵐による断罪」を行う怒神としての二面性も持つ。冷たい鎧を身に纏い、神獣に跨って海上を駆け、嵐を巻き起こしては次々と船を海中深くに沈めゆくその姿は、人々に恐怖と畏敬の念を与える。

 バックロー号の船首像に用いられているのは、当然、航海の安全を確約する女神の方である。
 バザークは晴れ渡った真昼の埠頭に立ち、桟橋に着けられた巨大帆船バックロー号の舳先を見上げた。
 実に見事な彫刻だと思う。舳先の下部に取り付けられたカラ・ミンス像は、青い塗装こそ剥がれかかっているものの、慈悲深い微笑を湛えた顔立ちといい、今にも動き出しそうな手足の細やかな表現といい、彫りの技術は並ではない。きっと名のある彫刻家が手がけたのだろう。
 乗船中は拝む機会のない船首像だが、こうして港に下り立ち、改めて見上げるとその姿は美しかった。
「ああ、生身じゃないのが残念だよ、美しい君」
「何、ばかなこと言ってんのよ、年中色ボケ男」
 感嘆の溜め息を零したところで、背後から呆れた声がかかった。
「やあ、リーチェ!」
 振り返った先に立っていたのは、料理番長補佐のリーチェ=ノイエだった。血の通わぬ船首像、それも天下の女神様を真顔で口説くという恥ずかしすぎる姿を目撃されたというのに、バザークは気にした様子もなく、屈託ない笑顔を浮かべた。
 呆れていたはずのリーチェも、少年のような笑顔につい笑い声を零した。バザークの横に並んで、彼女もまた船首像を見上げる。
「きれいだよねぇ、カラ・ミンスって。女らしいっていうのはこういうことを言うんだよ」
「君にそんな羨みの台詞は似合わないよ、リーチェ。その言葉は鏡の向こうにいる自分にこそ囁く価値があるというものさ」
「……はぁ。バザークなんかに口説かれても、あたし、ぜんっぜん嬉しくないんだけどな」
「あ、言ったな!」
 バザークは笑い含みに口を尖らせ、くすくす笑うリーチェの頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
 ひとしきり騒いでから、彼は改めて船首像を見上げた。
 真昼の白い日差しが舳先の先端に差し掛かり、眩しさに眼が細まる。
「俺、実はカラの信者じゃないんだよね」
「え! そうなの!?」
 リーチェは驚きに目を見開いた。
 世界中の海を行き来する船乗りの多くは、陸地よりも海上で過ごす時間のほうが長い。
 そんな彼らにとって、海は――カラは特別な存在だ。
 風を受けて十分に孕んだ白帆。羅針盤の向く方角へ真っ直ぐに突き立った舳先。巨大な船体が何の滞りもなく海上を滑り出した日には、カラに感謝を捧げる。
 その海が突如として荒れ狂う。海面は渦を巻き、闇を含んだ高波が次々と津波となって襲いかかってくる。殴りつけるような波が甲板になだれ込み、足元を掬われ、運の悪い船員はそのまま攫われ渦へと呑まれる。恐怖も忘れて走りまわる船員たちの胸にふっと過ぎるのはカラに対する畏怖だ。
 そして、嵐が過ぎ去った後の、静かなる海。
 白々とした光が降り注ぎ、海面は宝石を撒いたように眩しい光を放っている。まるで楽園に辿りついたかのような幻想的な光景。やがて白い太陽はとろけるような紅蓮の夕陽へと変化し、海面に赤い残光を投げかけ、水平線の向こうへと沈んでゆく。その神々しさに船乗りは神の存在を実感する。
 かつては別の神への信仰心を抱いていた者も、海で過ごすうちに自然とカラを信仰するようになるという。特にバザークのような舵手は、舵を通して直に海と対峙する。海の奥深い美しさと恐ろしさを誰よりも感じているのは舵手なのだ。
 それだけにバザークがカラの信者でないというのは驚きだった。
 いや、というよりは、
「カラ、女神なのに!」
 リーチェの鋭い指摘に、バザークはたまらずに笑い転げた。
「女神なのにって、リーチェ……!」
「だってそうでしょ。天下の女たらし様がカラに見向きもしないなんて……ありえない!」
 あまりにきっぱり言い切られ、彼は目尻に浮かんだ涙を擦りながら苦笑した。
「いや、だって、カラって怖いじゃない」
「怖い?」
「怒った女性の顔は可愛いけど、カラの場合、二重人格の気があるというか……怒ると鎧着始めるし。壁画とか見てると兜までかぶってるだろ? あれはちょっとなー」
「……呆れた」
 バクスクラッシャーきっての女たらしは、海を統べる女神すらも一女性として見ているらしい。
「バザークって……馬鹿ねぇ」
「女性に馬鹿と罵られるなんて、身に余る光栄」
 リーチェはやれやれと肩を竦め、バザークの腕をぽんと叩いた。
「ほら、馬鹿なこと言ってないで行こ。せっかく久々に港町に降りたんだから、めいっぱい遊ぼうよ!」
 ぐんっと腕を引っ張られ、バザークはふっと笑った。
「それは名案。美味しい紅茶をご馳走するよ」 
「アイスもね。それとちょうど欲しい服と靴があったんだー。髪の毛も切りたいし」
「……どういう意味かな?」
「あら、奢ってくれるんでしょ? 女性におねだりされるなんて名誉なことよ?」
「え゛。えっと……す、すみませんお嬢様、ちょっと財布の中身確認させてください」
「あはは!」

 透き通るような青空に、バックロー号の巨大な船首が黒い影となって焼きつく。
 腕を引かれて埠頭を歩きはじめたバザークは、もう一度だけ船首像を振り返った。
 海の女神カラ・ミンスは、相変わらず慈愛に満ちた微笑を誰にともなく浮かべている。
 その影の落ちた微笑に、バザークはぞくりと背筋を震わせた。
 本当は――本当は、恐ろしいのだ。あの美しい女神を信仰することが。
 舵を握るたびに戦慄する。
 荒れ狂う嵐の海。稲妻が雨のように降り注ぎ、海面は船を沈めんと激しく逆巻く。
 恐怖心を抱くとともに、自分はその姿にどうしようもなく魅了されている。
 認めてはいけない。カラの美しさに、理性も失うほどの信仰心を抱いていることを。
 認めてしまったら、もう逃れられない。
 この海から、逃げ出せない。

「……それじゃ困るんだ」
 バザークは買い物リストを上から順に挙げ続けるリーチェの後ろを歩きながら、逃げるように船首像から視線をそらした。
「俺はいつか海賊なんかやめて、陸に帰るんだ……」
 そう呟いた時、縮めた背にカラ・ミンスの青い視線がじっと注がれているのを感じた。

 認めない。世界でもっとも美しい貴女。

おわり

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