影の円舞曲

04

「え、貴族のダンスを教えてくれって? ……遠慮します」
 居眠りしていたところを叩き起こされ、ログゼとミンリーの前まで引きずってこられたホーバーは、委細は聞かずに「じゃ」と手を挙げた。その手を、ミンリーが両手で握りしめる。
「ホーバー。お祭りデ踊る、素敵。ネ?」
 期待に満ちた瞳で見つめられ、ホーバーは嫌な汗をかきながら視線をそらした。
「いやあ、そういうのは、他の奴に聞いたほうが」
「社交界で踊るようなやつだぜ? お貴族様の優雅なダンスだ。そんなもん嗜んでらっしゃる方など、ホーバー王子をおいては他におりません。……教えろって、ホーバー兄!」
 ただの嫌がらせとしか思えないにやにや笑いで、肘で小突いてくるログゼを、ホーバーは「首絞めたろか」という顔で睨みつけた。しかし。
「ちょとで、いいノ。お願い、ホーバー」
 ミンリーのお願いごとを断れる男が船内にいたら、ぜひともお目にかかりたい。ホーバーは長らく沈黙していたが、やがてがくりと肩を落として陥落宣言をした。
 ――それを遠巻きに見つめて、キャムはこくりと息を飲みこんだ。
(ホーバー、教えてくれるんだ……)
 意外に思う以上に期待が込みあげてきて、キャムは慌てて唇を引き結んだ。
(余計なことしないでよ、ばかホーバー)
 うきうきしているところを見られて、船員たちに「キャムはダンスを楽しみにしている」なんて笑われたくない。踊る相手もいないくせに、って思われるに決まっている。踊る相手も決まっていないのに、一生懸命ダンスを練習する姿の、なんて無様なことだろう。
 けれど、でも。
「って言っても、俺も社交界なんてほとんど出たことないからな。覚えてるかどうか……それに、相手がいないとどうにも……」
 言いかけたホーバーは「あ」と手を叩き、甲板をぐるりと見回して「メル!」と声を上げた。舵台への階段に腰かけ、妙ちくりんな小型機械と設計図らしき紙とを難しい顔で見比べていたメルが顔をあげる。キャムは、メルが不満げに立ち上がり、こちらに向かってくるのを確認し、手にしていた皿を床に置いた。まだ皿には豆の炒め物が残っていたが、さりげなく物影に押しやる。そして、やはり周囲に気取られることがないよう、のそり、のそり、と少しずつ尻を移動させた。――ログゼとミンリーの方に。
(ダンスの練習を見たいわけじゃない)
 キャムは自分に言い聞かせた。ホーバーのダンス教室が真っ当であるわけがないのだ。だからそう、言うならばホーバーの醜態を見てやりたいというだけの話だ。決して、手足の動きがはっきり見える位置まで近づこうというつもりでは、ない。
「何か用? あなたたちのような暇な愚民と違って、私は日々研究で大忙しなんだけど」
 むすっと腕を組んで現れたメルに、ホーバーはミンリーを手で示した。
「ミンリーが社交界で踊るようなダンスを教えてほしいんだってさ。俺ひとりじゃ踊れないから、メルに相手役をやってもらおうかと思って」
 メルは目玉をぱちくりさせ、なんだなんだと集まってきた十五人ほどの観衆を見回した。
「そりゃまあ、私は確かに元上流貴族だけど……その頃の記憶なんか頭から吹っ飛んでて、ちっとも覚えてないわよ。知ってるじゃない」
 メルには帝国時代の記憶がほとんどない。もちろんホーバーはそのことを知っているが、不満顔なメルに問題ないとばかりの笑みを向けた。
「体に染みついた習慣っていうのは、そうそう簡単に消えないもんだろ。脳みそが覚えてなくても、体が覚えてる」
「そりゃ、まあ……そういうこともあるけど、なんかあなた、私を巻きこもうって魂胆じゃない?」
「はい。じゃ、右手出して」
「はあ?」
 犬じゃないのよ、とぶつぶつ言いながらも、メルが右腕を前に差し出す。それをホーバーが右手で掬いとり、左手を腰の後ろにやって、優雅に片膝を折って床につけた。
