虹の翼

10

 うわーん……。
   うわーん……。

 真っ暗な闇の中で、幼い頃の自分が泣いている。
 暗くて、誰もいない夜。セインはひとりぼっちだ。

  うわーん……。
     うわーん……。
         …………。

 セインは顔を上げた。目の前にいたのは、柔らかな輝きを放つ小さな光。
 少年は精霊を追って、海岸を走りぬけ、雑木林を抜け、広場を目指した。幾度も転びそうになりながら、そのたびに動きを止める光の精霊に励まされ、必死に走った。
 そしてとうとうセインは、天幕のある広場までたどり着いた。
 天幕の外で出番待ちをしていた道化師や猛獣使い、それに精霊の羽を生やした少女が、セインに気づいて顔を上げた。
『泣いているの……?』
 少女がためらいがちに声をかけてくる。セインは恥ずかしくて唇を噛んだ。
『な、泣いてないよ!』
 少女ははにかんだ笑顔を浮かべ、手招きをした。団員たちは、力なく近づいてくる赤い目をした少年ににこりと笑いかけると、おもむろに芸を披露しはじめた。
 ひょいひょいと手の中で自由自在に跳ね回るお手玉、愉快な音をたてるアコーディオン、巨大な玉の上で宙返りをする道化師。
 そして側にはずっと笑顔で手を叩く少女。
 少女の傍らでくるくるとあの光が踊る。ほのかな光のなかで微笑む少女はとても可愛かった。気づけばセインはサーカスに間に合わなかったことも忘れ、少女の笑顔に見とれていた。

 時が止まったような、あの穏やかな夜。
 すっかり忘れていた。
 その後に起きた出来事に塗りつぶされ、悪夢と一緒に忘れ去ってしまっていた。
 せめてあの優しい記憶だけでも忘れずにいられたなら、あの時の少女の笑顔を、自分の笑顔を忘れずにいられたなら、このねじれた性格ももう少しマシになっていただろうか。