「踊っていただけますか? レディ」
 ぶーっ。
 様子を見ていた男たちが一斉に噴き出した。
「ちょ、ウケる、何だよそれやめろよ、ホーバー! 似合いすぎてて笑える……!」
「超カッコ悪ぃ……!」
「どこの緑頭の王子様……!」
 腹を抱えて、男たちは身悶えするが、女たちは舌打ち寸前、燃え盛る怒りの炎を背に従え、男たちを睨みつけていた。どうやら女性陣は真剣に学びたいらしい。いや、それ以上に優雅なダンスへの憧れがあるのだろう、いつもは容赦なくコケ下しているホーバーの物腰にどことなくうっとりしていた。
 実際、キャムも興奮を隠しきれなかった。勝手に想像がふくらむ。あんなことをシャークにやられたら、自分はどうなってしまうだろう。脳天から湯気が噴出して、倒れてしまうに違いない。ホーバーがメルに膝を折る姿を見ているだけでも、こんなにどきどきするというのに。
 男たちの反応は想定内だったらしいホーバーは意にも返さず、メルが「喜んで」と答えるのを待って、すっと立ち上がった。
「じゃあ、三拍子の曲ってことで」
 流れるようにメルの左手に自分の左手を重ね、顔の横まで持ち上げる。するとメルも、糸で操られた人形のように、右手をホーバーの右腕に宛がった。ホーバーがメルの腰に手を回し、風に舞うようなステップを踏む。
「おお」
 メルが感心したように声を上げる。その間にも、両足は複雑なステップを刻みながら、板床の上で滑らかに動いた。
「待っ、もう駄目、息できね……っ」
「優雅すぎるんですけど! 優雅なホーバーって何それ無理……!」
「助けてくれぇえ、苦しい、腹が笑い裂ける……っあはははは!」
(すてき……)
 男どもが累々と転がる死体と化し、女たちの苛立ちがピークに達する中、キャムの頭の中には聞きかじったことのある、美しい円舞曲が流れはじめていた。
 バクス帝国の領海内にある名もない小島で育ったキャムだが、島には貴族のための避暑地があり、宮殿もかくやというほどの豪華な屋敷が並んでいた。屋敷では毎晩のように宴が開かれ、ひそやかな笑い声とともに、優雅な音楽が漏れ聞こえてきた。
 屋敷の中では、きっと着飾った娘たちが素敵な男性に手を引かれ、踊っていることだろう。華やかなドレスに身を包み、スカートの裾を花のように広げながら。
 今、頭の中に流れているのは、あのとき憧れた円舞曲。キャムの視界の中で、花びらと光の結晶、美しい精霊たちが舞いはじめた。もちろん妄想だが、それほどに二人のダンスは華麗だった。息はぴたりと合い、寄り添う姿は物語の中に出てくる王子様とお姫様のよう。男たちが笑い転げる中で、女たちが「やかましい!」と怒鳴る中で、キャムはただただ夢の円舞曲に身を委ねた。
「すごいっスねえ、メルちゃん。ばっちりじゃないっスか。人体の不思議っス」
 ギィッと、妄想上の管弦楽団が悲惨な音を奏で、キャムははっと我に返った。
 花びらも、光の結晶も、美しい精霊も、蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、傍らにはシャークだけが残る。
「へ、へへ、へ、へい……っ」
「え? おお、ヘイッ! っス!」
「違う、バカ!」
 キャムは顔を真っ赤にして怒鳴った。「平然と人の横に立つな」と言いたいのである。
 シャークはいつも神出鬼没で、いきなりすぎるからキャムはこんなに動揺する。だというのに、シャークはちっとも気にしやしないのだ。
「さあ、お前らも立て。今のをやってもらうからな」
 と、基本のステップを踊り終えたホーバーが死体たちに号令をかけた。
「立たないんスか?」
 うげえ、と言いながらも、ばらばらと立ち上がる観衆の中で、キャムは顔を赤くしたまま膝を抱えていた。
(なんでこのタイミングなのよ!)