「ん……」
 ラギルニットは心地よいリズムで揺られている自分に気づき、ゆっくりと目を開けた。
 ぼんやりしていた視界が晴れてゆく。やけに明るいなと目を瞬かせた少年は、自分を取り巻くとんでもない状況に気づいて、勢いよく顔を上げた。
「うわぁ!?」
 目も眩まんばかりの七色の光が、地面いっぱいに輝いている。
 そこはなんと、虹の橋の上だった。
「お、おれ、虹の上にいる!?」
「よくそんな余裕ぶっこいて喜べんなぁ。ここがどこか分かってんのか? 空の上だぜ?」
 慌てて声のした方に目を向けたラギルニットは、ぶらぶら揺れる左足の下の方で、呆れたような、それでいてほっとしたようなレックの顔を見つけて目を丸くした。
「あれ、レックが縮んだ」
 しかも何故だかレックときたら、顔は青アザだらけで、髪は砂まみれのぼさぼさだし、服もあちこち破れて、血までついていてる。歩く姿もびっこをひいていて、いかにも辛そうだ。
「だ、大丈夫? どうしたの?」
 レックはちらりとラギルニットを見上げ、「一仕事してきたの」と意味ありげに両手を広げてみせた。
 目をぱちくりさせながら、ラギルニットはいつもより遠くに感じる地面を、改めて見下ろした。虹の地面は半透明で、はるか真下に家々の灯火がぽつりぽつりと見えた。興奮がまた蘇ってきて、ラギルニットはじたばたと手足を振るわせた。
「すごーい!」
「っおい!! さっきからあんまり騒ぐな、落ちるだろーが!」
 思わず万歳までしかけたラギルニットは、突然目の前に現れたセインの顔に、声もなく飛びのいた。いや、飛びのくことはできなかった。
 ラギルニットはようやくセインに背負われていることに気がついた。
「っうわぁあ――!? セイン!?」
「耳元でわめくんじゃねぇ!」
 思い切り嫌そうに言われて、ラギルニットはぴたっと口を噤む。しかし、セインが、あの子供嫌いのセインが自分を背負っているという恐ろしい事実を知って、喋るなという方が無理である。
「ど、どうしてセインがおれを負ぶってるの!? なんで虹の上にいるの? サーカスは? テスは? なんでレック怪我してるの!?」
「……いつから気絶してたんだ、こいつ」
「最初からデース」
 声をひそめてやり取りするセインとレック、その様子がやけに仲良しに見えて、ラギルニットはますます驚いた。
「仲良しさん!?」
「は!? 仲良くねぇ、ふざけんな!!」
「冗談じゃねぇ誰がこんな変態エロ魔人と!!」
 だがそうして揉める声にも、いつもの刺々しさがないように感じられた。
 何故だろうか、セインの表情や態度がいつもより穏やかに思えるのだ。
 ラギルニットは微妙なその変化を感じ取って、まじまじとセインの横顔を覗きこんだ。セインは舌打ちしてラギルニットを横目だけで振りかえると、いきなり歯切れ悪く言った。
「……まあ……無事でよかった……つーか」
 ラギルニットはただでさえ大きな瞳を極限まで見開いて、あわあわと手を振り回した。
「セ、セイン、どうしたの!?」
「うるせぇな人がせっかく優しくしてやってんのによ!!」
 セインは怒りでか羞恥でか、あるいは照れくささからか、カァッと顔を赤くすると、もごもごと口の中で文句を言い始めた。
「……優しく、だって。セインが」
 ラギルニットは訳が分からずに、セインの紅潮した横顔を見つめた。
 眠っている間にいったい何があったのか、そもそも何故自分は眠っていたのか。分かることは、その間にどうやらささやかな願い事は叶ってしまったらしいということだ。
 セインとだって仲良くなりたい、その小さな願い。
「えへへ、変なの……」
 ラギルニットの顔が、花開くようにほころんでゆく。
 嬉しくて、むずがゆくて、でも少しだけ怖くて、少年は散々悩んだすえに、その大きな背中にぴとっと頬を寄せた。
「やさしいセインは不気味だけど……でも、嬉しいや!」
 その嬉しそうな笑顔を背中に感じて、一方のセインは顔をしかめて沈黙した。
 いつもならば気色悪いだの虫唾が走るだの何だの言って、振り落とすか蹴り落とすかするところなのに、今はただされるがままになっている。
 セインは先ほどの女との会話を思い起こしていた。

「その光、あんたのだったんだな。ガキの頃も、それが何なのか分からずじまいだった」
 セインは自分をここまで導いた小さな光を見つめて、女に言った。
「私たちサーカス一座は、”光の一族”と呼ばれているの。光の精霊の力を借り、自由に光を操ることができるのよ。さっきの閃光も、この虹の橋も、その力で造りだしたもの……」
 女が手のひらを差し出すと、光の精霊がふわりとそこに収まった。手を握り、ふたたび開いたときには、もうどこにもいなくなっている。
 女は素直に感心した様子のセインに、優しく目を細めた。
「いつか、あなたにまた会えたらと思っていたわ……」
 その言葉に、セインは改めて女を見つめた。
 七色に輝く虹の翼を背に生やした女。
 その姿に、いつかの精霊の羽を持つ少女の姿が重なる。泣きじゃくる幼い頃のセインを、必死に慰めてくれたあの少女だ。
 美しくなった。一目では思い出せぬほどに大人びた。だがそれでも、はにかんだ笑顔には、遠い記憶の面影が残っている。
「本当はあの時、泣いていたのは私だったの」
 女は幼い頃を思い出すように目を伏せた。
「緊張して、思うように光が操れなくて、あの日の舞台が初演になるはずだったのに役から外されてしまった。天幕から逃げ出して、泣きながら歩いていると、やっぱり同じように泣いていた男の子を見つけた。とても悲しそうで、迷子なんだってすぐに分かった。でも話しかけるのは恥ずかしくて……」
 女は思い出を愛しんで小さく笑い声を零す。
「だから光の精霊を送って、あなたを天幕まで導いたの。どうにか元気になってほしくて、気づいたら自分が泣いていたことも忘れて、サーカスで披露するはずだった光の魔法を必死に操っていた。あなたは私の操る小さな光に大喜びしてくれた。……翌日の初舞台は大成功だった」
「……そうだったのか」
 セインは苦笑する。幼い頃の穏やかな気持ちが、心地よいくらい胸に溢れてきた。
「パレードのとき、精霊があなたが来ていることを教えてくれた。だから今日もあなたが来てくれるんじゃないかって……ずっと待っていたの」
 だがセインは現れず、かわりにセインの名前を口にする少年二人、ラギルニットとレックを見つけた。そして彼らが怪しげな男たちに連れ去られるのを目撃してしまったのである。
「間に合ってよかった……」
 労わりの眼差しにつられて背後を見ると、うっとりと美女を見上げるレックと、レックに助け起こされ、それでもまだ目を覚まさないラギルニットがいた。
 それをセインはいつもとは違う気分で見つめた。
「……ああ、助かった。あんたのおかげだ」
 素直にそんな言葉が口をついて出る。女が悪戯っぽく微笑んだ。
「いいえ。私は子供たちをサーカスに連れて行こうと虹の橋を作っただけ。あの人たち、まさかあんなに驚くなんて……考えもしなかったわ!」
 そして女はゆっくりと瞬くと、秘密を打ち明かすように声をひそめた。
「セイン、その子たち……」