 シャークの隣でダンスの練習をするなんて、そんなのあり得ない。こっそりこっそり練習を覗き見して、ステップを覚えて、後でこっそりこっそり練習しようと思っていたのに。――いやいや、そうではない。ホーバーが馬鹿らしく踊る様を見て、笑ってやろうと思っていただけだ。本当にただそれだけで、決して練習しようなんて思っていたわけでは。
 いつまでも立つ様子を見せないキャムに、シャークが首を傾ける。
「どうしたんスか」
「う、ううう、う」
「あ、うんこっスか?」
「うるさい!」
 勢いに任せて、キャムは立ち上がった。それだけのことで、もうぜぇぜぇと息が切れてしまう。
「わ、分かったわよ、や、ややや、やってやるんだから。踊ってやる。そうよ、踊るの! 優雅にダンスするんだから!」
「おお、やる気っスね!?」
 混乱状態で雄叫びを上げると、何故だかシャークが声を弾ませた。それが不思議で、キャムはぐるぐると目を回しながらシャークに横目をやる。すると、ずっと高い位置にある顔が、眩しく輝く光の中で、笑っていた。キャムの胸がどきりと高鳴る。
(何よ、シャークのくせに)
 手が、震える。
(そんな顔で笑わないでよ……)
「リズムは、えーと、一、二、三で一区切り。一、二、三、一、二、三……」
 声が聞こえてきた。気づくと、ホーバーダンス教室の受講者はさらに増え、キャムの位置からはもうホーバーの姿が見えなかった。どうやら足でステップを踏む練習をしているらしく、目の前の海賊たちが一斉に妙な動きを始める。
「う、ちょ、どうなってんのよ……!」
 慌てて練習の輪に加わろうとするが、前にいる船員が下手すぎた。どう見ても、蛸が八つ足を蠢かせているようにしか見えない。
「なにこれ、どうしたら――!」
 戸惑う手首を、脇から伸びた手が掴んだ。
 え、と思うよりも先に、シャークはキャムの手を引き、蛸集団の間を縫って前へ前へと突き進んだ。
「え、ま、待って、ねえ、何よ、何なの!?」
「あそこじゃ見えないっス。それに女の子のステップは男のとは違うっスから、メルの動きが見える位置にいった方がいいっス」
 説明が左耳から右耳に抜けてゆく。しっかりと掴まれた手首が熱い。痛いほどの力に、「離して」と突っぱねることも忘れる。
 意識が勝手に、シャークの指の感触をたどりはじめた。キャムの痩せた手首を、力強く握る親指。少し手の甲にかかった人差し指の、骨ばった感じ。中指が、手首の骨に当たって、歩くたびにぐりぐりする。薬指は、小指は、少し汗ばんだ掌は――シャークの、手。
 頭が真っ白になっているうちに、キャムはログゼとミンリーの傍ら、メルからもなかなか近い位置まで連れて来られていた。
「キャム! いっしょ、練習するノ。がんばろうネ!」
 一生懸命に足を動かしていたミンリーが、キャムに気付いて、少し汗ばんだ顔を輝かせた。ミンリーの穏やかな微笑みが、キャムの極度の緊張をわずかに解く。
 彼女の足元を見ると、細い両足は下手くそなステップを刻んでいた。ミンリーも、ミンリーの向こうで見よう見真似に足を捌くログゼも、滑稽なほどに下手だった。――二人とも、好きな人と踊りたくて頑張っているのだ。
「う、うん」
 気づけば、キャムは素直にうなずいていた。
 シャークはとっくに手を放していて、何故だかメルのステップを真似して、「シャー子、頑張るっス!」と勇み、周囲からブーイングと爆笑を頂戴していた。
 おぼろげな明かりの下、船員たちは大騒ぎしながらダンスの練習に励む。彼らの顔は思いのほか輝いていて、キャムの気持ちも高ぶってゆく。おどおどと手足を動かすと、そのうち恥ずかしさも吹っ飛び、勝手に、手が、足が、動きはじめた。
 笑い声が零れる。
 楽しかった。久しくなく、心が躍った。
 メルの教え方も上手くて、何とか様になってゆく。
 まだ相手のいない空っぽの両手。
 調子に乗って、そこにシャークがいることを想像してみる。
 あさってのお祭りの夜、この腕の中にシャークがすっぽりと収まる。正確には、シャークの腕の中に、自分が収まるのだ。かなりの密着度。腰にはシャークの手。さっき感じて、覚えたばかりの大きな掌。骨ばっていて、皮が厚くて硬くて、荒れていて、痛いぐらいに強い力の――。
(どうすんの、それ……!)