 物思いに耽っていたセインに、「そういえば」とレックが口を開く。
「セイン、何で俺たちの居場所が分かったんだ? まさか探してくれたわけじゃないだろ?」
 セインは途端に苦い顔をして、溜め息まじりに頭を掻いた。
「んなわけあるかよ……。ただ、光が……」
 そこで口を閉ざし、苦悩の表情で額に手を押し当てる。
 言えるわけがない。まさか光の精霊に導かれたんですなんてロマンチックなこと。
 だが曖昧に濁すセインに、レックは見当違いににやりと笑った。
「わかった。やっぱりあんた、本当はサーカスに行きたくって、俺たちの後ついてきたんだろう」
「な……!」
「うわ!? そうなの!? そうだそうだよ、絶対そう! 一緒に行こう! おれたちと一緒にサーカスに行こうよ!」
 事実無根な発言に、ラギルニットがはしゃいでセインの首に抱きついた。
「それとも……やっぱり……おれたちと一緒にサーカス行くの、いや?」
 衝撃のあまりに絶句していたセインは、顔を曇らせるラギルニットと、どこかふてくされた様子のレックを見下ろした。
『その子たち、あなたのために風船をもらっていたの』
 女が教えてくれた秘密の話が耳によみがえる。
『風船は空へ飛んでいってしまったけれど……あなたをとても大切に想っているのね』
 馬鹿らしい話だった。風船なんてくだらないものなど別にいらないし、そもそも何かの悪戯を企んでいたに決まっているのだ。
 だがそれでも、セインは心に暖かな何かが広がっていくのを感じた。
 そしてそれは、案外心地のよい感情だった。
 見下ろしたラギルニットの顔に、かつての自分の泣き顔が重なって見える。
 父と母、仲良しだった孤児院の少年とたくさんの兄妹たち。
 大好きだった彼らと一緒に見ることが叶わなかった、サーカスの舞台。
(見てもいいかもしれない)
 セインは思う。
(このクソガキどもと一緒に……)
 並んで座り、幻想的な夢の舞台に歓声を上げる。その様子を想像して、セインは口元を笑わせた。

「……そうだな。一緒に行くか、サーカス」

 不器用なその笑顔に、ラギルニットとレックが顔を輝かせた。
 虹の橋は緩やかに弧を描き、眼下に広場に張られたサーカスの天幕が見えはじめる。
 セインは確信していた。
 きっと、あの子供が泣く腹立たしくて悲しい夢は、もう見ない。

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