 キャムは恐怖と興奮の入り混じった悲鳴を噛み殺し、必死でステップに専念する。だが思考はどんどん逸れてゆく。一緒に踊る約束なんてしていない。だが約束なんてなくても、当日、勇気を出して「一緒に踊って」と言うことはできる。ノリの良いシャークのことだ、きっと彼は「いいっスよ」と笑って踊ってくれるだろう。「馬子にも衣装っスね」とドレスを馬鹿にしながら、「女の子役でもいいっスか?」なんて馬鹿みたいなことを言いながら、キャムを怒らせるのだ。
 それも、悪くない。思っていたほど、悪くはない。
 きっと、周りは良い雰囲気だろう。船員同士で付き合っている人たちは少ないけれど、ミンリーとログゼの傍で踊ったら、もしかしたら二人の雰囲気が感染するかもしれない。
 踊りながら、もっと寄り添ってみたり。
 重ねた手を、絡めてみたり。
 ――キス、したり。
 今度という今度は、キャムも奇声を上げた。両腕をぶんぶんと振り回して、よからぬ妄想を頭から吹っ飛ばす。シャークとキスだなんて、無理すぎる。妄想でも無理だ。無理といったら無理で、無理で、無理なのだ。
「難しいネ」
 不審な行動を取るキャムを、ミンリーはダンスの難しさのせいだろうと解釈して、微笑んだ。はっと周囲を見渡すと、船員たちはそれぞれ頭を抱え、「何だこりゃー!」と同じように手を振り回し、その場でもどかしげに足踏みしていた。それをホーバーが楽しげに、というよりざまあみろと言わんばかりに笑って見ている。
 底意地の悪い男、と呆れて、キャムは少しだけ落ち着きを取り戻した。
 そしてまた、ステップの確認をしようと自分の足元に視線を落とし――、
 す、と血の気が引いた。
「どうかしたっスか?」
 不自然に凍りついたキャムを不審がり、シャークも動きを止める。キャムは答えず、自分の足元を食い入るように見つめていた。
 そこには、シャークとキャムの、二人分の影。
 近くに置かれたカンテラの光を受け、二人の影が長々と甲板に伸びている。
 必要以上に伸びあがった影は、二人の身長差を、容赦なく浮彫りにしていた。
 まるで、小人と巨人。まるで、大人と子供。
 何を、浮かれていたのだろう。
 キャムは冷え切った心の底で、自分を嘲った。ダンスを練習したからといって、何なのだ。最初から分かっていたはずだ、だからずっと落ちこんでいたのにどうして忘れていられたのだ。
 自分にドレスは似合わない。悲しいぐらいに子供体型の自分。
 三拍子の円舞曲を踊るには、お互いの左手を重ね、顔の横まで持ち上げる。キャムの右手はシャークの右腕に、シャークの右手はキャムの腰に。身長差もさほどないホーバーとメルなら様になるだろうが、キャムとシャークでは、きっと親子のようにしか見えないのに。
「キャム!?」
 足が勝手に走り出した。練習にいそしむ船員たちを押しのけて、脇目も振らずに船室へと駆ける。開いたままの扉に飛びこみ、数段だけの階段を駆け下りて、
 そこで背後から腕を掴まれた。
「どうしたんスか!? 何かあっ――」
 キャムは、後を追ってきたシャークの頬を、振り向きざまに引っぱたいた。
 トレードマークの丸眼鏡がずれた。シャークは呆然と、キャムの顔を見つめた。
 キャムは苛立った。馬鹿みたいな面。なにも分かっていないのだ。キャムとの身長差を悩んだりもしていない。自分がキャムに見合わないのではないかと、苦しんだりもしていない。
 ひとりで浮かれて、妄想の中のシャークと踊って喜んで、馬鹿みたいだ。
 憎たらしくてたまらなかった。憎くて憎くて、たまらなかった。
「あんたなんか、一生へらへら笑って、女のステップ刻んでいればいいのよ!」
「キャム……」
「そうやってずっと能天気に、にやけてればいい……!」
 キャムは叫んだ。
「大嫌い! 死んじゃえ!!」
 ぱ、と掴まれた腕が離される。いきなり支えを失い、キャムは廊下にどっと倒れた。
「そうスか。じゃあ、いいっス」
 痛みで少しだけ冷えた頭を階段の上に向けると、明かりを背に立つシャークの影が、そんなことを言った。
 じゃあ、いいっス。
 って、なに。
 キャムが混乱しているうちに、影は身を翻して去ってゆく。無情なほどあっさりと去ったその先から、船員たちの楽しげな笑い声が聞こえてきた。
 涙が、ぽたり、と床を打った。
 キャムはみっともなく震える両手で口元を押さえ、込みあげる嗚咽を殺した。力の入らない両足で床を蹴り、尻餅をついたまま、船内の暗がりへと逃げる。
 大嫌い。死んでしまえ。
 ――私なんか。

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